第一章 無茶ぶりフルマラソン
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二〇二×年 十二月。
P県土師市市民文化スポーツ局スポーツ部スポーツ振興課のフロアに、倉内拓也はいた。
ランチを終えて戻ると、休憩の前に片付けたはずのデスクの上に、書類が山積みになっていた。さっと目を通し、急を要するものと、そうでないものとに仕分けする。
「何だ、こりゃ?」
それは、運動公園内の草刈りに関して、住民からの〈行政指導依頼〉であった。住民の誰かが市の管理する運動公園の敷地に勝手に草木を植えているらしく、通行の妨げになるほど生い茂り、害虫も発生しているという。
とりあえず総務部に戻す。
長らく放置されている市民体育館倉庫の片付け、〈町おこし実行委員会〉への出席、その他よく分からない案件、全て管轄するであろう部署に割り振っていく。
書類を脇によけてPCを引き寄せ、素早くメールチェックをした。すぐに回答できないメールは“未処理”、重要なメールは“重要”と名付けたフォルダーに振り分けてゆき、必要なものには返信、そうでないものはゴミ箱へ。ものの十五分で処理を終える。
「拓ぼん。ただいま」
村田繁之、通称・繁爺はフロアに入るやいなや、エアコンの設定温度を下げる。
「ご苦労さまでした。寒かったでしょう?」
「うん。ちょっと涼しかったな」
暑がりの彼は常に赤ら顔で、真冬でも靴下を履かないし、何なら半袖のTシャツで出勤してきたりする。
「繁やん、何をしてくれてるねん。凍え死ぬわ!」
白髪と顎ヒゲが見事な繁爺に対し、つるんとした顔の政爺が歯のない口を開けながら怒鳴る。こちらの名は村田政之という。先月、シルバーセンターから派遣された二人は、一歳違いの兄弟だ。
「うわぁ、寒い、寒い」
今度は室温が最初の設定温度より二度高く上げられ、エアコンが音を立てて温風を吐き出す。
「省エネや、省エネ。電気代が高騰しとるんやから、無駄遣いはあかん」
村田兄弟がエアコンの設定温度を巡ってバトルになるのはいつもの事。拓也は素早く二人の間に割って入る。
「無事に終わりましたか? 先方さんは随分とご立腹でしたが……」
「はぁ? あんなもん、俺が、ちゃちゃーっと直したったわ」
繁爺は話を盛るので、それなりに時間がかかったのだと予想した。
以前から「市が管理する土地の柵の金網が破れ、そこから子供が出入りして危ない」と市民から投書が寄せられていた。その柵が設置されたのは大昔の事で、今となっては誰が設置したのかも分からず、市は点検も行っていなかった。
その土地は丘陵のような、ちょっとした小山になっていて、地元の人達からは、ピクニックやお散歩スポットとして親しまれているのだが、ある事情があって簡単に手をつけられる場所ではなかったのだ。
ここ土師市は、古事記や日本書紀に記された時代まで遡る歴史があり、当時の支配者一族や有力者の墓がたくさん点在している。
つまり古墳の町なのである。
それらの古墳はおもに四世紀の後半から五世紀の後半にかけて築造され、鍵穴型の形状をした前方後円墳の他、円形や方形など、小さなもので数メートル、大きな古墳になると五百メートルにも及ぶ。
古墳群は土師市と隣接した白鳥市にもまたがって広がり、確認されているだけで五十基、実際にはその倍の古墳があるのではないかと言われている。うっかり土地を掘ろうものなら、土器や太古の遺品、人骨などがぽこぽこと出てくる。要は、壊れた柵のあるその土地も古墳の可能性があるのだ。
そんな訳で、役所内では「文化財の保全なら、教育委員会の仕事では?」「いや、先に宮内庁に連絡すべきでは?」と、お得意の押し付け合いとたらい回しが始まり、結局は観光部や市民文化スポーツ部の各課から数名ずつ赴くのが妥当だろうという事になった。一週間前に現状が調査され、今朝は始業と同時に村田兄弟に現地に向かってもらった。
「何であれっぽっちのもん、すぐに直されへんのや? どん臭すぎるやんけ!」
繁爺の鼻息は荒い。
集まった職員の中には、ヴァールを準備していた者もいたが、元解体屋の繁爺が素手で木の杭を抜き取り、元大工の政爺が手早く新しい金網を張って、結局は他の職員達は二人が作業する様子を、ぼんやりと見ていただけらしい。
「今の若いもんはあかん。簡単な柵の修理ひとつでけへん」
「昔の男は、自分とこの屋根ぐらい、自分で直しとったもんや」
政爺は、唾を飛ばさんばかりの勢いで喋る。
「それより、日下はどこ行った? あのアホボンが」
日下というのは、ここスポーツ部の部長であり、拓也の上司でもあるが、二人にかかれば子供扱いである。
「面倒臭い事を俺らに丸投げしといて、本人は雲隠れか?」
「いえ、部長は本日出張です。それに日下さんが行ったところで、柵の修繕などできないでしょうから、お二人に行ってもらえて良かったですよ」
まんざらでもない様子で、政爺は胸を張った。
「拓ぼんも屋根の修繕ぐらい覚えて、はよ嫁さん貰いや。公務員はリストラされへんのやさかい。その為に、転職してきたんやろ?」
拓也は昨秋、社会人枠を利用し、地方公務員試験を受験して採用された。つまり、民間企業から中途採用で公務員に転職したという訳だ。
学生時代はマスコミの仕事に興味があったから、就活ではテレビ局や新聞社も受けたのだが、最終的にはマラソン大会の運営や計測事業の他、月刊誌『ラン・フォー・トゥモロー』を発行している東京の出版社〈ランニングライフ〉に就職した。入社から二年間は営業を経験し、後にイベント事業部に異動して新規マラソン大会の起ち上げに携わった。
そこで関わった大会の一つが〔土師健康マラソン〕だった。土師市の中心を流れる一級河川・土師川に沿って作られたサイクリングコースを周回する大会で、運営や距離測定、記録計測などのサポートを担当した。
また、土師市は拓也が生まれ育った故郷でもあった。〔土師健康マラソン〕の仕事で頻繁に実家に寝泊まりするうちに、両親から「そろそろ実家に戻ってきてはどうか」と打診され、思うところもあって転職を決心したのだった。
つまりは、Uターン転職である。
「拓ぼん、あんた、もう三十歳過ぎてるやろう? せやのに相手の一人もおらんのか?」
「繁やん、失礼な事を言うな。拓ぼんは男前やさかい、ナンボでも女の子が寄ってきて、選ぶのに苦労してるんやろ。なあ、拓ぼん?」
「その割りに、浮いた話は聞かへんのぉ……」
その時、デスクの電話が鳴った。
『はにわラソン いっちょマラソンで町おこしや!』は全3回で連日公開予定