日本一短い川下り(前編)
はじまりは、一本の電話だった。
「おっす。森沢さ、コンドームのオカモトゴムって知ってるよな?」
受話器の向こうは、高校時代からの悪友、岩井だ。
「え? そりゃあ、知ってるけど」
「アレが、どれくらい伸びるかは知ってる?」
「数値までは知らんけど、かなり伸びるし、丈夫らしいな」
岩井の満足げな吐息が、受話器の向こうから聞こえてくる。
「じつは俺、オカモトゴムのボートを買ったんだよ。こいつで川下りしようぜ」
「おっ、リバーツーリングか、いいねえ」
これ、大学生時代の会話である。当時のぼくは金欠で、カヌーという高価な遊び道具を買えずにいた。でも、「リバーツーリング」という言葉には、背筋がぞくぞくするような憧憬を抱いていたのである。岩井からのお誘いは、そんなぼくにとってまさに渡りにゴムボート(船!)であり、話はトントン拍子でまとまった。
岩井は受話器の向こうで切々と新品のゴムボートについて講釈をはじめた。いわく、オカモトゴムのコンドームの品質は世界一であり、その会社が作るボートであれば、いかなる荒瀬であろうとも楽々と乗り越えられるはずだ、という。
なるほど、そうきたか。
ぼくの頭のなかには、激流に突き出した岩にぶつかっても、ビヨヨヨ~ンとはずむだけで、決して破れない、ピンク色のゴムボートのイメージが去来していた。冷静になって考えれば、コンドームは薄さが売りなのであって、ゴムボートとはまったくコンセプトが違うということに気づくはずだが、そのときのぼくは「リバーツーリング」という言葉の冒険めいた響きに、妙なくらい夢を見させられ、遠い目をして惚けていた。
で、どこの川を下る?
電話の向こうとこっちで地図をめくりながら検討し、結果、夷隅川に決定した。夷隅川は房総半島の山中から蛇行をくり返しながら太平洋へと注ぐ小さな川だ。お世辞にも「清流」とはいえないが、天然記念物のミヤコタナゴが生息しているというと、マニアは膝を打つ川である。短い川だが、ぼくらはのんびりと二泊三日をかけて下ることにした。
季節は十月。紅葉狩りにはまだ早く、川で泳ぐにはちょいと遅いけれど、一年でもっとも快適にキャンプできる時期ではある。川下りの途中、きれいな流れ込みでも見つけたら、沢登りをして、サワガニや川エビをつまみに「あおぞらビール」という楽し気なアイデアも浮上した。
その週の金曜日、日の出と同時に川に漕ぎ出すべく、ぼくらは岩井の車に乗り込んで、夜のうちに出発した。車は、三菱のスタリオンGSR‐VR。この名前を知っている人は、かなりのマニアだろう。なにしろ当時、国内での販売台数がフェラーリよりも少ないといわれた、とても希少価値のある(不人気車ともいう)国産スポーツカーなのだ。
ぼくらが夷隅川の中上流にほど近い、いすみ鉄道の「総元」という無人駅に到着した頃には、すでに時計は深夜を示していた。車から降りると、遠くでフクロウの声が響いた。インコの爪みたいな尖った三日月が藍色の夜空に浮かんでいる。風のない、静かな夜だった。
ぼくらは駅前ロータリー(といっても何もない)の隅っこに車を停め、トランクから折りたたみ椅子とヘッドランプを出すと、さっそく冷たい缶ビールの栓を開けて、缶と缶をぶつけ合った。
「乾杯!」
前夜祭のはじまりだ。
それから、どれくらいの時間が経っただろう……ビールからウイスキーにモードチェンジをして、すっかり酩酊していたぼくらは、ふいに暗闇のなかに人の気配を感じとった。闇に目を凝らすと、四〇がらみのおっちゃんの姿がぼんやりと浮かんだ。おっちゃんはおぼつかない足取りでこちらにやってくる。時代めいたスラックスに、よれよれのTシャツ姿からすると、地元の人だろう。すぐ近くまで来ると、おっちゃんはぼくらを見下ろしながら、不審と好奇の入り交じった目をして話しかけてきた。
「あんちゃんら、こんなところで、何やってんだ?」
ぼくは面倒なことになるのが嫌だったので、「まあまあ、それについては座って話そうじゃないですか」と紙コップにウイスキーをなみなみと注いで差し出してみた。するとおっちゃんは躊躇もせずそのコップを受け取ると、地べたにどっかりあぐらをかき、黙ってグイグイ飲みはじめた。あきれるような飲みっぷりだ。
「おっちゃんは、誰なの?」
