プロローグ
突然ですが、あなた、神様に選ばれたお方ですね。
え? いえいえ、怪しい宗教の勧誘じゃ決してございません。
ああ、一条神社へ向かう途中で道に迷われたんですね。
ほっほ、やっぱり選ばれていらっしゃる。
いえいえ、こちらの話です。
さ、私に付いていらっしゃいませ。神社までご案内いたしましょう。
鶴岡八幡宮から足を延ばされたのですか。今日はお天気でようございました。この晴天なら、階段の上からさぞくっきりと海が見晴らせましたでしょう。
由比ガ浜から大鳥居まで太くまっすぐに伸びる若宮大路は、まさに古都・鎌倉の中心部。今は昔、鎌倉幕府の趨勢を現在へと伝える、堂々たるたたずまいですから。
鶴岡八幡宮を取り巻くようにして、鎌倉には、大小様々の神社仏閣が点在しておりますのはご存じのとおり。相模湾を望む長谷寺、美しい竹林で知られる報国寺、あじさい寺の名でも親しまれる明月院など、一年中、参拝客でにぎわっておりますが、そちらはもう何度も詣でていらっしゃると? なかなかの鎌倉通ですね。
この北鎌倉へはバスで? ああ、途中からの道が地図に出てこなかったのですね。ええ、確かにこちらの道は、同じ町内の方でも氏子のみなさんしか通りません。
さ、よほど注意していないと見過ごしてしまうこの控えめな案内板をご覧くださいませ。〈一条神社〉と書いてございます。
こちらを右に入って、細道をお進みくださいませ。
竹の葉音は歓迎のしるし。飛び石の上では光が踊って道案内をしているようです。どうやらあなた様は、こちらの神様にかなり歓迎されているようですね。
ほっほ、ですから勧誘などでは。
え? 新緑に胸が澄んでいくような心地がする?
そうでしょうとも。あたりに清らかな空気が満ちておりますでしょう。この先に湧き水もございまして、氏子のみなさんがお水取りにいらっしゃることもあるのですよ。
さあ、この先は、いよいよ境内でございます。
向こうに見えるのが本殿と拝殿がいっしょになっている本拝殿。あのとおりの破れ神社でお恥ずかしいのですが、掃除は行き届いております。神主みずから毎朝、隅々まで清めておりますから。
え? 掃除のアルバイト?
幕府が鎌倉に移ってくる前からの神社ですからずいぶんと歴史は古いのですが、この人気のなさ。台所事情はお察しでございましょう?
それでも、竹林を眺めながらゆっくりとお抹茶を召し上がっていただける休憩処〈こよみ庵〉は、神主が設計し、建設会社をいじめにいじめ抜いた低予算で、たいそうモダンな建物となっております。
よろしければ、さっそくご一服いかがですか。
参拝が先? それもそうでございますね。
それでは、あとで必ず庵にも立ち寄ってくださいませ。
久しぶりの参拝客ですし、巫女が、今朝からそわそわとお待ちしていたようですから。
それでは、ここでお暇いたします。
おや、私の名ですか?
これはこれは、すっかり自己紹介が遅れてしまいました。
私は、白猫のタマ。歳はとうの昔に数えるのをやめました。尻尾は割けておりませんが、もうずっと長いこと生きているのは確かでございます。少なくとも、この神社の神主、巫女の兄妹が生まれるずっと前、先々代の神主が子どものころにはもう、ここにおりました。
そろそろお気づきですか? この神社、少し不思議な場所なのでございます。
時間が歪む場所、とでも申しましょうか。
私がこうして、いつまでも若猫のまま歳を取らないのも、御柱である聖神のご神威なのかもしれません。
聖は、日知り。つまり暦の神である聖神様は、時を司っているのですから。
あなた様にもきっと、時の御利益がありますように。
それでは、長々と失礼いたしました。
ようこそ、一条神社へ。
どうぞお気をつけて、あの日へいってらっしゃいませ。
第一話 この胸キュンは誰のもの
一条神社の神主、若宮雅臣は映える。
兄が本拝殿の清掃にいそしむ横顔をこっそりと撮影し、妹であり巫女でもある若宮汀子は、ハッシュタグをつけてSNSに投稿した。
#一条神社 #神主 #イケメン #鎌倉 #駅近
駅近はかなり無理があるが、この際、なりふりかまっていられない。今は一人でも多くの参拝客に足を運んでもらいたかった。
床を光るほど磨く兄を見つめ、汀子は入口で小さく息を吐く。
確かに雅臣は、八百万の神々が祝福を授けたような見事な造形の持ち主だ。きめの細かな色白の肌、こめかみに向かってすうっと流れる涼やかな一重。眉毛はくっきりと太く、唇は薄く引き締っており、やや酷薄な印象を与える。それがまた、氏子のお婆様がた、もとい、お姉様がたには、光源氏もかくやなどと、たいそうウケがいい。
ただ──中身が残念なのである。潔癖症の完璧主義、口が悪いうえに無愛想。ゆえに、特定の恋人は汀子が記憶する限りいなかったはずだ。設計事務所を退職してこの神社を継いだから、出会いがなくなったせいかもしれないけれど。
それでも、趣味の掃除をしているときは機嫌がいい。今日は難しい汚れでも落ちたのか鼻歌まで聞こえてくるから、もしかして快く新しい客を受け入れてくれるかもしれない。
汀子は意を決して、兄に声をかけた。
「お兄ちゃん、今日、来るから」
