プロローグ
沖永久博の家は、島根県と広島県の県境に近い山の奥にあった。周りに家はなく、ひと気もない。
かつては林業で栄えた村だが、山仕事の従事者はもう何十年も前にいなくなり、朽ち果てた建物が木の根や苔に飲み込まれていた。
沖永は廃村に残った、たった一人の住人だ。
いや、沖永自身は、廃村とは思っていない。
この山は沖永の先祖が代々受け継いできた山で、言ってみれば、沖永家そのものでもある。
できれば、山全体を守りたかったが、山の管理は膨大な資金がかかる。
木の伐採から道の整備、水源の管理、盗伐への警戒などなど。資産家ではあったが、これらを沖永一人で賄うことはできない。人を雇ったり、防犯カメラなどの設備を整えたりすると、手持ちの資金はあっという間になくなる。
沖永は十年前、泣く泣く、山の半分を売って、現金化した。
今は、木材資源が高騰しているせいもあり、収益は上がったが、代わりに盗伐も増え、そちらの警戒警備に金がかかっている。
沖永には二人の息子がいる。それぞれ都会に出て、サラリーマンをしているが、いずれはどちらかに山を継いでほしいと願っている。
一方、山林管理の厳しさもよく知っている。
今、山で育っている木材を売れば、もう少しの間、維持管理はできるだろうが、木々を伐採し終えた後、新たに植林をする資金があるかどうか……。
沖永の下には、多くの不動産関係者が訪ねてきていた。
人口減少で宅地開発をしたいという話は減ったが、太陽光発電のパネルを設置したいという申し出は殺到した。
また、広い土地を求める企業や学校法人からの申し出もあった。県境とはいえアクセスは悪くないため、坪単価の倍額を提示する不動産屋も多い。
しかし、沖永は難色を示していた。
いずれも、大規模開発が前提となる話ばかり。売ればたちまち、代々守り続けた山は削られ、姿を変えてしまうだろう。
沖永の山から流れ出る水は、下流域の農家の農業用水にも使われている。また、木々は地滑りを防ぐための大事な基盤ともなっている。
乱開発が進めば、水は涸れ、保水力を失った山は崩れて、下流域に甚大な被害を及ぼすだろう。
それは、長年この土地で生きてきた者としての責任を放棄するようでしのびない。
できれば、息子たち以外に林業を継いでくれる人物や企業が現われれば……と願っていた。
そんなある日、高津晃久という男が沖永の下を訪ねてきた。
二十代半ばの彼は、自分に山を譲ってほしいと言った。
高津は間伐をして山の手入れをしつつ、間伐材を使って木工製品を作り、国内外で販売したいと熱く語った。また、エネルギー需要にも応えるよう、木材チップを使ったバイオ燃料開発の研究も進めているという。
沖永には願ってもない話だった。
しかし、話がうますぎる。
まだ二十代半ばの若者が、そこまでの研究と事業を展開する資金と人脈を持っているとは到底思えない。
高津は、主な原資は、志を共にする全国の若者からの融資だという。クラウドファンディングで集めていて、億の資金が集まっていると話し、通帳も見せてくれた。
さらに、企業や政府、自治体からも資金援助を得ているという。
高津は最後にこう言った。
日本を守りたい──。
沖永はその心意気に打たれ、山の売却を承諾した。
高津は、所有する山や沖永の老後の生活資金などを合わせて、三億円を沖永に支払った。
沖永は息子たちに一億円ずつ残し、残りの一億円で余生を過ごしていた。
我ながら、満足のいく結末を迎えた。
……そう思っていた。
が、一年後、久しぶりに山を訪ねてみると、様相はすっかり変貌していた。
山頂付近は切り開かれ、ガラス張りの大きな建物が造られていた。その周辺には太陽光発電のパネルがずらりと並び、ぎらぎらと光っている。
山肌は削られ、バス二台が余裕ですれ違うことのできる広い道路が整備され、住宅もぽつぽつと建っていた。道路の山側面は木を切り倒され、コンクリートで覆われていた。
まだ工事は途中だったが、自然林も含めて緑豊かだった山が、無味乾燥な盛り土に化そうとしていた。
沖永は当然、憤慨した。
高津に電話をかけるが、名刺に記された電話番号はすでに通じなかった。山の上に建った建物に怒鳴り込むが、そこにも高津の姿はない。
責任者に話を聞くと、十カ月前に高津から話を持ち掛けられ、ジェネリック医薬品の研究開発施設の建設用に山全体を購入したという。
