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 玄関の前に立っていた母に話しかけると、母は硬い表情になり、「しっ、大きな声を出しちゃ駄目」と立夏を強くたしなめた。
 母は立夏をアパートに残して出かけるとき、「騒いじゃ駄目」とよく云い聞かせていた。それは子供を一人で留守番させていることを近所に知られたくないからだろうと、幼いなりにうっすらと理解していた。
 けれど、あのときは母も一緒にいた。立夏が特別に大声で騒いだわけでもない。なのになぜ、母は怖い顔で、わざわざ立夏に声を出すなと云ったのだろう?
 それにもう一つ、気になったことがあった。
 出がけに母は、身をこわばらせて真剣に玄関のドアスコープを覗いていた。普段、母がそんなふうにするのを一度も見たことがなかった。まるでドアの向こうに、恐ろしい何かが存在するかのようだった。
 いや、もしかしたら、本当にそうだったのかもしれない。
 ……あのときドアの外には、母をあんなにも怯えさせる何者かがいたのでは?
 母は綺麗な人だった。きちんとお化粧をして、華やかな服装を好んでいた。立夏を置いてしばしば一人で出かけていったことや、伯母から私生活について説教をされていた内容などからも、母に親密な相手がいたらしいことはなんとなく察せられた。
 たとえば、母と関係のこじれていた交際相手がアパートへ押しかけてきたなどということはあるだろうか。大きな声を出さないよう、母が真剣な表情で立夏をたしなめたのは、娘をトラブルに巻き込みたくなかったためかもしれない。もしかすると母は亡くなった当日、その人物と共に隣県を訪れたのかもしれなかった。
 そうだとしたら、一緒にいたと思われるその人物はなぜ、母の死を警察に通報しなかったのだろう?
 母が自殺したと判断されたのは、崖の上に靴がそろえてあったことと、感情の起伏が激しい性格や生活環境が主な理由だった。母が自身の意思で飛び下りたという、明確な証拠は何もないのだ。
 あの日、母と一緒に出かけた相手が、母の死に何らかの形で関わっていたら? 母を崖から突き落とし、自殺に見せかけてもし殺したのだとしたら……?
 一度芽生えたそんな疑いは、立夏の頭からなかなか消えてはくれなかった。
 何度も、母が崖から落ちる夢を見た。夢の中で母は恐怖の悲鳴を上げ、助けて、と立夏に訴えてくる。母の身にいったい何があったのかがまるでわからなかった。真実はどこまでも霧の中だ。だからといって、幼い立夏にはどうする術も見つからなかった。

