プロローグ
――あの日、ドアの外には恐ろしい何かがいたのかもしれない。
◇
幼い頃の記憶でぼんやりと思い出すのは、大皿に山盛りのチャーハンだ。
具は卵やハムだったり、カニカマだったり、そのときによって色々だけれど、とにかくたくさん。……そしてその分量は、立夏が一人でいなければならない時間の長さを意味していた。
立夏、といつもより優し気な声音で母が囁く。
「ママ、用事があって出かけなきゃいけないの。お腹が空いたらこれを食べてね」
それから、念を押すように云い聞かされる。
「勝手に外に出たり、大声で騒いだりしちゃ駄目。わかった?」
ベランダに出るガラス戸に、母は「変な人が入ってきたら危ないから」と少し怖い顔で云い、ガムテープで念入りに目張りをした。
「大人しくいい子にしててね」
母の言葉に、こくん、と真剣に頷く。そんなふうに一人きりで留守番をすることは、よくあった。
父は、立夏がまだ一歳の頃に交通事故で亡くなったらしい。物心ついたときには、母と二人で小さなアパートに暮らしていた。
立夏の母は、子供心にも綺麗な人だったと思う。いつもきっちりお化粧をして、踵の高い靴を履いていた。気分屋で、立夏を放置して何時間もむっつりと黙り込んでいるようなときもあったけれど、叩かれたり、暴言を吐かれたりしたという記憶はない。時々、機嫌がいいときは「可愛い」「大好き」と抱きしめて頬ずりしてくれた。可愛い服を買ってくれ、それを着た立夏を大袈裟なくらい褒めてくれた。
「立夏は本当に可愛いね。大きくなったら、きっと女優さんになれるよ」
それは母の口癖みたいなものだった。
五歳の夏だった。
その日の朝早くに立夏が目を覚ますと、玄関のドアの前に母が立っていた。もうパジャマから着替えており、小さなハンドバッグを手にしている。
「ママ?」と声をかけると、母はハッとした様子で立夏の方を振り向いた。人差し指を口元に当て、硬い声で云う。
「しっ、大きな声を出しちゃ駄目」
うまく云えないけれど、そのときの母の様子はいつもと少し違っていた。何かを警戒しているような――そう、まるで怯えているような態度に見えた。
戸惑う立夏から視線を外し、母が身を屈めてドアスコープを覗き込む。真剣に外の様子を窺う母に、立夏は小首をかしげ、声をひそめながら尋ねた。
「お外に誰かいるの?」
立夏の問いに、母は答えなかった。ぴりぴりと張り詰めた空気が母の背中から伝わってきて、なんだかこちらまで緊張してくる。ドアのすぐ外に得体の知れない危険な存在がいて、そいつが息を潜めて自分たちを狙っているかのような、不気味な感覚に襲われた。
どのくらいそうやっていただろう。ふいに母がこちらを向き、「立夏」と小声で呼んだ。立夏に向かって、真顔で告げる。
「ママ、これからちょっとお出かけしなくちゃ」
え、と落胆した声が出た。また一人きりで留守番をしなければならないのだと察し、暗い気分になる。
しょんぼりとうつむく立夏の頭を、母の手が優しく撫でた。温かいような、さみしいような、不思議な声で立夏に囁く。
「ご飯はテーブルに置いてあるから。いい子にしててね、立夏。約束よ」
そう告げ、母はドアを開けて出ていった。カツン、カツン、と聞き慣れたヒールの音がドア越しに遠ざかっていく。
云いつけ通り、立夏は家で母を待っていた。アパートにエアコンは付いておらず、旧式の扇風機は生ぬるい空気を弱々しく撹拌するばかりだった。
閉め切った室内はひどく蒸し暑かったけれど、母の云いつけを守らなければ叱られるから、大人しくしていなくちゃ、と思った。
踏み台を持ってくれば、ドアスコープから外の様子を覗くことができた。小さなレンズを覗き込み、帰ってくる母の姿が見えないか、足音がするたびにアパートの廊下を何度も窺う。
やがて立夏はぺたりと部屋の床に座り込み、さみしくないよう、ぬいぐるみたちを自分の周りに並べ出した。クマのぬいぐるみはパパで、うさぎはママ。
立夏の頭の中で、うさぎのぬいぐるみの母が喋り出す。
(一人でちゃんとお留守番できるなんて、立夏はなんてえらいのかしら!)
