わたしたちでよければいつでも呼んでください。
そう言って、野口さんのマンションを後にしました。ただ、野口さんの言ったことを鵜呑みにしていたのはわたしだけでした。
奈央子さん、流産したなんて、かわいそうだね。でも、野口さんがいてくれたら大丈夫だよね。どんなときでも守ってくれる、って感じだもん。野口さんを見てると、本当に奈央子さんを愛してるんだな、ってものすごく伝わってくるし。かわいそうだけど、なんだかうらやましいな。
わたしのアパートで一緒に夕食をとりながら、安藤にそんなふうに言いました。
確かに、愛されてはいるんだろうね。
はっきりとした物言いをする安藤には珍しい、どこか含みのある言い方でした。言おうか言うまいか、そんな様子でしたが、問いつめると渋々と教えてくれました。あくまで社内の一部での噂だから、と前置きされて。
奈央子さんは不倫をしていた、と言うのです。
奈央子さんは結婚するまで、野口さんと同じ会社の受付嬢をしていたので、噂はあっという間に広がっていったそうです。
年下っぽい男の人と、腕を組んで歩いているのを見かけたことがある。ものすごくきれいな顔をした男の人で、奈央子さんもあの通りだから、本人たちは目立たないようにしていたつもりかもしれないけど、そこだけドラマのワンシーンのようだった。二人がホテルに入るところを見かけた人もいるらしい。
噂はそこまでだそうですが、安藤はこんなことを言いました。
奈央子さんが監禁されたのは、流産のせいじゃなくて、噂が野口さんの耳に入ったからじゃないかな。でも、噂も流産も本当だとしたら、どっちの子だったのかな。本当に転んで流産したのかな。杉下は野口さんのこと尊敬しているようだけど、あの人はそんなに立派な人じゃない。
一瞬、わたしの頭の中に、野口さんが奈央子さんを突き飛ばし、おなかを蹴る姿が思い浮かびました。
奈央子さん、大丈夫かな。
そう言いながら、二人同時に、アパートの古いドアに付いているチェーンを眺めてしまいました。
ただ、そのときは心配だったのですが、ちょうどその頃からアルバイトが忙しくなり始め──清掃会社です。年末の大掃除の時期だったので──奈央子さんのことを気にする余裕がなくなってしまいました。
それに、あの日以来、野口さんからマンションに呼ばれることもありませんでした。安藤も仕事が忙しくてほとんど連絡が取れず、結局、奈央子さんのことを思い出したのは、お正月に実家に帰ってからです。
きっかけは高校の同窓会でした。
東京に進学した成瀬くんが周りの子たちとアルバイトの話をしていたのですが──同じ学年で島から東京に出たのは、わたしと成瀬くんの二人だけでした。島から出るとしても関西までの人がほとんどだったので。でも、その日再会するまで、携帯番号も知らないくらい、交流はありませんでした。だから、みんなと話しているのを、席が近かったから何気なく聞いていただけなのですが……。
彼が働いているお店の名前を聞いて、ピンときたんです。『シャルティエ・広田』──奈央子さんが独身の頃、何度か野口さんに連れていってもらったことのあるフレンチレストランだ、って。奈央子さんと一緒に雑誌を見ていたときに、特別な日を迎えるなら、って特集でそこのお店が紹介されていて、教えてもらった、というか、自慢されました。希美ちゃんも彼に連れていってもらえばいいのに、と言われて、いろんな意味でムッとしたので憶えていたんです。
わたしは成瀬くんに、お店のことや仕事のことをいろいろと訊いてみました。そこのバイトの人たちって料理を食べられるの? まかないは出るの? 一人最低三万円も出すような価値があるくらいおいしいの? とか、そういったことをです。女子大生のただの知りたがりです。もし、彼に、値段の割にはたいしたことない、と言われたら、学校の知り合いにでも、さも行ってきたかのように触れ回ってやろうかな、と軽く考えていたくらいです。
くだらない。田舎者の悪いクセです。
でも、成瀬くんは料理を絶賛しました。料理に何万円も払うなんてバカバカしい、ってずっと思っていたけれど、うちの料理なら納得できる。それを聞いて、成瀬くんの家が数年前まで料亭をやっていたことを思い出しました。全盛期には島中のお祝い事がそこで行われていたという伝統のある店だったので、そこの家の子の成瀬くんなら舌も肥えているだろうし、本当においしいのだろうな、と思いました。
わたしもアルバイトをするのなら、清掃会社なんかじゃなくて、有名なレストランにすればよかった、と思いながら仕事の内容なども訊ねました。