 地元の児童劇団に入ることになったのは、立夏が七歳のときだ。人前で自己表現をし、積極性を身に着けられれば、と伯母がすすめてくれたのがきっかけだった。
 母の死にずっと塞ぎ込んでいた立夏を案じてくれたのだろう。興味を持ったらまず何にでもチャレンジしてみること、と伯母は諭すみたいに云った。
「周りに遠慮なんかしなくていいの。あなたがやりたいと思ったことを、自由にやってみればいいのよ」
 正直なところ、演劇にそれほど関心があったわけではない。ただ、立夏がそうすることを伯母は望んでいるような気がしたので、云われるままなんとなく始めてみたという感じだった。
 それに……母の楽しそうな声が、少しも頭をかすめなかったと云えば嘘になる。「大きくなったら女優さんになれるよ」と、母は幼い立夏に、何度も云っていた。
 いざ劇団に入ってみると、以前よりも友達が増え、それなりに楽しいと感じることもあった。
 初めての発表会はセリフが多い役どころではなかったけれど、伯母夫婦はそろって観に来た。最後、立夏たちが舞台に一列に並んでお辞儀をするとき、客席から大袈裟なくらい拍手をしてくれた。
 九歳のときにそのオーディションを受けたのは、同じ劇団の友人に誘われたからだった。連続もののテレビドラマに出演する子役を募集しているのだという。
「運が良ければ芸能人に会えるかもよ」と、友人ははしゃいだ口調で立夏を誘った。
「一緒に受けてみようよ。なんか面白そうじゃない?」
 そう、始まりはただの好奇心だった。
 初めてのオーディションは、自分ではわりとよくできたように思えた。たぶん自分は他の子よりもほんの少しだけそういうのが得意だ、という自覚があった。
 表現力うんぬんではなく、大人が求めているものを察するのが。
 ――結論から云うと、立夏はそのオーディションに合格した。
「うっそー、やった、立夏ちゃんすごいじゃん!」
 友人が気分を害してしまわないかと不安になったけれど、彼女は立夏の報告を聞いて開口一番、そう叫んだ。
「……でも、ちゃんとやれるかどうか自信ないし」
 遠慮と本音が半分ずつ混じった言葉を口にすると、もったいない、と勢いよく返された。
「せっかく受かったのに。絶対やりなよ」
 合格した立夏よりも、彼女の方が飛び跳ねんばかりに興奮している。無邪気なその表情に、負の感情は一ミリも見当たらなかった。
 両親から溺愛され、複数の習い事に通っているという彼女はさほど演劇に執着があったわけでもないらしく、ほどなくしてあっさり劇団をやめていった。
 オーディションの結果を知った伯母夫婦はさすがに驚いた顔をしたものの、夫婦で話し合い、「立夏がやってみたいのなら」と出演に同意した。何事も経験だから、と応援してくれた。
 生まれて初めて参加したドラマの撮影現場は、大人たちが真剣な表情で慌ただしく動き回っていた。出演者には、テレビで観たことのある芸能人が複数いた。
 ものすごく緊張しながら、なんとか指示された通りに表情を作り、懸命にセリフを喋る。よくわからないことや難しいこともたくさんあったけれど、色んな人が自分を見てくれ、褒めてくれたのが単純に嬉しかった。学校のテストで満点を取ったときや、逆上がりができたときみたいな達成感があった。
 出演したホームドラマ『クローバー』は、平凡な家族であるおか家の日常を描いた作品だ。岡田家は祖母と両親、長男に長女と次女の六人家族。
 立夏が演じる末っ子の「つばさ」は、単純で向こう見ずなところもあるけれど、正義感が強くてまっすぐな性格。家族のことが大好きな少女だ。
 これはお芝居なのだとわかっていても、賑やかな家族に囲まれ、当たり前のように愛される子供になれることは、立夏の中の空白を埋めてくれた。つばさを演じている間は、幼い自分が欲しかったものに手が届いたような気持ちになれた。どこにでもいる、仲の良い幸せな家族に。
『クローバー』はオーソドックスな家族ドラマの形式を取りながらも、時にいじめやジェンダーといったセンシティブな内容や、時事的な題材が巧みにエピソードに盛り込まれ、幅広い層に受け入れられた。
 当初想定していた以上にお茶の間で人気を博し、結果、八年にもわたって放送される名物ドラマに成長した。