ぼくはおっちゃんの質問に質問で返した。
「あ、俺か? 俺はすぐそこに住んでるもんだよぅ。まあ、地元だな、地元。あんちゃんらは見ねえ顔だけど、こんなとこで酒飲んで、どうすんだ?」
「明日の朝、俺たちはボートで川を下るんです。二泊三日で海まで行くの」
岩井が上機嫌で言った。
「この夷隅川をか?」
「うん」
「こんなところで飲んでるのも変わってるけど、こりゃまた難儀なことするなぁ」
言いながらおっちゃんは、ぼくに向かって紙コップを差し出した。目で「おかわり」と言っている。どっぷりと注いでやった。
「ところでおっちゃん、夷隅川って川下りできる? 堰とか、ダムとか、滝とかある? 地元だったら知ってるでしょ?」
ぼくは川下りに有用な情報を得ようと矢継ぎ早に質問した。すると、おっちゃんは得意な顔で、ふふん、と鼻を鳴らした。
「知ってるも何もよぅ、俺は子供の頃、よくこの川で泳いでたもんだ。川底の石の形までぜんぶ知ってら。昔は水量もいまの五倍はあってよ、それはきれいな川だったんだよぅ」
語尾に「よぅ」とつくのは房総弁だ。
おっちゃんは紙コップ片手に少年時代を追懐し、やけに遠い目をして話すのだが、ぼくの質問にはまったく答えていなかった。ぼくはもう一度同じ質問をした。
「おお、川下りな。この川には堰も滝もなんにもねえよぅ。クネクネ曲がってるけど、それは穏やかな川だよぅ」
「じゃ、海まで下れる?」
「ああ、大丈夫だ。下流は流れがねえから、漕ぐのは大変だろうけどよぅ」
岩井と目が合った。やったぜ、と笑い合う。
それからおっちゃんは、かつて美しかった頃の夷隅川の話を切々と語り出した。それはまるで昔話を孫に聴かせるような、妙な抑揚のある口調だったので、ぼくらはまったりと聴き入ってしまうのだった。
「昔はウナギとかアユなんかもいてよぅ、それはいい川だったんだ。子供から大人まで、み~んなの遊び場だった。それが、余計なゴルフ場とか無駄な道路なんかを造っちまうから、川はいっぺんに汚れちまったんだよぅ。まったくなあ……」
やがて「語り」は、次第に汚れた川への愚痴になっていき、宴に哀愁が漂いはじめた。
しかし、よくよく話を聴いていると、このおっちゃん自身がゴルフ場建設を仕事にしていることが分かって、ぼくらは苦笑するしかないのだった。
おっちゃんが加わったら、ウイスキーが一瞬で空になった。
「俺の家、すぐそこだからよ、うちで飲み直すべよぅ。な、な」
タダ酒を断る理由など、どこにもない。ぼくらはホイホイとついていった。
おっちゃんの家は小さな二階建てだった。玄関を入ってすぐの六畳の居間に上がり込み、日本酒をあおりはじめた。舌にガツンとくる房総の酒だ。二階ではすでに奥さんと子供が寝ているというので、静かに、しんみりと飲る。
まもなく窓の外が白みはじめようという頃、おっちゃんは虚ろな目で柱の時計を見て「もう寝る」とつぶやき、這うように二階へと上がっていった。ぼくらは居間でシュラフに潜った。仰向けになると天井がぐるぐる回っていた。飲みすぎて、脳みそがアルコールに浮いているみたいだ。
岩井が目覚めたのは五時過ぎだった。揺すり起こされたぼくは、二日酔いでふらつく頭を振って、シュラフからズルリと這い出した。そして、テーブルの上に短い置き手紙を残した。
《色々とありがとうございました。後片付けもせずにすみません。ぼくらは太平洋を目指して出発します。 アディオース!》
シュラフを肩にかけて薄暗い玄関のドアを開けると、新鮮な朝の光が飛び込んできた。ぼくらは目を細めながら快晴の空を見上げ、思いきり深呼吸をした。
車に戻ると、さっそく真新しいゴムボートをトランクから出して、足踏み式ポンプでチューブに空気を入れた。二日酔いのぼくらには、これが果てしなく大変な作業で、一分ごとに顎が出てしまう。なんとか空気を入れ終えると、次は床面に木の板を敷き、さらにチューブの左右に椅子となる板を渡す。これでボートのセッティングは完成だ。二泊三日分のキャンプ道具が詰まった防水バッグをポイッとボートに放り込んで、いざ川へ。
「行くぜぃ」
「おうよ」
片足だけボートに乗せたぼくは、川岸を蹴った。オカモトゴムのボートは水すましのようにゆっくりと回転しながら水面に浮かぶ。ちなみにボートの色はピンクではなく、モスグリーンだった。
