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 警視庁本庁の総務部刑事総務課の課長代理を務めるはらみつるは、鹿倉に呼ばれて、公安部フロアの会議室に赴いていた。
 室内には鹿倉と日埜原の二人だけ。空気は重い。
「まだ、行方はつかめないのか?」
 日埜原が訊いた。
「ああ。やぶしらに捜させてはいるんだがな……」
 鹿倉の声は沈んでいる。
「殺られた可能性は?」
 日埜原は慮ることなく最悪の事態を口にした。
「今のところ、彼が殺されたという話は聞こえてこないが、可能性はゼロではない」
 鹿倉は淡々と答えた。
 鹿倉が捜していたのは、作業班の主任を務める今村いまむら利弘としひろの行方だった。
 三カ月前、ある団体に潜入させたが、一カ月前に音信が途切れ、以来、所在不明となっている。
 潜入捜査では、敵方の状況によって連絡が滞ることもある。
 しかし、長くても一週間程度。それ以上、関係者へ連絡が付けられない状況に陥った場合、いったん現場を離脱するよう指示をしている。
 その指示を徹底しているのは、作業班員の生命保護の観点もあるが、仮に正体が敵方に知られていた場合、敵は作業班員から内部情報を聞き出そうとするかもしれない。
 もし、そうした状況に陥れば、作業班員は死ぬよりむごい体験を余儀なくされることになる。
 表には出ていないが、肉体も精神も破壊され、廃人同然で退職を余儀なくされた作業班員もいる。
 それほど、潜入捜査は危険なものだった。
 今村は主任でありながら、自らも潜入を行なっていた。
 今村は他の作業班員とは違い、危険を察知すれば迷わず離脱する。
 作業班員の中には、そうした今村の行動を臆病だ、無責任だと非難する者もいるが、鹿倉や日埜原は、そうは思っていない。むしろ、状況の変化に俊敏に対処する今村の判断力は評価している。
 そんな今村からの連絡が途絶えている。
 重大なアクシデントがあったと見たほうがいい。
 鹿倉はすぐに、その団体に藪野まなぶと白瀬しゆういちろうを送り込んだ。
 彼らはそれぞれのアプローチで相手の懐に潜って、今村の情報を探っていたが、一向に行方は知れない。
 白瀬からは、あまりに今村の動向を探りすぎて、今度は自分たちが疑われ始めているとの報告も来ていた。
 鹿倉は藪野と白瀬を引き揚げさせることを考えていたが、今村の捜索を中断するわけにもいかない。
 今村に次ぐ作業班員のエースである藪野と白瀬をもってしても見つからないという事態に、鹿倉は頭を痛めていた。
 作業班員はいくらでもいる。だが、過酷な状況下において任務をまっとうできる人材は、そう多くない。
「やはり、あの男に任せるしかないか……」
 鹿倉がつぶやく。
「瀧川ですか?」
 日埜原の問いかけに、鹿倉がうなずく。
「瀧川が受けますかね。藪野や白瀬にトラブルが起こっているならまだしも、今村のことは嫌っていましたし、名前を変えてまで、少年課に異動した男です」
「それはわかっているが、この任務を遂行できる可能性が最も高いのが彼であることも、まぎれもない事実だ」
 鹿倉が日埜原を見やった。
「……そうですね」
 日埜原は腕組みをし、うなった。
 鹿倉の言うことはもっともだった。
「誰に説得させますか? 白瀬は、前回の潜入で、今村の指示に従って瀧川を引き込み、大怪我をさせてしまったことを後悔しています。藪野は、そもそも瀧川をもうこっちへ引き込むなと言っていますし、舟田に話せば、全力で抵抗するでしょう。工作で嵌め込むにしても、瀧川はこちらの手口を知っています。最初に取り込んだ時のようにはいかないでしょう」
「私が出向こう」
「部長がですか?」