『シャルティエ・広田』が一日一件限定の出張サービスをしていることを知ったのは、そのときです。成瀬くんは主にそっちを担当しているのだ、と言いました。足を悪くしてあまり外出できなくなった奥さんのために、ご主人がこれを頼まれた家に行ったこともあるけど、すごく喜んでもらえて嬉しかったよ。というエピソードなんかも教えてくれて、ふと思いついたんです。
奈央子さんに、これを頼んであげたらどうだろう。
噂のことも気になるし、野口さんと二人きりというよりは、わたしと安藤もいた方がいいかもしれない。石垣島で初めて会った日のように、みんなで楽しく食事ができれば、奈央子さんも元気になってくれるかもしれない。
松の内が過ぎてすぐ、一月八日の土曜日でした。野口さんのケータイに電話をかけて年始の挨拶をして、さっそく相談すると、「それは知らなかった。ぜひやろう」と言ってくれて、そのまま奈央子さんとも替わってくれました。少し調子がよくなったのか、声も明るい感じで、「楽しみだわ、ありがとう」と言ってくれました。
頼みたい料理があるらしく、予約は野口さんがしてくれることになり、日時は追って連絡すると言われました。あと、安藤には会社で自分から伝えるから、わたしからは何も言わないでほしい、とも。
将棋のためにです。
安藤に追いつめられて保留にしている対局の、巻き返し方法をわたしに相談するために、時間をずらして家に呼ぶのだと言われました。そういうことはよくあったのですが、こんなときでもか、と少しあきれてしまいました。
わたしが安藤ではなく、野口さんの味方をするのがヘンですか?
最初に、安藤を友人なんて言ったからいけないのかな? ライバルです。だからお遊びの将棋で、たとえ野口さんを介してでも、二人で指し合うことになれば、負けたくないんです。安藤が就職してからは直接対局する時間があまり持てなかったので、野口さんに相談されるのをわりと楽しみにしていたくらいです。
でも、安藤はわたしが野口さんの味方をしていたことは知りませんでした。
数日後、野口さんから連絡をいただき、出張サービスは七時からで、マンションにはわたしが五時半、安藤が七時前に訪れることになりました。
そこで、あんなことが起こるなんて。
余計なことを思いついたわたしのせいなのでしょうか。
一月二十二日、土曜日。わたしは約束の五分前、五時二十五分にマンションに着きました。受付の人に取り次いでもらって、エレベーターに乗って、ドアの横にあるインターフォンを押しました。開けてくれたのは奈央子さんです。野口さんも隣りにいました。相変わらずドアの外側にチェーンは付いたままでしたが、奈央子さんの表情が明るくて、ホッとしました。
家で『シャルティエ・広田』のディナーを楽しめるなんて、素敵だわ。ありがとう、希美ちゃん。ありがとう、あなた──。
そう言って、野口さんの腕を取り、にっこり微笑む姿を見ると、邪魔者はこのままもう帰ってもいいんじゃないか、と思ったくらいです。でも、せっかくの食事です。遠慮なく上がらせていただきました。
ところで、出張サービスと聞いて、まさか、宅配ピザや出前のお寿司を想像なんてしていませんよね。と、えらそうに言っても、わたしも成瀬くんから聞いただけなのですが。コースになっている料理はそれぞれ保温容器に入れて運ばれて、お店の人が台所でひと品ずつお皿に盛りつけながら給仕してくれるんです。ワインも何種類か用意されていて、ソムリエのようなこともやってくれます。食器も持ってきてくれるし、食後の片付けもすべてお店の人にやってもらえます。
準備といえば、テーブルのセッティングくらいでしょうか。
奈央子さんはその準備の途中だったようで、広いダイニングテーブルの上にはたたんだままのテーブルクロスやナプキン、あと、さすがと思ったのですが、シルバーの燭台と細長いキャンドルが置かれていました。一応わたしは、野口家に招待されたお客様という立場でしたが、そもそも言い出しっぺはわたしでしたし、奈央子さんにゆっくりと食事を楽しんで、元気になってもらいたい、と思っていたのに、準備をさせるのでは申し訳ないと思い、指示を出してくれればわたしが準備をするので、奈央子さんはゆっくり座っていてください、と言いました。
でも、お料理サロンで勉強したことを、みんなに見てもらえるチャンスだから、と言って断られてしまいました。テーブルの足元には燭台と同じシルバーの花瓶も用意されていたのですが、お花は注文しているけれどまだ届いていないの、とも言われました。それに、野口さんにも、そこは奈央子にまかせて、と言われました。安藤が来るまでに、どうしても作戦を練っておかなければならないからです。
