「喜八さんとおっしゃるんですね」
新兵衛は喜八に声をかけた。
「おれはこの向かいの部屋に泊まっている客で、新兵衛と申します。昨夜、おつたさんが階段の下に倒れていたので、おれの連れがこの客間に運びあげたんです」
新兵衛はそれからの経緯を簡略に話した。
「それはお世話をおかけしました」
喜八は膝を揃えて座り、新兵衛に頭を下げた。
「事情は聞きましたが、どうするつもりです?」
「どうすると言われても、いますぐは……」
よくはわからないと、喜八は困惑顔で首をかしげる。二十七、八のやさ男で、実直そうな顔をしていた。
「死んだ赤ん坊には申しわけないけど、こうなってよかったんじゃねえですか」
そう言う新兵衛を喜八は黙って見つめた。
「赤ん坊はおつたさんとあんたの子だった。だけど、あんたはおつたさんの姉さんの亭主だね。おつたさんが孕んだときから、わからないように気を使っていたようだけど、真実どうなんだね」
「多分、このことは誰も知らないはずです」
「このことというのは、あんたとおつたさんの仲ってことですかい?」
「それもありますが、身籠もったことも知られていません」
ふうと、新兵衛はため息をついた。
「おつたさんは、小さな命を粗末にしたくなかったが、赤子を産みたくなかった。生まれてほしくないと思っていた。ところがおつたさんは、無事に赤子を産んだ。産んだが、その子は死んでしまった。つまるところ、あんたたちが黙っていれば、このことは家の者にも店の者にも知られないということだ」
「………」
「知られちゃまずいことだからね。まあ、おれが余計なことを言うべきではないだろうし、あんたとおつたさんがどうなろうが、あんたのおかみさんとどうなろうがおれの知ったこっちゃないが、その赤ん坊だけはちゃんと成仏させなきゃならねえんじゃねえかな」
「おっしゃるとおりです」
喜八が殊勝に頭を下げれば、おつたは嗚咽を漏らした。
「おつたさん、あとは喜八さんとよくよく相談することだ」
新兵衛はそう言うと、懐から財布を取り出して、二人の前に一分金を差し出した。
「線香代に使ってくれますか」
喜八とおつたは慌てて、そんなことはしなくていいと拒んだが、
「なに、袖振り合うも多生の縁と言うではないですか。遠慮なく使ってください。それに一旦出したものを引っ込めることはできませんで……」
新兵衛はそのまま立ちあがると、廊下に出て自分の部屋に戻った。
茶を飲みながら煙管をくゆらしていた稲妻がじろりと見てきた。
「若旦那、聞いていたぜ。なかなか乙なことをやるじゃないか」
「おれのやり方は間違っていませんか」
「間違ってなどいない。若旦那を見直した思いだ」
稲妻はそう言うと、にやりとした笑みを片頬に浮かべた。
「それじゃ若旦那、赤ん坊のことはうまく収まったんでございますね」
和助が顔を向けてくる。
「あとのことは、あの二人にまかせるしかないだろう。おれたちがしゃしゃり出ることではない」
「さすが若旦那。あたしゃ、そんな若旦那に惚れちまってんです」
「気色悪いこと言うんじゃない。それより飯を食ったら出立だ」
「へえへえ、今日は箱根でございますね。その前に腹拵えでやんすね。腹が減っては戦はできぬと申しますから。ささ、稲妻さん、朝飯です。若旦那が難儀なことを朝飯前に片づけたんでめでたしめでたしでやんす」
おちゃらけたことを口にする和助を尻目に、新兵衛と稲妻は食事をする一階の座敷に移った。
例によって大食漢の稲妻は飯を三杯食べて、爪楊枝をくわえてから、
「若旦那、宿賃と飯代もおれの手間から引くと言うんじゃないだろうな。刀の代金と店賃は引かれてもかまわぬが……」
と、用心深そうな目を新兵衛に向けた。
「稲妻さん、おれはそんなケチなことはしませんよ。どうぞご安心を」
稲妻は安心したような顔でうなずいた。
朝餉を終えて表に出ると、空に雲が多くなっていた。
「ありゃ旦那、雲行きがあやしいでやんすよ。まさか雨が降るんじゃないでしょうね」
和助が空を眺めて言う。
「降られないうちに先を急ごう」
新兵衛は箱根に向かって歩き出した。あちらの旅籠、こちらの旅籠から旅人たちが出てくる姿が見られ、往来に人が増えていた。
新兵衛は一度相模屋を振り返った。だが、おつたと喜八の姿はなかった。
(あとはうまくやってくれ)
心の内でそうなることを祈るだけだった。
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