「一刻を争う事態だ。体裁を気にしている時間はない。日埜原、総務関係の手続きがあると言って、瀧川を総務部の会議室に呼び出してくれ。私はそこで待つ」
「わかりました。私から声をかけると疑うでしょうから、総務部の他の職員から呼び出しをかけましょう。もし、瀧川が受けなかった時はどうしますか?」
「その時はまた考える。今は、瀧川にかけてみよう」
「わかりました」
 日埜原は席を立った。
 鹿倉は組んだ両手に額を押し付け、深く息を吐いた。



 瀧川は遙香の入学式を終えた翌日、意気揚々と登庁した。
 久しぶりに楽しい時を過ごせた。
 綾子と遙香、小郷夫妻に舟田も加え、みんなで遙香の入学を祝った。
 小郷夫妻も舟田も実の親ではないが、瀧川や綾子にとっては親のよう、遙香にとっては祖父母のような存在。そうした人々で遙香を囲い、食事をしながら談笑する。
 子供時代、不遇だった瀧川と綾子にとって、求めていた幸せの光景がそこにはあった。
 瀧川は、平凡で静かなその幸せを大事にしたいと心底思った。
 そのために全力で仕事をする。
 これまでも、警察の仕事には全力を注いでいたが、これからは守るべき者がいる。自分だけでなく、家族を幸せにするために働かなければならない。
 そう思うと、いつにもまして気力がみなぎった。
 総務部受付の女性警察官に挨拶をすると、呼び止められた。
「有村さん」
 気づかずに行き過ぎようとする。
「有村さん!」
 女性が少し声を張った。
 ハッと気づいて、受付カウンターへ戻る。まだ、有村姓には慣れていない。
「すみません」
 瀧川は苦笑いを浮かべた。
「名前変更に関する総務の手続きが残っているので、第二会議室へ行ってください」
「今からですか?」
「はい。そのように指示が出ています」
「なんでしょうか?」
「さあ。詳細は、担当者から聞いてください」
 そう言うと、廊下の右奥を見やった。
 瀧川から見て、廊下の左奥に総務部の第二会議室がある。
「ありがとうございます」
 瀧川は頭を下げ、廊下を進んだ。
 登録や共済などの名義変更は全て済ませたと思ったが……。
 首を傾げつつ、第二会議室の前に立った。ドアをノックする。
「少年課の有村です」
「どうぞ」
 女性の声がした。
 ドアを開け、中へ入る。私服の女性警察職員が待っていた。部屋の真ん中に長テーブルがぽつんと設えられている。窓を背にしたほうにパイプ椅子が一つ置かれていた。
「こちらへ」
 窓を背にした席へ促される。
 瀧川は何も置かれていないテーブルを見ながら、指された席に座った。
「残りの手続きというのは?」
「今、持ってまいりますので、こちらで少々お待ちください」
 女性職員はオフィスに通じている左手のドアを開け、部屋を出た。
 瀧川は所在なげに部屋を見回していた。
 ドアが開く。女性職員が戻ってきた。そう思って左側を向いたとたん、眉間に皺が寄った。
「久しぶりだな」
 鹿倉だった。
 廊下側のドアも開く。日埜原が姿を見せた。日埜原は後ろ手にドアを閉め、ロックをかけた。鹿倉もドアロックをかける。
 鹿倉がテーブルに歩み寄った。日埜原は瀧川に近づく途中で、立てかけてあったパイプ椅子を取った。瀧川の対面に開いて置く。
 鹿倉が腰を下ろした。
「私だけでいい」
 鹿倉が言う。
「鍵はどうしますか?」
「話を聞かずに出て行くことはしないだろう。なあ、瀧川君」
 鹿倉が見つめる。
 瀧川は返事をせず、鹿倉を睨んだ。
「では」
 日埜原は一礼し、廊下側のドアから出て行った。
 鹿倉と二人になった。鹿倉は瀧川を見つめるだけで、口を開かない。
 瀧川も黙っていたが、視線に堪えられず、先に言葉を出した。