そう云い、母はにこにこ笑って立夏の頭を撫でてくれる。
(おやつは立夏の好きなアイスとホットケーキにしましょう。ママと一緒に公園に行って、お気に入りのブランコにも乗ろうね)
顔もろくに知らない父が云う。
(なんにも心配いらないよ。もし悪い人が来たら、パパが立夏を守ってあげるから)
「やったあ」と、うるさくない程度にはしゃいだ声を上げてみる。
「パパもママも、大好き」
家族は立夏にうんと優しくしてくれる。ずっと一緒にいてくれるのだ。
……そんなふうに空想して、幾度も自分を慰めた。一人きりのお留守番は本当はさみしくて辛いけど、ママが帰ってきたら全部大丈夫になる、とそう思えた。
実際、母はいつもちゃんと立夏のもとへ帰ってきた。時には鼻歌まじりで上機嫌に、時にはデパートのお惣菜をたくさん買って、いかにも申し訳なさそうな表情で。
――けれど、そのときは違った。
暗くなっても、日付が変わっても、母は戻ってはこなかった。
外が明るくなり、また暗くなるのを、立夏は部屋の中で心細い思いをしながらずっと眺めていた。一度だけ「集金でーす」とドアの外で男性の声がして、しばらくして郵便受けに何かを差し込む音がしたけれど、誰か来ても出ちゃ駄目、と母からきつく云われていたので、息を潜めてやり過ごした。
二日経ち、三日過ぎても、母は家に帰ってこない。時間が経つのが信じられないほどに遅かった。ただただ不安で、恐ろしかった。異常だった。こんなことは初めてだ。ママはどこに行ったんだろう。いつ、うちに帰ってくるんだろう? もしかしたら誰か大人の人に、助けを求めなくてはいけないのでは? そんな考えがぐるぐると頭をよぎりつつも、出がけに母が云った言葉を思い浮かべる。
(いい子にしててね、立夏。約束よ)
そう、母と約束した。云いつけを破ったら、きっと母に嫌われてしまう。いい子に留守番をしていれば、母はいつものようにちゃんと帰ってきて、立夏をたくさん褒めてくれるはず。
ぎゅっと膝を抱き、心の中で呼び続ける。ママ、ママ、お願い、早く帰ってきて。いい子だったねって抱きしめて。怖くて頭がおかしくなりそう。
一人きりで母を待ち続けて、何日が過ぎただろう。
夏場で、母が大量に作って置いていってくれたチャーハンの残りはいつしかおかしな臭いを放つようになった。台所のゴミ袋に、ぷんと黒いハエがたかっている。
狭い室内は息苦しささえ感じるほどの暑さで、身体中が汗でべたべたした。耐えきれず、風を求めてガムテープの目張りをはがし、どうにかベランダに出てうずくまる。空腹で喉が渇いて、台所に戻って水道の水をごくごく飲んだ。次第に頭がぼうっとして、母の笑顔が薄れていく。
母が出ていってから、五日ばかり経ったろうか。
もはや起き上がる力も湧かずにぐったりと部屋に横たわっていると、玄関の方で何やらガチャガチャと音が聞こえた。誰かが鍵を開けようとしている。
ふいにドアが開いて、人がアパートに入ってきた。性急な足音だった。直後、悲鳴のような声で名前を呼ばれる。
「立夏!」
朦朧とする頭で、とっさに母が帰ってきたのだと思った。けれど、すぐにそうではないと気づく。
立夏の伯母さん――ママの、お姉さんだ。なんだかすごく怖い顔をしている。でも立夏のことを怒っているんじゃないみたいだ。
母は、この伯母のことが少し苦手らしかった。
いつだったか、伯母が母を責めるのをたまたま聞いてしまったことがある。ペットみたいに気まぐれに子供を可愛がって、無責任、母親としての自覚が足りない、と強い口調で叱る伯母に対し、母はふてくされたような表情で彼女を睨み返していた。あたしのすることが気に入らなくて文句ばっかり云う、姉さんは昔からいつもそう、あたしだって辛いのに、と不機嫌そうにこぼしていた。
母があからさまに嫌な顔をして避けるので、伯母は普段、アパートにはあまり来なかった。
