(ああ、産まれてしまう。お願い出てこないで……)
 おつたは陣痛に耐え、頭が朦朧もうろうとするなかで必死に祈るように胸のうちでつぶやいた。二階にあがる階段にしがみつき腹を押さえ、喘ぐような荒い息をしながら、遠のきそうな意識を取り戻そうとしていた。
まわりが騒がしい。そばでいくつもの声がするが、いったい誰の声だかわからない。
 そのうちふわっと体が浮いた。誰かに持ちあげられ運ばれているのだと遠のく意識のなかで思った。
 それからいかほどたったのかわからないが、おつたは布団に寝かされていた。薄ぼんやりと目を開けると、そばに三人の男がいた。
「ひっ……」
 驚いて半身を起こしそうになったが、「静かに、静かに」と、大きな男にやさしく肩を押されて、また横になった。
「大丈夫かい?」
 覗き込んでくるのは色白の若い男だった。その隣に垂れ目のひようきん顔があった。そして、体の大きいひげ剃り痕の青い男がいる。
おつたはぼうとした目でその三人の男たちを眺めた。陣痛は治まっている。
「じきに取りあげ婆さんが来るから安心しな」
 そう言うのは色白の若い男だった。
「あの、ここは……」
「ここはって、戸塚宿の相模屋って旅籠はたごだよ。おまえさんはここに宿を取ったんだ。覚えていないのかい……」
 そう言われると、とめおんなに袖を引かれるまま旅籠に入ったことを思い出した。
「おれはしんと言う。怪しいもんじゃない。同じ宿の客だ。こっちは連れのすけで、こちらはいなずまろうさんだ」
 おつたは紹介された男を順繰りに眺めた。稲妻五郎というのは侍のようだ。体が大きくていかつい顔をしている。
「稲妻さんが階段の下で悶えてるおまえさんをここに運んでくれたんだ」
 新兵衛が説明する。おつたは稲妻という侍を見て、小さく顎を引いて一度目を閉じた。礼のつもりである。
「やや子が産まれそうでやんすよ。元気なやや子を産みましょうよ」
 にたにたとした顔で和助という小男が言う。
「いや」
 おつたは顔を横に向けた。赤ん坊には生まれてほしくない。産みたくない。
「は……」
新兵衛がげんな顔をして言葉をついだ。
「産みたくないのかい? そりゃないぜ。もういつ産まれてもおかしくないと、この宿の女中が言っているんだ。それに取りあげ婆さんを呼んである。安心して元気な子を産みな」
「亭主はどうしたのだ?」
 稲妻という侍が言った。
「……いません」
「は?」
 新兵衛が意外だという顔で、連れの二人と顔を見合わせた。そのとき廊下にバタバタとした足音がして、二人の女中と年寄りの女が部屋にやってきた。二人の女中は桶とかんを持っていた。
 太った女中がこの人が取りあげ婆さんだと、新兵衛たちに説明する矢先に、おつたは布団をめくられた。
「ああ、痛みは治まっているようだね。でも、すぐに産痛が起きるからね。ああ、これ殿方たちはこの部屋から出て行っとくれ。見世物じゃないんです」
 取りあげ婆さんが、三人の男を部屋から追い出した。
 おつたはそれから腹のあたりを取りあげ婆さんにさわられ、股を大きく広げられ、「どれどれ見せてごらんよ」と、股の間を覗かれた。
 羞恥心が勝り、両脚を閉じようとしたが、取りあげ婆さんは自分の腕で阻止して、しばらく股間を覗き込み、
「今夜か明日の朝には産まれそうだね」
 と、体を起こした。
 それからあれこれと聞かれた。どこから来たのだ? 家はどこだ? 亭主はどうしているのだ? 
 おつたは正直には答えなかった。亭主は死んで、家は江戸だと言った。
「亭主に死なれて、江戸からはるばるおもの体で、どうしてここまで来たんだい?」
 取りあげ婆さんは慈しみのある眼差しを向けてくる。
「連れがあったのですけれど、途中ではぐれてしまったんです」
 これは半分ほんとうだった。途中までついてきたのは、姉の亭主のはちだった。その喜八の子を、おつたは孕んでいるのだ。要するに密通の末に妊娠したのだった。 

「あの女、亭主がいないと言って、赤子を産みたくないようなことを言ったな。いったいどういうわけだ」
 自分たちの客間に戻った新兵衛は、和助と稲妻を眺めた。
「そりゃ若旦那、亭主がいないってことは夫婦者じゃないってことでしょ。つまりは行きずりの男の間にできたか、悪い男に手込めにされて……いやいや、そんな悪いこと考えちゃいけませんね。きっと深いわけがあるんでございましょ」
 和助はたくあんを口に放り込んでぽりぽり言わせた。
「和助の言うことがあたっているやもしれぬ。されど、もう取りあげ婆さんが来たのだ。余計な心配はいらぬだろう」 
 稲妻は手酌で酒を飲む。すでに日が落ち、表は暗くなっていた。客間には行灯あんどんがひとつしかないので薄暗い。
「そのうち元気な赤ん坊の声が聞こえてくるだろう。さて、飯を食う前にひとっ風呂浴びてくるか」
 稲妻が腰をあげて部屋を出て行った。
「若旦那、お風呂はいかがします?」
「そうだな、おれも風呂にするか……」
 新兵衛は手拭いを肩に引っかけて部屋を出たが、階段を下りようとしたときに、
「ほらもうすぐだよ。おつたさん、息んで息むんだよ。そうそうその調子だよ、もうすぐだよ」
 取りあげ婆さんの声が聞こえてきて、おつたという女の苦しそうな息む声がつづいた。
 新兵衛は階段に足をかけたまま立ち止まり、おつたの客間を振り返った。取りあげ婆さんと女中の影が障子に映っていた。
「ほら、出てきた。もうちょいだ。もうちょっとだよ」
 取りあげ婆さんがおつたを励ましている。新兵衛が階段にかけた足を戻したとき、
「産まれた。出てきたよ。出てきた」
 という取りあげ婆さんの嬉しそうな声がして、んにゃんにゃとか細く泣く赤ん坊の声が聞こえてきた。
「産まれたんだ」
 新兵衛はおつたの客間を振り返った。

 

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