「ずいぶん、手の込んだことをしますね」
「私の呼び出しだと、君はここへ来なかっただろう?」
「当然です」
 瀧川の声が尖る。
「今村からの連絡が途絶えた」
 鹿倉は唐突に切り出した。
「えっ」
 驚き、思わず声を漏らす。
 すぐに、しまった……と思った。
 脈絡なく、突然インパクトのある話題を口にする。これは、相手に話を聞かせるためのテクニックだった。
 どんなに相手を拒否していても、予想外の話題を振られると、どうしても興味が湧いてしまう。
 聞かずに部屋を出ることもできるが、一度脳裏にこびりついた言葉は拭えない。
 ここで聞いておかなければ、憶測が膨らみ、かえって鹿倉の話に取り込まれやすくなってしまう。知っていた手口だが、ここぞというところでピンポイントに使うあたり、さすがとしか言いようがない。
 鹿倉は瀧川をじっと見つめていた。なかなか次の言葉を出さない。
 焦らされるほどに、瀧川の気持ちが先ほどの話に向いていく。
 ただこれも、あまりに長く焦らすと、相手が冷静さを取り戻してしまう。絶妙なタイミングというものがある。
 瀧川はすうっと息を吸い込んだ。
「ある組織に潜入させていたんだが」
 鹿倉が切り出した。
 ここだ。
 相手が深呼吸をしようとした瞬間が最もインパクトを増幅させる。
 深い呼吸をしようとしているのは、動揺を収めようとする行為に他ならない。このタイミングを外すと相手は冷静になる。といって、その前では、次の言葉にインパクトがなければ、これまた相手を落ち着かせてしまう。
 吸いこんだ瞬間というのもポイントだ。
 吐くときより、息を吸う時の方が、息が止まりやすくなる。息が止まると、一瞬血圧が上がり、鼓動が跳ねる。それが動揺を持続させる。
「一カ月、連絡がない」
 鹿倉の言葉を聞き、体が熱くなるのがわかる。
「深く潜っているからじゃないですか?」
 瀧川はつい言葉を漏らしてしまった。
 会話になってしまった。
 こうなると、自分が納得のいく答えが出るまでは、話を途中で切り上げることができなくなる。
 わかっていたが、口からこぼれる言葉を止められなかった。
 見事に術中に嵌まった。公安部長という肩書も伊達ではないことを思い知らされる。
「君も知っての通り、一週間連絡が取れなければ、いったん現場を離れなければならない。今村は今まで、その指示に逆らったことはない」
「状況によるのでは?」
「であっても、一カ月の音信不通は長すぎる。最長で十日だ。白瀬と藪野に捜索させているが、手掛かりはつかめない。それどころか、潜入させた白瀬や藪野が疑われ始めている」
 鹿倉はすらすらと話し始めた。ここまで話が進めば、もう駆け引きは必要ない。
「手を引かせてください!」
 瀧川が睨む。
「そのつもりだ。が、彼らに代わる者がいない。彼らの身の安全も大事だが、今村の消息も大事だ。今のままでは、どちらかを切り捨てるしかない」
「切り捨てる?」
 瀧川は気色ばんだ。
「言い方は酷かもしれんが、現実だ。どちらも取れば、さらなる犠牲者を出すことになるかもしれない。君もそこは理解してくれると思うが」
 鹿倉は真顔で見返してきた。
 鹿倉を睨み返す。だが、鹿倉の言う通りでもある。
 今村、白瀬、藪野のうち、誰かが作業班員の素性を漏らしてしまえば、そこからまた別の作業班員が特定され、危険に晒されることになる。
 三人とも簡単に口を割るとは思わないが、万が一がないとも限らない。
 災禍の予兆は早めに処理しなければならないのが、鹿倉の立場でもあった。
「どちらを切り捨てるつもりですか?」

 

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