駆け込んできた伯母を見て、いつもと違うその様子に、何か大変なことが起きたのかもしれないと子供心に察知した。
「ママは?」
立夏の問いかけに、なぜか伯母はいきなり刺された人みたいに立ち尽くした。それから表情を歪め、畳に膝をついて、りっか、とかすれた涙声で口にする。大人がそんな頼りない声を出すのを、初めて聞いた。
次の瞬間、伯母に勢いよく抱きしめられた。汗ばんだ立夏の身体を抱きながら、伯母は声を押し殺して泣いているみたいだった。熱い息が頬にかかり、ううっ、と耳元で低い嗚咽が響く。
強い力で背中に回された手は、立夏を守ろうとしているようにも、逆にすがりつかれているようにも感じた。微かに震える伯母の掌は、汗か涙でぐっしょりと濡れていた。
……母が隣県の海沿いの崖から転落死したという事実を、立夏は葬儀のとき初めて知らされた。
母の遺体は釣り人によってたまたま発見されたらしい。少し離れた崖の上に母の靴がハンドバッグと一緒にそろえて置いてあったため、身元が判明したのだという。母は、アパートを出たその日のうちに亡くなっていたものと思われた。
立夏がひたすら母の帰りを待ち続けていたとき、母はもう、この世の人ではなかったのだ。
もともと感情の起伏が激しく精神的に不安定だったシングルマザーが、一人で人気のない場所を訪れ、将来を悲観して自ら命を絶ったのだろうというのが警察の判断らしかった。かつて母が心療内科に通院していたことがあるといった事実も、その見解を後押ししたようだ。
同時に、母が幼い立夏を一人きり家に残してたびたび外出していた――いわゆるネグレクトを行っていたという事実も明るみに出た。
「変な人が入ってきたら危ないから」とガラス戸を目張りし、大きな声を出さないようにと立夏にきつく云い聞かせていたのは、子供を一人で放置していることを近隣住人に気づかれ、児童相談所に通報されるのを懸念したためと思われた。
そうした事実を子供心にうっすらと理解しつつも、母に対する怒りや恨みの気持ちは、不思議と湧いてこなかった。
ただ、もう二度と母に会えないという事実が、どうしようもなく悲しかった。「可哀想に」と周りから憐れみの視線を向けられるたび、母が自分にひどい仕打ちをしたのだと云われているようで辛かった。母がもういないなどと信じたくなくて、警察から戻ってきた母の遺品を手に取ってみることすらできなかった。
……自分は、母に、置いていかれたのだ。
その後、立夏は子供のいない伯母夫婦のもとに養女として迎えられることになった。伯母が強く主張して立夏を引き取ってくれた背景には、姪に対する愛情よりも、義務感や責任感といった社会的な感情が先にあるようだった。生真面目な性格の伯母は、自分の妹がしでかしたことの尻拭いをしなければならない、と頑なに思い詰めているようにも見えた。
共に暮らし始め、伯母夫婦が真っ先に心配したのが、立夏のあまりにも内向的な性格だった。
どうやら立夏には、常に大人の顔色を窺ってしまう癖がついているらしかった。それは、これまで立夏の世界がほとんど母との二人きりで構築されていたせいかもしれない。
母の望む正しい答えを返せば、母は機嫌が良くなった。立夏に優しくしてくれた。お留守番は嫌、置いていかないで、と駄々をこねると、途端に怖い顔になり立夏を叱った。母に嫌われたり、見放されたりしたくなかったから、いつも聞き分けのいい子でいようと意識していたのだ。
母に置き去りにされたという事実は、立夏の心に深い影を落としていた。……しかし。
母との別れを何度も思い返すうち、立夏の中で、次第に微かな疑念が生まれた。
――母は本当に、立夏を置いて自ら死を選んだのだろうか?
生きている母を見た最後となってしまった、あの朝のことがよみがえる。
『そして少女は、孤島に消える』は全3回で連日公開予定