わたしはさっそく野口さんの書斎に案内されました。
部屋の中央に置かれたテーブルの上に、将棋盤が置かれ、駒が並べられていました。捨て駒の位置は違いましたが、攻め駒の配置は、前回野口さん宅を訪れたあと、安藤とアパートで対局したときと同じものでした。あれからひと月以上経っていましたが、珍しくわたしが負けてしまったこともあり、その配置は完璧に憶えていました。
でも、その後の対策はまったく立てていないままでした。これはダメかもしれない、と思いましたが、野口さんの期待のこもった顔を見ると、何と言えばいいのかわかりませんでした。そこで、日頃、気になっていたことを訊いたりしながら、時間かせぎをすることにしたんです。
わたしは、なぜいつも野口さんが安藤──職場の部下とのお遊びのような対局なのに、勝ちにこだわろうとするのかが気になっていました。わたしと対局したときは、あっけなく負けて、やっぱりきみにはブレーンでいてもらった方がいいな、などと笑いながら言うのに。
たまには安藤にも勝たせてあげる、というのはいかがでしょうか。
そんなふうに言いましたが、それに対する答えは簡単でした。
部下に負けるわけにはいかないよ。仕事に関しても自分の方が優秀だなんて、勘違いされるとやっかいだからね。
早い話が上司として虚勢を張りたいだけだったのです。ただ、それなら自分でがんばるべきでは? と思いました。わたしが安藤に勝てるのは、わたしが安藤に将棋を教えたので、ある程度駒の動きを予測できるからです。それなのに、安藤は野口さんにわたしがついていることを知らずに、野口さんと真剣勝負をして敗れ、この人にはかなわない、と思っているかもしれないのですから、納得できませんでした。実際、安藤は入社当時よく、野口さんはすごい人だ、というようなことを嬉しそうに言っていました。
今日は負けてもいいんじゃないの? そんな意地悪心が出てしまいました。攻略法がまったく思いつかないわけではありませんでしたが、ここまで追いつめられるともうダメかもしれません、と言いながら、野口さんを困らせてやろうと思ったのです。
でも、そんなことしなければよかった。
そうすれば早い段階で攻略法が見つかり、わたしもリビングに出て行っていたかもしれないのに。
ここに飛車を持ってくるのはどうだろう、と少し的はずれな意見を言いながら駒を動かしていた野口さんのケータイが鳴ったのは、六時十五分頃だったと思います。なんとなく出張サービスからかと思い、もうそんな時間か、と自分のケータイを出して時間を確認したから憶えています。
電話の相手は安藤で、会社に寄って出てきたら、予定よりずいぶん早く着いてしまった、と言う声が聞こえてきました。なんでこんなに早く! 野口さんのイライラした口調に、このままわたしがじらしていたら、せっかくの食事が台無しになってしまうかもしれないと思い、そうだ! と大袈裟に手を打って駒を動かし始めました。
それを見た野口さんは、よしよし、といった感じで、仕事の話をしたいからラウンジに直接行って待っててくれ、と安藤に指示を出しました。それから十分ほどして、わたしがあともう少しでいけそうです、と言うと、野口さんはそろそろラウンジに上がって安藤を足止めしておくから、攻略法が完成したらメモを残しておいてくれ、と言って書斎を出て行きました。
ドアが開いた瞬間、玄関の方から奈央子さんと男の人の声が聞こえましたが、そういえば花が届くと言ってたな、とあまり気にとめませんでした。
それから、正確にはよくわかりませんが十五分から二十分くらいこもっていたと思います。ようやく攻略法が見つかりました。でも、メモを残しておくよう言われたのに、書くものが見あたらず、勝手に机の引き出しを開けるのも抵抗があったので、奈央子さんにお借りしようと思い部屋から出たんです。
そうしたら……リビングから男の人の声が聞こえてきました。「奈央子!」と叫ぶような声でした。野口さんではありません。それから、呻くような声がして、何かあったのか、とあわてて見に行くと、男の人が背中を向けて立っていました。
何が起こったのか把握できず、声も出せず、その場に立ちすくんでいると、男の人が振り返りました。からだがびくっと震え上がりそうになったのに、顔を見て思わず、あっと声を出しそうになりました。
男の人は、西崎真人。わたしのアパートの部屋の隣りに住んでいる人でした。
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