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マルちゃんの屈辱

 

 一九三九年、アメリカのオレゴン州に創設され、第二次世界大戦後より自社製ナイフの製造をはじめたガーバー社は、いわゆるナイフ作りの名門ファクトリーだ。そこで作られる「マルチプライヤー」は、アウトドアをやる人たちの間では銘品として知られ、日本でも愛用者は多い。ひたすら頑強なこのツールは、ペンチのグリップ部分からナイフ、缶切り、ドライバー、ヤスリといった、様々なものを引き出して使える、名前どおりマルチなプライヤーである。冷たくて重いその質感、そして無骨なフォルムは見るからにワイルドで、セクシーな男っぽさを感じさせるのがいい。

 ぼくがマルチプライヤーの存在を知ったのは学生時代のことだった。たまたま開いたアウトドア雑誌に広告写真が掲載されていたのだ。それを目にした刹那、なんだか切ないような気分になったのを覚えている。いわゆる一目惚れ。鈍く光る鋼のツヤとハードボイルド感を漂わせるそのフォルムに、くらくらしてしまったのだ。当時の値段は一万五〇〇〇円くらいだったと思う。しかし、いつもお腹と背中がくっつきそうだった学生時代のぼくにとって、それは高嶺の花で、よく立ち寄ったアウトドアショップのショーウィンドウにおでこをくっつけては、うっとりと見とれていたものである。

 それから約一年後、長い野宿旅から帰って、骨と皮だけになっていたぼくは、最新のアウトドア雑誌に目を通していた。するとモノクロの広告ページに、新宿にあるアウトドアショップのバーゲン情報が掲載されていた。見るともなく見ると、そこには夢のマルチプライヤーが半額近い値段で出ていた。一も二もなく、ぼくは新宿に飛んでいき、ようやく福沢諭吉ひとりで買える男のロマンを成就させたのだった。

 ベルトに装着するためのケースはナイロン製だった。残念ながら本革ケースを買えるほどの持ち合わせはなかったのだ。しかし、手にしたそのツールは「本物」という形容がふさわしい、ズッシリとした重厚感を備えていた。リアルな重さ、研ぎ澄まされた金属の冷厳さは、かつてグアム島で試射したマグナムを彷佛させた。

 その日以降、ぼくは、まくら元におもちゃを置いて眠る子供さながらに、いつも腰にマルチプライヤーをぶら下げていた。バイトや大学の授業に行くにもそれをつけて歩き、「何か使う機会はないかなぁ」と思案していたのだが、悲しいかな、便利すぎる都会の生活では、それはまったく無用の長物なのだった。

 困ったのは、ぼくの腰を指差して、

「万歩計つけてるの?」

 と笑う輩があまりに多いことだった。バーゲン品といえども、男のロマンを軽々しく万歩計だなどと言われると、さすがに悔しいので、思いきって清水の舞台から飛び下りた。本革ケースも買ってしまったのだ。おかげで、しばらくの間、学食ではカレーばかり食べるハメになった。

 ある日、空腹をこらえつつキャンパスを歩いていると、友人に声をかけられた。某会社の御曹司である。そいつは誕生日プレゼントに親から外車を買ってもらったり、コンビニで買い物をしたことがなかったり、ボンカレーを知らなかったり、初対面の人を「貴様」と呼んだりして、そのあまりの温度差にいつも周囲を驚かせていた超セレブだ。しかし、御曹司はぼくの腰を見て、こう言ったのだ。

「おっ、なかなか渋いケースだな」

 やはり、分かる奴には分かる。

 ぼくは逢いたかった旧友にようやく出会えた気分になって、

「だろ。渋いだろ。ちょっと見てみる?」

 と、おもむろに中身を取り出して、手渡した。

「おおお、格好いいな。この重さがまたいいぞ」御曹司は真剣にマルチプライヤーをいじくりまわしながら続けた。「こういうのは男のロマンだよな。でも、俺はてっきり万歩計が入ってるのかと思ってたぞ」

 大金持ちは万歩計も本革ケースに入れるのだ、きっと。

 