岩井とぼく、各自一本ずつオールを手にして、それをワッセと動かすと、滑るように風景が流れはじめる。
谷間の川面はまだ薄暗かったが、顔をあげれば、朝日を浴びた樹々の葉がきらきら銀色にきらめいていた。小鳥たちが一斉に歌いはじめる。ぼくらは頭上から降り注ぐ無数のかわいい音符の雨のなかにいた。
ボートはゆっくりと下流に向かって流れていく。やがて両岸が切り立った崖になると、最初の曲がり角が現れた。その先からは、ザワザワと瀬の音が聞こえてくる。
「岩井、瀬があるぞ。気合い入れていこうぜ」
「おう。でも、きっと大丈夫だよ。オカモトゴムだから」
ついつい「そうだな」と答えてしまった自分がやや恥ずかしい。
カーブを過ぎるとボートは瀬に突入した。流速がぐんぐん上がり、左右の風景が後ろへふっ飛んでいく。突き上げる激しい波の振動、頬をなぶる風、瀬音、スリル、快感。
「い~やっほ~っ!」
ぼくらはオールを頭上にかざして叫んだ。
が、しかし、尻の下からゴリゴリゴリッ、という嫌な音がしたと思ったら、いきなりボートのなかが水浸しになった。
「あううぅ~、冷てぇ~!」
尻が濡れたぼくは、情けない声を上げたのだが、岩井は言葉も発せずに硬直していた。買ったばかりの自慢のゴムボートが岩にこすれて裂けたのだ。石化するのも無理はない。
ぼくらを乗せた水浸しのボートは、そのまま瀬の勢いになす術もなく流されていき、水面から突き出た岩にぶつかってバウンドすると、くるくる回りながら中州に乗り上げて止まった。
瀬を越えたら、川はやけに静かになった。
鳥たちの歌声は、嘲笑に変わっていた。濡れたパンツが尻にぺったりと張りついて気持ち悪い。
中州に乗り上げたぼくらは、とりあえずボートをひっくり返して底の破損具合を確かめた。鋭利な刃物でスパッと裂かれたような、三〇センチほどの亀裂があり、その他にも数ヶ所、穴があく寸前の傷が見られた。破損部を指で触りながら、ぼくはつぶやいた。
「こりゃ、もう無理そうだなぁ」
「せっかく、オカモトゴムなのに。はあぁ……」
どうやら岩井にとっては、新品のボートが破損したことや、川下りがたったの十五分で終わってしまったことよりも、オカモトゴムの製品が破れたということに無念を感じているようだった。何か後ろめたい過去でもあったのだろうか。
仕方なくぼくらは中州に転がっている薪を集めて焚き火をした。火の傍らに流木を立て、それに濡れたズボンをぶら下げて乾かす。ついでに尻を焚き火に向かって突き出した。濡れたパンツを乾かすのだ。やがてぼくらの尻からは、白い湯気がもうもうと上がり、なんとも情けない絵になった。あらかたパンツが乾いたら、湯を沸かしてカップラーメンを食べた。
ところで、この中州は、崖の上を通る道路から丸見えだった。つまりパンツ一丁のぼくらは、時折、通りかかる地元の人々の好奇の目にさらされたのである。
ある老人などは、わざわざ散歩を中断し、五分近くぼくらを眺め下ろしていた。あまりにもじっと見られていたのでラーメンの味も分からなくなる。一度通り過ぎた軽トラックは、わざわざバックでもどってきて、唖然とした顔でぼくらを確認してから、また走り去っていった。ランドセルを背負った小学生たちに笑顔で手を振ってやったら、奇声を発して逃げていったし、白いヘルメットをかぶって自転車に乗った女子中学生は、視線が合った瞬間に慌てて目をそらした。
「これって、動物園の動物の気持ち?」
ぼくはラーメンをすすりながら、しみじみとつぶやいた。
「汚い川の中州にボートで渡って、半裸でラーメン喰って、しかもケツから湯気をモクモクだもん。誰でも見ちゃうわな」
哀しげに微笑みながら、岩井は続けた。
「それよりさ、ここは川に挟まれた中州で、両岸は崖だよな。しかもボートは大破。この状況を人は《遭難》って言う気がしない?」
なるほど。言い得て妙だ。もしかしたら悠長にラーメンなんて喰ってる場合ではなくて、どうやって岸に戻るかを考えるべきだろう。というわけで、ぼくらは無い知恵を結集させて、この中州からの脱出方法について話し合った。
数分後、ぼくらが出した答は、こうだ。