TAKE1 オーディション

 カメラに映らないよう、ショートカットの毛先を直す。
 妙に落ち着かないのは、少し緊張しているせいかもしれない。
 いま行われているのは、情報番組のエンタメコーナーの撮影だった。『クローバー』の最終回、二時間スペシャルのための番組宣伝だ。
 前列の椅子に祖母と両親が座り、その後ろに子供たち三人が立つ。岡田家の面々にとって、もはやおなじみの立ち位置だ。それから家族を挟む形で、準レギュラーの役者二人も後列に並んだ。
 インタビュアーからの質問に、両親役のベテラン俳優らが答えている。「放送開始時は小さかったうちの子たちが、こんなに成長して」「私らも年を取るわけよねえ」と、ドラマの内容を振り返りながらしんみりとした口調で語る。カメラの前で情感を込めた喋り方をするのは職業病みたいな部分もあるけれど、実際、彼らとはそれくらい長い時間を共にしてきた。
 ……ドラマがスタートしたとき十歳だった井上いのうえ立夏は、最終回の収録時、十八になろうとしていた。
「成長したといえばですね」
 ふいにインタビュアーがこちらを見た。意味ありげな表情になり、わざとらしく声をひそめて尋ねてくる。
「ドラマの中で、つばさちゃんとしよう君は好敵手って感じでよく口喧嘩をしますよね。だけどつばさちゃんがピンチになったときには、翔真君は誰よりも頼もしい味方になってくれたり。そんな二人の進展をドキドキしながら見守ってきた視聴者も多いと思うのですが、実際のところ、演じるお二人の関係はどうなんですか?」
「翔真」とは岡田家の近所に住む、つばさの幼なじみの役どころだ。隣に立つ、黒髪で切れ長の目の青年と一瞬だけ視線を交わす。「翔真」役のはらしゆうはキッズモデル出身で、同い年の立夏よりも芸歴が長い。
 立夏はにっこり笑って、質問をしたインタビュアーを見た。
「はい、おっしゃる通り、翔真とはドラマの中でちょっぴり仲が悪いんですけど。私生活では、実は――」
 インタビュアーを真似るように声をひそめ、間をためる。
「――すっっごく、仲悪いんです!」
 眉間にしわを寄せて芝居がかった口調で叫ぶと、周囲からどっと笑い声が上がった。
「もう、翔真って本当に口うるさくて。物を置きっ放しにしてだらしないとか、お菓子食べ過ぎとか、いちいち説教してくるんですよお。お母さんかって感じで」
 秋也が肩をすくめ、「我関せず」というようにそっぽを向く。立夏は唇を尖らせ、ねたように声を張り上げてみせた。
「ムカつく!」
 スタッフの間から微笑ましげな笑いが起こる。ドラマの中で繰り返されてきた、「つばさ」と「翔真」のお決まりのじゃれあいだ。
 二人の関係性を、一部の視聴者が甘酸っぱいニュアンスで捉えているのは知っていた。この二人の掛け合い最高、早くくっつけばいいのにじれったい、などという感想が多いことも。
 けれどもし演じる立夏と秋也が現実で深い仲だとしたら、視聴者はたぶん引くのではないだろうか。彼らは、十代の若者の爽やかでもどかしい関係性にエンタメとしてときめきたいのであって、肉欲を感じさせる生々しい男女の恋愛は見たくないのだ。
 実際のところ、役を離れてしまえば、互いの間に特別な感情はない。幼少時より人に見られる仕事をしてきた秋也は、周りから求められる役割をよくわかっている。立夏にとって異性というよりも、同志という言葉が近い気がする。
 結局、自分たちは似た者同士なのだろう。
「長く放送されてきた『クローバー』もいよいよ最終回を迎えるということで、最後にひと言ずつ、コメントをお願いいたします」
 インタビュアーに振られ、立夏は一瞬だけ考えてから表情を作った。カメラに向かい、少年みたいににかっと笑う。
「最後なんだから、絶対観てよね。約束だよ!」
 まっすぐに指を突きつけ、元気よく口にしてみせる。そう、つばさならそんなふうに云うはずだ。こういう場面で湿っぽく涙を見せたり、未練がましい言葉を吐いたりなんて、きっと彼女はしないはず。
 それから、深く息を吸い込んだ。
「――私にとって」
 微笑んでカメラを見つめながら、言葉を続ける。
「現場の皆がファミリーでした。……ううん、これからもずっとファミリーです」
 それは、偽りのない本心だった。

 最終回が放送され、真っ先に感じたのは、長いこと抱えていた荷物を手放したようなさみしさと安堵だった。それから間を置かず、広い海に突然放り出されたみたいな戸惑いがやってきた。
 ……この先、自分は一体、どうしたいのだろう?
 そんな迷いが胸を占める。
『クローバー』が終わった後、いくつか役者として依頼が来た。
 そのうちの一つは単発の青春ドラマで、立夏にとっては初めての主役だった。爽やかなラブコメディーで立夏が演じたのは、活発な少女の役どころだった。まるで、そのままつばさを連想させるような役だった。
 なんとなくイメージを変えてみようかと思い立ち、髪を長く伸ばそうとしたら、「立夏にはやっぱりショートが似合うんじゃない?」とマネージャーに首をかしげられた。女性らしい雰囲気のメイクを試してみても、周りから返ってきたのは同じく、いまいちな反応だった。
「うーん、なんか違和感があるんだよなあ。らしくないっていうか」
 やがて立夏は、その事実を痛感せざるを得なかった。
 ――世間にとって、自分は井上立夏という役者ではなく、どこまでも「つばさ」なのだ。
 これまで、自分なりに精一杯つばさを演じ続けてきた、という思いがあった。ドラマの中で一家は多くの視聴者に見守られ、親しまれてきた。
 岡田家の末っ子。まっすぐで負けず嫌いな、お元気少女。立夏の声に、容姿に、周りは当たり前のようにそうしたキャラクターを重ねて見ているらしかった。

 

『そして少女は、孤島に消える』は全3回で連日公開予定