 それからしばらく経ったある朝のこと。

 布団のなかで目覚めると、開けっぱなしにしていた部屋の窓から、花の香りが溶けたような、まあるい春風が吹き込んできた。

 その「風」は明らかに意志をもって、寝起きの悪いぼくをフィールドに引きずり出そうとしていた。そしてしばらくの間、「風」と「布団」がぼくを引っ張り合った。

 勝利の女神は「風」に微笑んだ。

 ぼくは電話をかけた。

「悪りいけど、また代返よろしく」

 大学の友人に用件だけを伝えて、新品のままのマルチプライヤーを腰にぶら下げ、そして、ややポンコツ気味のバイクにまたがる。当時のぼくの愛車は赤いオートバイだった。ホンダのGB250クラブマンという単気筒のバイクで、北海道から九州まで幾度となく旅をともにした可愛い鉄のお馬さんである。

 目指すは、房総半島の山奥。ぼくは勢いよくスロットルを開けて、春風のなかに飛び込んでいった。

 それにしても、ようやくフィールドでマルチプライヤーをデビューさせられる日がやってきたのだ。たくさん使って、グリップに手あかをじっとりしみ込ませ、道具としての風格をつけてやろう。ついでにセリやクレソンといった春の山菜をマヨネーズ和えにして、ビールをたらふく飲んで、川原でのんびり昼寝をして、夜になったら、うん、また飲んじゃおう……という、自堕落まっしぐらなイメージを脳裏に浮かべつつバイクを走らせる。

 平日だから道も空いていて、走りも爽快だった。たいくつ極まりない授業と、爽快極まりないツーリングとを頭のなかで天秤にかけ、ムフフ、とひとり優越感に浸る。

 しばらくすると、もう何度も入ったことのある田舎のハンバーガーショップが見えてきた。そこで朝食を摂ることにした。店内の客は、ぼくひとりだった。ハンバーガーふたつにポテトとオレンジジュースを平らげた。

 で、すぐにウンコをしたくなった。

 余談だが、ぼくはロケットペンシル(知ってるかな?)みたいな体質の持ち主なのだ。口から飯を押し込むと、すぐにその分だけ下から押し出されるというシンプルな仕組みになっているのである。

 このハンバーガーショップのトイレは店の外にあった。ぼくはせかせかと店を出て、建設現場によくある簡易タイプの個室に駆け込んだ。しかし、困ったことに、トイレのドアがしっかりと閉まらない。見ると、蝶番がバカになっているうえに、スチールのドアそのものが全体的に歪んでいるではないか。きっと、やんちゃな誰かさんがドアを蹴って壊したのだろう。仕方なく、ぼくはドアを蝶番側に思いきり引き上げながら、そのまま強引にノブを引いた。そうしたら、ドアは閉まった。

 鍵もひどく固かったので、これも力任せにかけた。

 ギギギ……ガチョ! と鳥肌が立つような金属音がしたけれど、とにかくホッとして和式の便器にまたがった。

 スッキリと用を足し、水を流し、ズボンをはく。

 そして、振り返ってドアの鍵を開けようとして、ゾッとした。

 う、嘘だろ……。鍵が開かないのである。

 その鍵は指でつまんで捻るタイプのものだった。ぼくは素手で何度も力を込めたが、回らない。つまんだ人さし指が痛くて、思いきり力を加えられないのだ。指にハンカチをあてがったり、ジャンパーの袖をあてがったりもしてみたが、鍵はびくともしない。仕方なく、閉めたときと同様に、ドアノブを蝶番の方に引っ張りながら再度挑戦してみた。しかし、鍵はまるで溶接でもしたかのようにびくともしないではないか。

 ぼくは、完全に便所に閉じ込められてしまったのだ。

(だ、大丈夫だ。きっと打開策が見つかるはずだ)

 自分自身に言い聞かせた。そして、こんな時こそ冷静にならねばと、ゆっくり大きく深呼吸をした。

 すー、はー。

 しかし、その行為は、単に公衆便所のウンコの臭いを力いっぱい嗅いだに過ぎなかった。嘔吐をこらえた涙目のぼくは、それから考えつくすべてのことを試みたが、すべては徒労に終わった。

 ど、どうしよう……。背中に冷や汗が吹き出してきた。

 ドアの下の方には、帯状に並んだ通気のための細長い穴があいていた。その穴から、外の光がわずかに射し込んでいる。

 ああ、たった数ミリのスチールを隔てた向こう側は、新鮮な朝の空気をたたえた娑婆の世界なのだ。さっきまでのぼくは、向こう側の住人であり、心をときめかせたツーリングの最中だったのに、いまは悪臭と閉塞感に押し潰された便所の住人だ。

