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 窓を開けると、朝ぼらけの薄い霧が緑濃い山を流れていた。清々しい風といっしょに鳥たちの声が聞こえてくる。
 新兵衛は両手を大きくあげ、清涼な風を胸いっぱいに吸い込み、ぱんと両頬をたたいた。和助は枕を抱いて寝ている。稲妻はもじゃもじゃと毛の生えた胸をさらしていびきをかいていた。
「おい、起きろ。朝だ」
 新兵衛が和助の尻を蹴飛ばすと、
「もう朝でやんすか」
 と、和助が寝ぼけ眼で半身を起こした。稲妻も声に気づいて目を開け、夜具のうえに胡坐をかいた。
「顔を洗ってくる」
 新兵衛が部屋を出ると、しくしくと泣く女の声が聞こえてきた。おつたの部屋だ。
「おつたさん、いかがなさった?」
 声をかけても泣いているおつたは返事をしない。
「どうしたんだい?」  
「死んだ。死んでしまったんです」
「………」
 まさかと思った。
「どういうことだい?」
「わたしの、わたしの子が……」
 おつたはそう言うと、ひときわ高い声で泣きはじめた。
「邪魔をするよ」
 新兵衛が失礼を顧みず障子を開けると、おつたは布団の上で赤ん坊を抱いたままぼうの涙を流していた。赤ん坊はぐったりしていて目を閉じていた。
「死んだって、ほんとに……」
 おつたは泣きながらうなずく。新兵衛はそばに座って、昨夜生まれたばかりの赤ん坊を眺めた。息をしていないということがわかった。
「わたしは悪い女です。ひどい女です。罰あたりな女です」
 おつたはそう言って、息をしていない赤ん坊の額をやさしくなでながら泣く。
「そんなことはない」
 なだめる新兵衛におつたは泣き濡れた顔を向けてきた。
「この子が生まれないことを祈っていたんです。生まれてこないでと……でも、生まれてきた。逆子だった。生まれたときには、腹をくくって大事に育てようと決めたのに……でも、死んでしまった。わたしのせいで、わたしが殺したようなものです」
「おつたさん、そう自分を責めるもんじゃないよ。悲しいだろうけど、あんたが悪いんじゃない。そうだろ。死んだ赤ん坊には悪いが、また元気な子を産めばいいじゃないか」
 おつたはいやいやをするように首を振る。
「この子はわたしの姉の亭主の子なんです」
「え……」
「わたしは姉さんを裏切り、姉さんの旦那といい仲になって、そして身籠もってしまったんです。だから、生まれないでほしいと願っていました。でも、赤ん坊は生まれてきた。そして、わたしの願いどおりに死んでしまった。ひどい女でしょ。そうでしょ……」
「すると、あんたは不義を……」
 おつたは泣き顔を隠そうともせず、うんとうなずく。新兵衛は少し頭が混乱した。なにを言ってやるべきか、すぐには言葉が見つからなかった。
「わたしの家は神奈川のすいうんろうという料理屋です。親は男の子に恵まれなかったので、姉さんが婿を取って家業を継がせたんです。そして、わたしはその婿養子の、喜八さんと言うんですけど、その人といい仲になってしまい……。姉さんを裏切って、姉さんに隠れてこんなことになったんです」
 新兵衛は黙って聞く。おつたは江戸から来たと言ったが、ほんとうは神奈川から隠れるように戸塚まで来ていたのだ。
「それで……」
「どこか遠くに行って腹の子を産んで、捨て子にするつもりでした。でも、こんなことになってしまって……わたしは、もう……」
「その喜八という姉さんの亭主は知っているのかい?」
 おつたは、うんとうなずく。
「姉さんは?」
 おつたは気づかれないようにしてきたと言った。
 新兵衛は視線を彷徨さまよわせてどうしたらよいかと、最善策を考える。
「おつたさん、死んじまった赤ん坊は可哀想だけど、これからのことを考えなきゃならない。いったいどうするつもりだい? 赤ん坊の父親はどう考えているんだい?」
「よくわかりません。困ったことになったと言ってはいましたけれど……」
 当然、喜八という父親は困るだろう。婿養子に入って料理屋の跡取りになったはいいが、女房の妹を孕ませたのだ。 
「若旦那、若旦那……」
 廊下から和助の声がした。
「こちらにいらっしゃるんで……」
 新兵衛は一度おつたと顔を見合わせてから返事をした。
「ああ、ここにいる。なんだ?」
「帳場に喜八って人が来てんです。おつたさんを探しに来たと騒いでるんです。あっしは知っていてもなにも言っていませんが、どうしたらいいいんです? あっ、あ……」
「どうした?」
 新兵衛が声を返すと、慌ただしい足音がして、がらりと障子が開けられた。
 おつたは死んだ赤子を抱いたまま目をみはって、あらわれた男を見た。男もおつたを見て、胸に抱かれている赤ん坊を見た。
「おつた」
 男がつぶやいた。
「喜八さん」
おつたが声を返した。
「その子は……」
「昨夜産んだんですけど……死んでしまいました」
「まさか、おまえさんが……」
 おつたはぶるぶるとかぶりを振って、赤ん坊は逆子で生まれ、あまり元気がなかった。そして、朝起きたら死んでいたと話した。
 一瞬、時が止まったようにその部屋に静寂が訪れた。

 

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