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 そこで目を付けたのが〔箱根駅伝〕だった。三十パーセント近い視聴率を誇る巨大コンテンツの恩恵にあずかろうと考えたのだ。あえて〈東都大学駅伝部〉と名づけ、駅伝や長距離走に特化した部を創設していた。
 駅伝部の創設に当たっては、一流のマラソン選手だった清水邦久を監督にしようへいし、強化に取り組んでいるのは知っていたし、予選会でもあと一歩のところで本戦出場を逃しており、将来的に箱根出場に手が届きそうなムードがあった。
“自分の力で強豪校に”なんてのは建前にすぎない。
「その心意気があったからこそ、選手から裏方に転向した後も活躍できたんやなぁ」
 だが、木村市長が感心したように呟いた。
 二年生でふくを経験し、三年生からはマネージャーのトップ・しゆとなり、タイム計測に準備・片付けといった練習のサポートは当然として、大会の申し込みや合宿の宿舎や移動の手配といった雑用からマスコミの取材対応と、選手の時以上に多忙となった。
「いや、初めての経験ばかりで、まさに手探りでした。活躍というほどの事も……」
「謙遜せんでええ。伝説になってるそうやないか。“東都大駅伝部歴代ナンバーワン主務”とか“箱根出場に導いた伝説のマネージャー”とか」
 大袈裟な。
 東都大学が駅伝に力を入れ始めたのは、拓也が入学する何年か前の事で、歴史といってもたかだか二十年ほどである。そんな浅い歴史しかない駅伝部で、伝説も何もないだろう。
 それに、今でこそ各大学でも科学的トレーニングを取り入れたり、事前のデータ収集を徹底しているが、拓也が選手だった頃は、まだ根性論が一部に根強く残っている時代だった。だからこそ付け入る隙があり、トレーニング理論や指導法について素人しろうとだった拓也にも、工夫や試行錯誤をする余地があったのだ。
「正月の箱根駅伝のエントリーメンバーも決まったな」
 来年の一月二、三日に行われる箱根駅伝のチームエントリーが先日行われ、オープン参加の関東学生連合を含む21チームがそれぞれエントリーメンバー16人を登録した。
「東都大も有力選手は全員エントリーしてた。順調そうやな」
「おかげさまで、万全の態勢で臨めそうです」
「と言いつつ、裏では色々と気を揉むような事があるんちゃうか? 誰か怪我せえへんかとか、コロナ対策とかインフルエンザとか……。直前で調子を落とすやつとかもおるやろ?」
「ええ。登録から外されたくなくて、怪我を隠している選手が一人や二人はいたりします。そんな選手が直前になって『脚が痛い』とか言い出したりして、僕も慌てた経験がありました」
 木村は「はっはっはっ」と豪快に笑った。
「やっぱり優勝争いは大学駅伝三冠を狙う国学院大、リベンジに燃える駒大と青学の三つ巴か? 古豪の早稲田や中央大も盛り返してきとるし、創価大も好調そうや。あと、東洋大も侮られへん」
 話を聞きながら、市長の意図が分からなかった。〔箱根駅伝〕の話がしたくて、拓也を呼んだのだろうか?
「せやせや。言い忘れてたわ。〔土師健康マラソン〕はコロナ禍の中でも、よう存続できたな。あれは手柄やったと思うで」
「はい。私も肩の荷が下りました」
「あれだけ大勢、カラフルなウェアを着たランナーが集まると、壮観やったな。走って終わりやなし、帰りに商店街で買物してくれたり、駅前に集まって乾杯してたり、いつもは静かな町に、ぱっと花が咲いたようやった」
 運営する側としては、コロナのクラスターが発生しないかと冷や冷やし通しで、“フィニッシュ後は速やかにお帰り下さい”と看板を立てたり、声をかけてまわったりしたのではあるが。
 その時、ドアがノックされた。「市長。そろそろ」という声と共に、木村が時計を見る。
「もう、こんな時間か。前置きが長なってしもたな。実は折り入って頼みがあるんや。実はな……」
 それまでにこやかだった木村が真顔になり、自然と拓也も顔を引き締めた。
「出馬した時の、僕の公約、覚えてるか?」
「“スポーツでまちづくり”です」
「ちゃうがな。その先や」
「あ、はい。“行きたい町から住みたい町に”でしたね」
「どこの市町村もそうやけど、土師市も年々、高齢化が進んどる。若者の流出も止まらへん。当たり前の話やけど、町は人が住んでこそ町なんや。観光産業で人を呼び込んでた町がどうなったか? 地元の人が通学や通院に使う路線バスに長蛇の列ができるわ、市場が屋台街みたいになるわで、住民が利用しづらい状態になってしもた。そんなんやから、コロナで外国人観光客がおらんようになった途端、あかんようになってもうた。店主が外にばっかり目ぇ向けてるから、地元の人に見放されたんやな。せやから、観光客頼みではあかん。もっと内需を大事にして、人が居つくようにせな……」
 そこで言葉を切ると、市長は声を潜めた。
「実はな、新たにフルマラソンの大会を土師市で開きたいんや。倉内くん、やってくれるか?」
「えっ? そ、それは……」
「確かに〔土師健康マラソン〕はコロナ禍でも開催できて大成功やった。参加したランナーは皆、喜んどった。しかし、やっぱり川の周りをグルグル走ってるだけでは、土師市の魅力は伝わらへん。今後、コロナが収束していったら、また他の都市で開催されるマラソンに流れてしまう。せやから〔土師健康マラソン〕を吸収する形でリニューアルする。つまりや、もっと土師市の名所を走れるようなコースで、新しいフルマラソンの大会をやりたいんや。それで土師市の魅力を市外に住んでる若い子ぉやら、子育て世代にアピールして、転入者を増やそ思てな」
 急な展開で、理解が追いつかない。
「ほんで、君にはレース全体の設計をしてもらいたい。市の名所や魅力的なエリアをコースに入れて、その広報活動も含めてな」
「市長」
 再びドアの隙間から声がした。
「分かっとる。すぐ行く」
 ソファから立ち上がると、木村は颯爽とコートを羽織り、拓也を振り返った。
「木村が何かおもろい事やってる。そんな感じのマラソン大会、ちゃちゃっと考えてや。できるやろ?」
 まるで「この書類、ポストに投函しといてくれ」と頼むような、軽い口調だった。

 

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