まずは岸まで近い側の川にゴロタ石をたくさん投げ込んで、水深を浅くして渡河する。次に、崖の登れそうなところを往復して荷物をすべて上まで運ぶ。上がどうなっているかは考えても分からないので、とにかく登る。あとは、なるようになるさ、ケセラセラ。
もはや筋肉だけに頼ったマックス・ノータリンな結論ではあったが、それがぼくらの脳みその実力だったのだから仕方がない。
ラーメンを喰い終えたぼくらは、汗だくになりながら一時間以上を費やして川にゴロタ石を投げ込んだ。しかし、いくら投げても水が濁っているせいで、どのくらい浅くなったのかが分からない。成果の見えない労働に、ぼくはいらつきはじめた。
「くそっ、もう面倒くせえ。深かったら泳いで渡ればいいじゃん」
うっかり投げやりにそう言うと、
「そうだな。俺も疲れたよ。じゃあ、さっそく森沢、渡ってみてくれ」
「え? お、俺かよ……」
「深かったら泳いで渡ればいいって言ったじゃん」
「くうぅ……」
パンツ一丁のまま、ぼくは渋々ながら水のなかに足を踏み出した。川は一歩ごとに深くなり、せっかく乾いたパンツがまた濡れた。しかし、水深はその程度で、意外にもあっさり岸にたどり着けたのだった。ぼくはそのまま崖に取り付いた。勾配の緩いところを見計らい、突き出た木や草などを手がかりにしてよじ登る。
なんとか崖の上に立つと、のどかな田園風景が広がった。
「おい、岩井、上は田んぼだ。荷物を運ぼうぜ!」
中州を見下ろして叫んだ。
それから、ぼくらがすべての荷物を運び終えるのに、ふたりで五往復を要した。さすがに息が上がったが、汚い川を泳がなくて済んだのは幸いだった。運び上げた大量の荷物はあぜ道に放ったまま、ぼくらは服を着て、不人気車の停めてある総元駅まで歩くことにした。実際に川下りをした時間は十五分もなかったから、駅まではあっという間のはずだ。
岩井の方向感覚を頼りに口笛を吹きながら田舎道を歩いていくと、単線の線路に行き当たった。いすみ鉄道だ。ぼくらは線路の上を歩き出した。線路を歩けば迷うことなく総元駅に着くからだ。しかし、歩きはじめてすぐに、ぼくらの前には鉄橋が現れた。ここを渡っているときに電車が来たら、かなりショックである。というか、死ぬ。
岩井はひざまずいてレールに耳を押し付けた。
「うん、大丈夫。電車は近くに来てないよ」
鼻をふくらませて、自信ありげに言う。
「本当に大丈夫か? 途中で電車が来たらアウトだぞ」
「これまで俺が嘘をついたことなんて、一度でもある?」
やたらとあるから心配なのだが、とりあえずぼくらは鉄橋の上を歩き出した。枕木と枕木の間には、人が落ちるのに充分な隙間があいていた。その隙間から下を覗くと、はるか下方に夷隅川が横たわっている。ぼくは高所恐怖症ではないが、それでもめまいがしそうになった。奈落の底から無気味な風がひゅうぅ~っと吹き上げてくると、タマタマが縮みあがる。ぼくらはヤジロベエのように両手でバランスをとりながら、一歩一歩確かめるようにレールの上を歩いていった。
橋のまんなかあたりまで到達すると、ふいに岩井が意味不明な言葉でわめきはじめた。耳障りだったので、いったい何をわめいているのかと訊ねたら、岩井は不機嫌そうな顔で答えた。
「お前、『スタンド・バイ・ミー』を知らねえのかよ」
驚いたことに、そのわめき声は「歌」だったのだ。
たしかに、あの名作映画にも主人公たちが線路を歩くシーンがあったが、それにしても……。
「おい、森沢、もしかして本当に知らないのか?」
さすがに我慢できず、ぼくは吹き出した。
「あのな、知らないんじゃなくて、歌だと気づかなかったの!」
「なんだ、そうか。ああびっくりした。あの不朽の名作を知らないのかと思った。俺は映画のなかではアレがいちばん好きなんだ」
岩井は真剣に安堵すると、再び名曲の続きをわめきはじめた。ぼくも岩井に負けじと大声を張り上げて歌ってみたのだが、彼の個性的な音階にどうしても釣られてしまい、とても気分が悪くなって口を閉じた。
なんとか鉄橋を渡り切ると、すぐに総元駅が見えてきた。ぼくらは岩井の不人気車に乗って田んぼまで戻り、トランクに荷物を積み込むと、そのまま南房総の海へ向けて出発した。
川が駄目なら、海で遊べばいいのである。
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