雅臣が感情の読めない平坦な声でさらにつづける。
「もう一度だけ警告しますが、大きな出来事を変えようとすると、結果が変わらないだけでなく、結果に至るまでのプロセスがより悪くなることもあります。決して変えようとしないことですね」
「どういうことです?」
「たとえば過去、死んでしまった誰かを助けたとして、その相手が亡くなる事実は変わらないうえに、もっとつらい死に方をする可能性があるということです」
雅臣の瞳がほの暗く光った。
時帰りなど信じていないはずの沙織の背筋が、ぞくりと冷える。
「これでわかったでしょう。時帰りなんて決していいことばかりじゃないし、遊び半分でやるものでもない。ああ、最後に付け加えると、時帰りができるのは一生に一度だけ。しくじったからってもう一度やり直すことは絶対にできません」
雅臣の語りが終わると、その場に沈黙が満ちた。
この人、真面目に言ってるの?
雅臣にしてみれば、沙織をこのまま帰らせようと、わざと凄味をきかせたつもりなのだろう。しかし沙織のほうは、ここまで馬鹿馬鹿しい設定を、さも本当のように話され、逆に好奇心が刺激されてしまった。
帰っても、明日の同窓会のことを考えて憂鬱になるだけだし。こんな話、絶対に嘘だし。
興味本位とちょっとした悪意がないまぜになって、気がつくと沙織は答えていた。
「私、やってみます」
「は?」
面食らった雅臣に向かって、にっこりと笑みを貼りつける。
「だから、やってみます。その時帰りとかいうの、ぜひお願いします」
もしかして、何か心理学的なセラピーでもしてお茶を濁すだけかもしれないが、それで気持ちが楽になるならもうけものではないか。
「わあ、ありがとうございます」
喜ぶ汀子に向かって、念を押した。
「本当に、過去に帰してもらえるんですよね」
「もちろんです。その代わり、この神社のこと、映え神社としてSNSで投稿していただけませんか。時帰りなんて関係なく、一度来ていただけさえすれば、この竹林とか、澄んだ空気とか、兄の見た目とか、けっこうお客様に気に入っていただけるポイント、色々とあるはずなんですよ。なにとぞお願いいたしますっ」
「は、はあ。まあたしかに、お兄様は口さえ閉じていれば──」
汀子とふたり、思わず同時に雅臣を見てしまう。
「放っておいてください。それに俺はまだ認めません。どんな理由で、いつに帰りたいのか。それを聞いてからじゃないと、時帰りさせるかは決められない」
沙織をにらみつける雅臣の手の甲を、汀子がつねる。
どうも、見た目と行動にギャップのある兄妹ふたりである。
沙織は、あらためてふたりと向き合った。
「できるだけくわしく話してください」
雅臣が圧迫面接の面接官のような態度で尋ねてくる。ただ、沙織も雅臣の威圧に免疫ができつつあるようだ。
「くわしく、ですか?」
さも面倒そうに尋ね返してしまった。
「それが最低条件です。あまりにくだらない理由だったり、無意識にでも悪意のある理由だったらきっぱり断ります」
後悔しているのは、沙織にとってぬぐってもぬぐいきれない黒歴史だ。少し躊躇したが、仕方なく打ち明けることにした。
「高校二年の春に戻りたいんです。戻って、当時好きだった彼に告白するのをやめます」
「──告白、ですか」
汀子が拍子抜けしたようにつぶやき、隣の雅臣もぽかんと口を開けた。
「わ、私にとっては大事なことなんです。彼に告白したのを同級生に見られて、ばらされたんです。クラス中の男子からからかわれるし、モテる人だったから、女子からは総スカンを食らうし。彼からも、もちろん振られて避けられるようになって」
「あるあるですね」
「いや、あなたたちには、なしなしだと思いますけど」
この世はあらゆる面で格差社会である。
差しだされたコップの水をぐいっと飲みほして、沙織はつづける。
「それからの人生は悲惨のひと言でした。傷心のせいで勉強にも身が入らなくて、第一志望どころか、合格確実だった第二志望群の大学にも全落ちして、ストッパーの第六希望の大学にかろうじて引っかかりました。不本意な大学だったから、あんまりキャンパスライフも楽しめないし、友だちもできないし。就職だって誰も知らない小さな会社にしか内定が出なくて。男っ気なし、貯金なし、将来の希望なしの三重苦です。でも──」
ひと呼吸おいて、神主と巫女を交互に見る。
「あのとき、告白さえ思いとどまっていたら、私、今はもっといい人生を送っていた自信があるんです。そしたら、明日の同窓会だって笑って出席できる」
欠席しようかとも思ったが、大人になった件の告白相手の今の姿を、できれば遠くからでも見たい。
「思ったとおり、くっだら」
「お、に、い、ちゃ、ん」
雅臣の声を、汀子がさえぎった。
「わかったよ。でも、その出来事、日づけなんて正確に覚えてるんですか?」
「九年前の三月十三日。春休みになる一週間前です。振られてもあと一週間でクラス替えだしって思い切れたから」
「へえ。でも振られてからの一週間って地獄──」
「お、に、い、ちゃ、ん」
「わかりました」
ため息をついて立ち上がった雅臣が、出口へと向かう。