鼻歌がぴたりと止む。先ほどまでかすかに上がっていた形のいい唇が、ぐっと引き下げられた。
「またか」
「夢で見たもの。二十代半ばくらいかなあ。かわいい人だったよ」
「参拝客の容姿なんて興味ない。それより、まともな理由の持ち主なんだろうな」
「それはわからないよ。でも夢に出てきたってことは、聖神様が認めたってことでしょう」
「にゃあ」
いつからそこにいたのか、タマが汀子の足もとに顔をこすりつけてくる。
「ほら、タマだってそう言ってるじゃない。タマ、お客様が道に迷いそうだったら連れてきてあげてね」
「にゃあ」
タマをひとなでしたあと、汀子はあらためて兄に向き直った。
「いい? お兄ちゃんがあんな立派なお抹茶処をつくっちゃったせいで、うちは破産の危機なんですからね。ご寄進、お賽銭、ありがたく」
「おまえは、“かんながら”の意味も知らないのか」
雅臣の呆れ顔に、むっと言い返す。
「知ってるよ。神様のご随意にってことでしょう。その結果がこれ、この貧乏暮らし。いい? 私は、大学生なの。テストとかキャンパスライフとかいろいろあるの。ほかにも巫女さんのバイトを雇えるくらいには財政状況を回復してもらわないと」
「わかったよ。話くらいは聞いてもいいけど、くだらない理由だったら断るから」
まったく、頑固なんだから。
ぷっと頬をふくらませると、汀子はタマを連れてその場をあとにした。
大学で講義のない今日は、夕方までこの〈こよみ庵〉で店番をしているのだが、何しろ人が来ない。ご近所の厚意であちこちに看板を設置してもらっても、ぜんぜん来ない。売上帳は日々、驚きの白さである。
たまに、SNSの投稿を目にした若者たちが映えを求めてやってくるも、彼らの賽銭など最高額でも五百円。罰当たりな考えだとは思うが、貧乏神社には焼け石に水の額だった。
今日の参拝客が、お金持ちのお嬢様だといいんだけど。
「にゃあ」
庵の入口でタマが鳴く。
「あれ、もういらっしゃったの」
外へ出てみると、夢で見たとおりの女性が何やら熱心に手を合わせていた。
お参りを終えると、ふと気配を感じた。足もとを見下ろせば、沙織の目をじっとのぞくようにして先ほどの白猫が行儀よくたたずんでいる。
春にしては肌寒い山道で迷ってしまい、靴擦れしたかかとの上あたりをさすってかがんでいたところへ、この猫が「にゃあ」と話しかけてきた。妙に品のいい猫で、まるで道案内でもするように「にゃあにゃあ」と鳴きながら、沙織を振り返り、振り返り、この一条神社まで連れてきてくれたのである。
赤い首輪をしているから近所で飼われているのだろうとは思っていたが、神社の猫なのだろうか。瞳は薄いブルーで、時計の目盛りのように虹彩がぐるりと浮かんで見える。
「おまえ、ここの子なの」
白猫は、頭をなでようとした沙織の手のひらをすり抜け、少し進んでこちらを振り返った。先ほどと同じように、まるでついてこいと言わんばかりである。
「あっち?」
しっぽが遠ざかっていく右手に目をやると、本拝殿の破れ具合には似つかわしくないモダンな建物が目に入った。社務所だろうか。それにしては、販売物もなさそうだ。
興味をひかれて近づいていくと、ちょうど入口に巫女さんが出てきた。楚々とした立ち姿で、澄んだ瞳をこちらに向けている。
「いらっしゃいませ。さ、どうぞどうぞ。お待ちしておりました」
「え」
思わず振り返るが、沙織の後ろには誰もいない。
「私、ですか」
「もちろんです。お抹茶でもいかがですか。こちらから見る竹林、ものすごく人気の撮影スポットなんです」
「人気の──?」
思わずこぼれた沙織の疑問には答えず、巫女は笑みを貼りつけている。先ほど澄んで見えた瞳は、むしろ世俗的な光を宿してギラついていた。
「えっと、私、少し急いでいるので」
「あ、待ってください」
巫女は慌てて駆け寄ってくると、沙織の腕をがっしりとつかんだ。
「何か、後悔していることがあるんじゃないですか」
驚いて足が止まる。
「どうしてそんなことを?」
風が境内を渡り、竹林がざわめく。
「あなた、うちの神様に呼ばれてここに来たんです」
「はあ」
さんざんネットで検索し、ここなら御利益がありそうな気がしてやってきたのに、もしかしてハズレの神社に詣でてしまったのだろうか。
助けを求めて周囲を見回すが、人っ子ひとり見当たらない。
「よかったら、お話ししていきませんか。今、ちょうど暇ですし」
「それは、見ればわかりますけど」
ぐ、と声を詰まらせた巫女は、それでもめげずに勧誘してくる。
「うちのお抹茶、本当においしいんですよ。それに絶景ですし。ここまでいらっしゃったなら、足も疲れてますよね」
確かに、靴擦れも相まって、沙織の足は鈍く痛んでいた。
「さ、どうぞどうぞ。よかったらお話も聞きますから。お名前は?」
「板谷沙織ですけど」
やや強引に背中を押す巫女にうながされるまま、〈こよみ庵〉と看板の出ているガラス張りの建物へと足を踏み入れていた。
断ろうと思えばそうできたものを、なぜ巫女に言われるがまま来てしまったのだろう。
席に着きながら、ぼんやりと思う。
『時帰りの神様』は全3回で連日公開予定