購入金額は五億円。高津は二億円を上乗せして売却したが、研究施設を作るにはまとまった広大な土地が必要で、会社側には安い買い物だったようだ。
つまり、高津は言葉巧みに沖永に近づき、安く買い叩いて、わずか二カ月で二億円を上乗せして売り抜けたということ。
高津と沖永の取引は合法だ。彼が買った山を誰に転売しようと、沖永に文句は言えない。
しかし、転売すると知っていれば、手放さなかった。まして、山を壊してまで開発するとわかっていれば、その場で叩き出していた。
人を見る目がなかったと言えばそれだけだが、なんとも悔しい。
沖永はどうしてもひと言言ってやりたくて、高津を捜し続けた。
手掛かりは、クラウドファンディングから得られた。
高津は、〈護国の戦士〉というNPO法人を設立し、資金提供を募っていた。
謳われていたのは、沖永に話していたことそのままだ。資本家や外国人勢力から日本を守るため、山林破壊や水源の汚染を食い止めるため、若い力を結集して山林を守ろう、というものだった。
そこでは、メンバー募集と集会の知らせも出していた。
投稿欄があったので、何度か実態を知らせようと書き込んでみたが、承認がいるのか表示されることはなかった。
沖永は、自分の思い、そして、この若者の正体を知らせるべく、集会が行われるという場所に出向いた。
そこは、関東北部にある山中のキャンプ場だった。
乗用車やミニバン、キャンピングカーが集まっている。沖永はタクシーで乗り付けた。
混雑する青空駐車場に入ると、運転手が言った。
「あんたも、あのへんな連中の仲間かい?」
「へんなとは?」
「いや、駅からここへ何人も送り届けたんだけどさ。なんか、薄気味悪くうつむいたままぶつぶつ言っているヤツもいりゃあ、今の日本をどう思うかとかしつこく議論を吹っかけてくるヤツもいてさ。正直、あまり関わりたくないんだよ。けど、距離はあるんでいいお客さんだよね。会社からは積極的に乗せるよう言われてる」
話しながら、車を停め、メーターを止めた。運賃は四千九百円。地方のタクシーにとっては大きな売り上げだ。
「この集会はしょっちゅうここで行われているんですか?」
「そうみたいだねえ。月に一回は忙しいから。おかげで、このキャンプ場に他の客は寄り付かなくなっちまった。ほとんど、この連中が独占しているような状況だよ。だから、月に一度は忙しいけど、他の日は閑古鳥。いいんだか悪いんだか……」
運転手がぼやく。
「そうですか。いろいろ教えてくださって、ありがとうございます。これ、おつりはいいです」
沖永はショルダーバッグから財布を取って五千円札を出し、トレーに置いた。
「ありがたく。あんたも何か知らないけど、取り込まれないように」
運転手は素直に受け取り、沖永を降ろすと、逃げるように去っていった。
人の流れに合わせて歩いていく。木立に囲まれた歩道を抜けると、広々とした芝敷きの広場が現われた。抜けるような青空が広がり、心地よい。
奥にステージがあった。まるで、野外フェスの会場のようだ。
集まった人が、広場の半分ほどを埋めていた。二十代、三十代とおぼしき若い男女が多い。彼ら彼女らは、持ってきたビニールシートを敷き、ジュースや缶ビールを片手につまみを口にしながら、各々がくつろいでいた。
中には子供連れの姿も見える。年配者も散見された。
沖永はステージから離れた場所に腰を下ろした。シートなど持ってきてはいないので、地面にじかに座った。
何が始まるのかと待っていると、背後から声をかけられた。
「おじさん、初めてですか?」
女性の声だ。
振り向く。ハイカーのような恰好をした三十前後の若い男女五人が沖永に笑顔を向けていた。
「ええ」
沖永が笑顔を返す。
「地べたに座っていると、お尻が濡れてしまいます。私たち、いい場所を押さえているんで、ご一緒にどうですか?」
「いや、私は……」
「遠慮なく」
連れの男性が爽やかな笑顔を向ける。
沖永は若者たちを見回した。みな、どことなく品があり、育ちがよさそうに見える。
こんな若者たちが、なぜ高津のような怪しい奴が主催するイベントに集まっているのだろう。
興味が湧いた。話を聞いて、その上で高津の本性を教えれば、この子たちだけでも救えるかもしれない。
「わかりました。では、お世話になります」
