最初から読む

 

第一章



 瀧川たきがわたつはフォーマルスーツに身を包んでいた。有村ありむらあやも紺のセットアップスーツを着て、首元を真珠のネックレスで飾っている。
 はるはグレーのジャケットにワインレッドのネクタイ、チェックのスカートの制服を着ていた。
 今日は、遙香が合格した私立聖稜中学校の入学式だった。中高一貫校で、一人一人の個性を重視した教育に定評のある学校だった。
 瀧川は綾子と共に、遙香の入学式に出席していた。
 父親として──。
 三人は連れ立って、ミスター珍に戻ってきた。店は臨時休業していた。
「ただいまー!」
 遙香が先に入ると、中に、ごうてつやす夫婦の他、制服姿の警察官がいた。
 綾子と瀧川が入る。
「あ、ふなさん」
 瀧川が笑顔を向ける。三鷹第三交番に勤務する舟田あきとしだった。
 かつての瀧川の先輩で、綾子や瀧川とは学生時代からの顔見知りだ。二人にとって父親のような存在でもある。
「遙香ちゃん、おめでとう」
「ありがとう。どう?」
 遙香が制服姿でポーズを取る。
「よく似合ってる。お母さんの若い頃にそっくりだ」
「お母さんも私立だったの?」
「まさか。私たちの時はセーラー服。達也くんは詰め襟を着てたね」
「公立は今でもそれが普通だ。けど、ほんと、綾子の学生時代によく似てる」
 瀧川は目を細めた。
「舟田さん、これから遙香の入学祝いにごはんを食べに行こうと言っているんですけど、一緒にどうですか?」
 瀧川が言う。
「いや、まだ勤務中だからな。遙香ちゃんの制服姿を一目見たくて、寄っただけだ」
 舟田は微笑み、少し瀧川に目線を送った。
 瀧川は黒目を動かして、返す。
「綾子、遙香、着替えてきなさい」
「えー、私、制服がいいなあ」
「ダメダメ。これから毎日着て行くものだから、汚しちゃいけないだろう? 楽な格好に着替えておいで」
「はあい」
 遙香はふくれっ面で、綾子と二階に上がっていった。
「おばちゃんたちも、出かける準備をして」
「わかったよ。ほら、あんた。着替えるよ」
 泰江が哲司を引っ張って、奥へ引っ込む。小郷夫妻は瀧川と綾子の面倒を長年見てくれていた身内同然の恩人だ。
 瀧川と舟田の二人になった。瀧川は舟田の横に腰を下ろした。
「どうだ、有村の生活は?」
「快適です。このままずっと有村のままでいられることを願いますよ」
 瀧川が苦笑する。
 瀧川は前回の潜入捜査で大怪我を負い、二カ月間入院していた。
 退院後、瀧川は公安部との約束通り、少年課への異動が決まった。
 しかし、それには条件があった。
 公安部から要請があれば、協力を検討すること。
 本来、このような条件を呑む必要はないが、瀧川は公安部のやり口をよく知っている。協力を拒めば、あらゆる手で引きずり込もうとする。瀧川が所属する公安部ゼロ課、通称、作業班はそういう組織だった。
 であれば、協力を“拒まない”という姿勢だけは見せておく方がリスク回避にもなる。
 瀧川は拒まない代わりに、自分からも条件を提示した。
 まず、綾子と籍を入れた。姓は“有村”を名乗ることにした。
 なので今、瀧川の戸籍上の名前は“有村達也”になっている。そして、生活安全部少年課に所属しているのは有村達也となっている。
 その上で、公安部の在籍名は旧姓の瀧川にするよう申し出た。
 万が一、敵に在籍がバレたとしても、有村と瀧川を完全に別人扱いしていれば、少しでもリスクは減らせる。
 また、協力を拒否した場合、無理に瀧川を公安部に引き戻さないことも強く要望した。
 公安部長の鹿くらみのるは、これらの条件を二つ返事で了承した。
 鹿倉にとって、どんな形でも拒ませないことが重要だった。
 一度条件を折り合わせてしまえば、どんな形でも瀧川を引きずり込むことはできると、鹿倉は踏んでいる。
 それは瀧川も重々承知していた。だからこそ、条件を突き付けて呑ませた。少なくとも、これで丸腰ではなくなる。
 鹿倉との話し合いの結果は、舟田にも伝えている。
 舟田はかつて公安部員の養成教育を受けていた。その後、公安部員とはならなかったが、鹿倉のことはよく知っていて、公安部の手口にも精通している。
 瀧川にとっては、仕事で唯一心を許せる相談相手だった。
「その後、接触は?」
 舟田が小声で訊いてきた。
「今のところ、まだ」
 店の奥に目を向け、短く答える。
「なら、よかった」
「何か気になることでも?」
「詳細は私もつかめていないんだが、何やら、公安部の動きがあわただしい。何かあったようだ」
 舟田が早口でしゃべる。
 瀧川の顔が険しくなる。
「一応、君の耳にも入れておいた方がいいと思ってね」
「ありがとうございます」
「もし、接触があっても、協力することはないぞ。君は今、少年課の有村達也として、本庁に在籍している。その仕事を全うすればいい」
「わかっています。今は、遙香の父でもありますから、危険な現場はできるだけ避けたいと思っています」
 瀧川が言うと、舟田は大きくうなずいた。
「どうしてもの時は、私に言ってくれればいい。鹿倉だけでなく、その上にも話を通すから」
「頼りにしています」
 瀧川は笑みを返した。
 バタバタと階段を降りてくる音が聞こえた。
 瀧川は立ち上がった。遙香が店に出てくる。
「あー、お父さん、まだ着替えてないの?」
「すまんすまん。すぐに着替えてくるから」
 店の奥へ向かおうとする。
「お父さんと呼ばせているのか?」
 舟田が訊いた。
「遙香がそう呼びたいと言うんで」
「そうか。いいことだ」
 舟田が目を細くした。
「そういえば、舟田のおじさん。まだ、入学祝いもらってないんだけど」
 遙香がぶしつけに言う。
「こら、遙香!」
 瀧川が睨む。
 舟田が笑った。
「用意しているんだけど、勤務中だから置いてきた。夜にまた、持って来るよ」
「やった!」
 にやっとする。
「こらこら。すみません、舟田さん」
「いいんだよ。遙香ちゃんは、私にとっては孫みたいなものだからな」
 舟田が立ち上がる。
「じゃあ、また今晩」
 遙香に微笑みかけ、瀧川を見やる。
 瀧川は目でうなずいた。

 

『警視庁公安0課 カミカゼ5 環境悪鬼』は全4回で連日公開予定