兄の態度を謝罪したあと、汀子が沙織をうながした。
「さ、私たちも行きましょう。注意事項をお話ししたら、時帰りの儀式を始めさせていただきますので」
「え、今からですか」
「はい。今からすぐに、九年前の三月十三日へお送りします」
「でもそれって退行催眠とか、いやな記憶をカウンセリングで整理するみたいなことなんですよね?」
汀子は頭を左右に振って、沙織を庵の外へとやや強引に押しだす。
「正真正銘、“あの日”に戻ってもらいます」
汀子が、立ち上がった沙織の背中をぐいぐいと前へ押した。
「え、いや、まだちょっと心の準備が」
「大丈夫、大丈夫。みなさんそうですから」
汀子が向かったのは、先ほど参拝した本拝殿である。小綺麗な建物からこちらへ戻ってくると落差が激しく、よりいっそう貧相に見えた。
ご神体らしい鏡を背にして、雅臣がすでに正座して控えている。庵で相対していたときには美しいけれど俗物といった様子だったのに、同じ人物とは思えぬほど凜とした気を発していた。近づくにつれ、沙織の露出している肌の部分がぴりぴりと小さな刺激を感じだす。
なんだかすごい緊張感。まさか、ね。
「靴を脱いでこちらへ。今からいくつか注意がございます」
「はい」
雅臣のおごそかな物言いにごくりと唾を飲みこんで、板敷きへとあがった。雅臣の真正面に座したちょうどそのとき、風がぴたりと止む。境内の木々がこちらの様子を息を潜めてうかがっているようだった。
「今から俺が祝詞をあげて、汀子が神楽を舞います。そのうち、竹林の向こうが光りはじめるはずです」
「光る?」
雅臣の視線をたどって振り返ったけれど、今はただ、神社を囲む竹林が風に揺れるばかりだ。
「同時に、どちらかの手首の内側に、自分にしか見えない刻印が刻まれます。刻印は光の棒線です。一本が一日を表していて、この光の棒の数が過去に滞在できる日数を示しています。人によって棒線の数は違っていて、七本浮きあがる人もいれば、一本だけの人もいるようです」
思わず、手首の内側を確かめた。
「手首の棒線を確認したら、いま後ろに見えるあの小径をたどって竹林の向こうまで歩いていけば、希望の日に戻れるはずです。ただし、戻るのは意識だけ。当時の自分の体に、今の自分の意識が宿ると思ってください。時帰りのあいだ、今の肉体がどこにあるのかは、俺たちにもわからない。竹林に残っていないことは確かですが」
「──あの、真面目に言ってます?」
この期におよんでも、やはり尋ねてしまう。
「信じられないなら今から帰っていただいてもよろしいかと」
「や、やりますよ。やるって決めたので」
半信半疑のまま、居ずまいを正した。
「それじゃ、竹林のほうを向いて」
雅臣は沙織に告げたあとすぐに、ご神体へと向き直った。沙織も、竹林へと向き直る。たしかに人ひとり分の小径が、正面に広がる竹林の奥へとつづいていた。
青々とした葉を茂らせた背の高い竹が、何十本、何百本と互いに身を寄せ合うように密集しており、奥に向かって空間を薄暗く翳らせている。先ほどから風が運んできていたさわやかな香りは、この竹の発するものだったのかもしれない。
信じてなどいないはずなのに、そわそわと落ち着かない。
緊張なんてする必要なくない? どうせ過去になんて行けるわけないんだから。
太鼓の音につづいて祝詞がはじまり、やがて、しゃん、しゃん、と鈴の音が響きはじめた。
騒がしくなった心臓のあたりをそっと手で押さえながら振り返ると、汀子が、鈴を手にして、たおやかに神楽を舞っていた。金の冠をかぶり、先ほどの袴ではなく緋色の布地に金銀の刺繍が施された装束に身を包んだ汀子は、人ならぬ神の遣いにも見える。一方の雅臣の表情は沙織の位置からだと振り向いてもわからないが、首筋をつっと汗が伝っていくのが見えた。
本当に、過去に戻れるっていうの?
自問するたびにまさかと否定してきたのに、なぜか今はできない。
もう一度、竹林のほうを向いた。今のところ何も起きず、ただ風が吹き渡るばかりだ。
それでも胸が騒いで、竹林から目が離せなかった。
しゃん、しゃん、と鈴が鳴るたびに、あの日の光景が思い浮かんでくる。雅臣の低くまろやかな声が、いつしか耳に心地よく響いていた。
やがて、本当にそれは起きた。
竹林の向こう側から、光源でもあるように柔らかな光が漏れてくる。最初、バスケットボールほどの大きさだったそれは、しだいに竹林いっぱいに広がっていった。じんわりと手首に熱を感じて見下ろせば、雅臣が言ったとおり手首にも変化が起きている。
光る棒が三本。つまり沙織は、三日間、過去に帰れるということらしい。
これ、現実なの?
振り返ると、ちょうど鈴を打ち鳴らした汀子と目が合い、かすかにうなずかれた。うなずき返して立ち上がり、靴をはいて竹林のほうへと踏み出す。
浮き足だってしまい、ふわふわとした心地で竹林へと近づいていった。
こわい。だって、こんなのおかしいよ。
それでも、あの日へ戻れるなら。今を、もっと望む方向へと変えられるなら。
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