 こうなったら最後の手段。ドアを蹴破ってしまおうか。

 ぼくは蹴り足の右足を上げた。が、しかし、考え直した。狭すぎるのだ。助走なしではスチールのドアを蹴破れるはずもない。蹴れば、自分が後ろにはね飛ばされて、汚れた和式便器に尻餅をつくのがオチだろう。

 目の前に立ちふさがる、歪んだスチールのドア。

 ふいに、このドアを蹴ったであろう輩の気持ちが分かる気がした。そいつもきっと、閉じ込められて、仕方なくこのドアを蹴り、スチール板を歪ませたのかも知れない。だとしたら、このぼくと同じ恐怖を味わった同志ではないか。しかも奴はこのドアを蹴ったがために、哀れ便器に尻餅をついたのだ。

 ぼくはうっかり妄想の人物に同情をしかけたのだが、しかし、よくよく見ると、ドアの凹みは外から蹴られたものだと気づいた。つまり、そいつは蹴っただけで、閉じ込められてはいないのだ。そしていま、ぼくがこんな目にあっているのは、もしかしたらそいつのせいかも知れない。考えたら、なんだか腹が立ってきた。

 ドアを叩いてみる。誰か気づいてくれないだろうか。しかし、トイレは店からけっこう離れているし、朝早いこともあって、人通りも期待できそうになかった。考えてみれば、ハンバーガーショップの客だって、ぼくひとりだったのだ。

「お~いっ、誰かっ!」

 駄目もとで、腹の底から吠えてみた。

 しかし、予想どおり外界には何の反応も見られなかった。

 ため息をついて、何気なくトイレの屋根を見上げると、採光のためだろう、そこだけ半透明のFRP(?)になっていた。ジャンプして殴れば、屋根は壊れるだろうか。いや、まさか。万一、壊れたとして、いったいどうやって登ればいいのだ。そのときは、なにかロープ代わりになるものが必要になるはずだ。

「ん……、ロープ?」

 ぼくの視線は、自然と腰のベルトに注がれた。そして視界が急に明るくなった気がした。光明が見えたのだ。

 そう、ぼくの腰には美しくも重厚感あふれる、あの男のロマンがぶら下がっているではないか。このペンチでつまんで捻れば、どんなに固い鍵だって回るはずだ。

 ぼくはずっしりと頼りがいのあるツールを手にした。ペンチの先をガチャリと振り出す。そして、ドアの鍵をそのペンチで挟もうとしてー。

 ためらった……。

 マルチプライヤーのデビュー戦が、この便所でいいのだろうか。爽やかな春風のなかで使い勝手を堪能するはずが、糞尿の臭いにまみれた公衆便所になってしまうなんて。しかも、閉じ込められたなどという格好悪さ極まる状況からの脱出のために使うなんて。これじゃあ男のロマンもへったくれもない。あんまりだ。

 さらに、デビュー戦でいきなり他人の大腸菌をつけてしまうなんて、絶対にあり得ないっ!

 ぼくはもう一度、手のなかのマルチプライヤーを見詰めた。

 つくづく、そいつは新品だった。腹が立つほどに、汚れひとつないのだった。しかし、背に腹はかえられない……。とにかく、ここから脱出しないことには、清々しい春のフィールドにたどり着くことすらできないのだから。

「ごめんよ、マルちゃん……」

 ぼくは哀れなツールを愛称で呼び、赦しを請うた。そして、悪霊を振り払うように、エイヤッ! とペンチを鍵にかけた。

 嗚呼、いまこの瞬間、誰かの肛門から出た大腸菌が新品のマルちゃんについたはずだ。

 痛む胸に気づかないふりをして、鍵を捻った。

 鍵は、ゴキキキキ……と嫌な音を発し、続いてガンッ、と鳴った。

 回った。しかも、笑ってしまうほど簡単に。

 ドアノブを捻り、軽くドアを蹴った。まぶしい朝の光と、春の甘い空気がなだれ込んできた。ぼくは無実の罪で閉じ込められていた牢獄から出所したような、嬉しいような腹が立つような中途半端な心境で、うららかな娑婆へと放たれたのだった。歩き出した足はどこか現実味を失っていて、微妙にふわふわしていた。

 再びオートバイにまたがって、エンジンをかけた。腰の本革ケースに戻したマルちゃんはもはや戦友だった。大腸菌なんて川で洗い流してしまえばいいさ。ぼくはとりあえず脱出成功の祝杯に必要なビールを求め、酒屋に向けてアクセルを開けたのだった。

 

「あおぞらビール」は全4回で連日公開予定