沖永はゆっくりと立ち上がり、尻の埃をはたいた。
「木陰でいい場所があるんです。行きましょう」
最初に声をかけてきた女性が、沖永の手を握った。
完全に老人扱いされていることに苦笑しつつも、女性に引かれるまま、木立に入っていく。
広場に接した木々の周りには、参加者たちの姿もあった。が、女性とその仲間たちは奥へ奥へと進んでいく。
「こっちでいいんですか?」
「ええ。この森を抜けたところに、絶好のポイントがあるんです。あまり参加者が知らないところなんで」
女性は笑顔でぐいぐいと沖永を引っ張る。
進んでいくと、森の奥にコテージのような木の小屋があった。二階建てで、上は火の見櫓のようになっている。
「あの上から見るというわけですか」
「そうなんです。どうぞ、入ってください」
「いいのかい? 勝手に入って」
「私たちが借りているところなんです。どうぞどうぞ」
女性が言う。他の者たちもみな、沖永に笑顔を向け、ドアを開いて中へ促した。
沖永は女性に手を引かれ、中へ入った。
とたん、沖永の目が鋭くなった。
広々としたフロアの左手には炊事場やテーブルが、右手には暖炉がある。中央の広間には長いカウチソファーが半円形に置かれていて、自由にくつろげる空間となっている。
その真ん中にあぐらをかいて座っていたのは、高津だった。
「沖永さん、お久しぶりです」
高津は笑みを向けた。
「貴様……」
ドア口で立ち止まって睨んでいると、後ろから背中を押された。同時に、女性が手を強く引っ張って突き出す。
沖永はよろよろと広間の中央に進んだ。
沖永を連れてきた若者たちが背後を囲んだ。手を引いた女性を見やる。親しげで柔和だった笑顔は消え、嫌悪に満ちた冷たい眼差しを向けている。人が瞬時に、こんなにも変われるのかと思うほど、別人のようだった。
「まあ、どうぞ」
高津が自分の手前を手で指す。
沖永は高津の前に座った。あぐらをかき、右手で脛を引き寄せる。
「沖永さん。困りますねえ。僕らのクラウドファンディングの投稿欄に、罵詈雑言を書かれては」
「見ていたのか! なぜ、表示されんのだ!」
「私たちの活動を潰そうとする迷惑な輩も多いんで、チェックした上で掲載するかどうかを判断しているんですよ」
「私のは迷惑でもなんでもない! 事実だろうが!」
怒鳴り声が響く。
高津は涼しい顔で見つめ返した。
「あなたから山を買ったのは事実です。あの時、山を守ると言ったのも事実。そこは否定しません。しかし、転売しないとは言っていない。たまたま、僕のところに持ち込まれた話で条件に合ったのがあなたの山だっただけです。これは正式な商行為。非難されるいわれはありませんが」
「私から山を買い取って、わずか二カ月で売りさばいているだろう。最初から、そのつもりだったはずだ!」
「憶測はやめていただけませんか。僕が最初から転売するつもりだったという証拠はないでしょう?」
高津が余裕を覗かせる。
沖永はバッグを開けた。中から、A4サイズの茶封筒を取り出し、高津の足下に投げる。
「これは?」
高津が手に取った。
「私が何も調べられないと思っているのかね。あらゆる手を使って調べた結果だ」
沖永が睨む。
高津は中身を取り出した。沖永の山の売買経緯が記されたレポートが十数枚入っていた。
その中には、転売先のジェネリック医薬品会社と仲介したディベロッパーの証言や資料も入っていた。最初から転売目的であることが書かれていたレポートだ。
高津の顔から余裕が消えた。
「山を売ったことはもう取り返しがつかん。それはあきらめる。しかし、おまえがしたことは許さん。この資料のコピーはいくつも作ってある。私が死んでも、おまえがしたことの罪からは逃れられん。人の気持ちを弄んだ者は、いずれ破滅する。二度と、私にしたようなことを他の人にするな。おまえのことは、死ぬまで監視しているからな」
沖永は静かだが凄みのこもった声で言った。
やおら、立ち上がる。振り返り、若者たちを睥睨する。
「君たちも耳触りのいい言葉に惑わされず、自ら考えて動くことだ。誰かの思想に従うというのは、思考を停止することと同じ。本気で日本の山林のことを考えるなら、もっとやれることはある。一人一人が自分で考えて、そちらに尽力してくれることを望むよ」
沖永はドア口へ向かおうとした。
と、若い男女が一列に並び、沖永の行く手を塞いだ。
「どけ!」
沖永は怒鳴った。
しかし、若者たちは壁のように立ちはだかる。
沖永は目の前の若い男の胸ぐらをつかんだ。
「どけと言っているだろう!」
突き飛ばそうとする。
が、反対に男から胸ぐらをつかみ返された。瞬間、腹部に拳がめり込んだ。
沖永は目を剥いた。男から手を離し、腰を折る。
男が突き飛ばす。沖永はよろよろと後退し、フロアの真ん中にストンと尻餅をついた。
若者たちが沖永を取り囲んだ。
沖永は振り返った。高津はソファーにふんぞり返り、にやにやとしている。
「許さんぞ、高津!」
沖永が怒鳴った。
「懇願するのはあなたの方じゃないですかねえ」
高津が右人差し指を上げた。
囲んだ男女が、倒れた沖永に暴行を始めた。蹴ったり、踏みつけたりと容赦がない。沖永は丸まって動けない。
複数の足が、沖永の肋骨を痛めつけ、脇腹にダメージを与える。腕や足の骨は軋み、擦り抜けた踵が頬骨を砕く。
ガードが緩くなったところから、爪先が飛び込んできた。
鳩尾に爪先がめり込む。沖永は目を見開いて腹を押さえ、血混じりの胃液を吐きだした。
高津が右手を上げた。若者たちの暴行が止まった。
沖永は体を震わせ、ひゅーひゅーと喉を鳴らして息を継いでいた。
「沖永さん。このレポートのコピー、どこにあるんですかね?」
高津が訊く。沖永は答えない。
「このコピーを全部渡してくれれば、あなたをここから無事に返してあげますよ」
「こんなことをして……ただではすまんぞ」
血にまみれた口から声を絞り出す。
「わかりました。僕が悪かった。こうしましょう。あなたの治療費は出させていただきます。それと、コピー一式、五千万で買い取らせていただきましょう。四セットあれば二億。五セットあれば二億五千万。沖永さんだから、破格の条件を提示しました。僕の誠意をわかってもらえませんか?」
「おまえは……おまえは、金さえあればなんでもできると思っているのか!」
沖永は上体を起こして、高津の下に這いずっていった。
若者の一人が脚を上げる。高津は顔を横に振って、止めた。
沖永は高津の前まで来て、腕を伸ばし、高津の太腿を握った。
「沖永さん。僕が日本の山林を、日本国土を守りたいという理念に偽りはありません。ですが、理想理念をまっとうするには、力がいる。沖永さんの山は、日本国土を守るための一助となったのです。そして、僕たちは確実に力をつけ、目的に向かって進んでいます。今、沖永さんに邪魔をされれば、僕らの道は閉ざされてしまう。山の件は謝ります。その上で、もう少し僕らの活動を見守っていただけませんか」
丁寧に話す。その顔は、沖永の下を訪ねてきた時の好青年だった。
ふっと信じてみたくなる。
初めて会った時にも感じたが、話の中で見せる好青年の顔は、見る人をホッとさせ、誠実さを際立たせる。
もしかすると、力をつけるために、沖永の山を転売したという話は本当かもしれない。そう思わせる。
だが、首を振った。
本当に好青年なら、自分の支持者か部下であろう若者が暴行するのをただ見ていることはないだろう。
それに、高津は初め、金で解決を図ろうとした。
沖永がなびかなかったので、泣き落としに来たのだろう。
沖永は高津の胸元をつかんで這い上がり、肩を握った。鼻先がくっつくほど顔を近づける。
「おまえを野放しにはできん。覚悟しとけ」
「そうですか。残念です」
高津は沖永の背後に目を向けた。
いきなり後ろから手が回ってきた。頬を握られ、開いた口にタオルを詰め込まれた。その後すぐ、袋を頭から被せられる。
沖永は呻き、もがいた。が、手足を捩じ上げられ、紐で拘束された。
「半殺しにして、山の奥に捨ててこい。あとは野犬が食ってくれる」
高津は命じて、立ち上がった。
「沖永さん。僕らがしっかりと日本を守りますから、安心して逝ってください」
涼やかな顔で語りかける。
沖永は芋虫のようにぐねぐねと動いた。
「じゃあ、僕は集会の準備をするので、あとは頼んだよ」
若者たちに笑顔を向け、バンガローを出た。
ドアが閉まる。
まもなく、若者たちの暴行が再開された。
沖永は腹の底から呻きを上げ、暴れた。
が、やがて、呻きも細り、動かなくなった。
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