「終る?」
「竹宮流は、もう、過去の武術だ。前からそう思っていた。負けてそのふん切りがついたのだ」
「そんなことはありません。竹宮流は、他の空手に比べても、ずっと実戦的です」
「しかし、負けた」
「それは……」
 藤巻が口ごもった。
「何だ。言ってみなさい」
「……それは、先生が負けたのであって、竹宮流が負けたのではありません」
「負けさ」
「まだ、自分がいます」
「どういうことだ?」
「自分に、先生のかたきをとらせて下さい」
「敵を?」
「丹波文七を、自分が倒します」
「何故だ?」
「竹宮流が、好きだからです。このまま、滅びるのは、あまりに残念です」
「滅びはしない」
「───」
「北辰館に、竹宮流の血は、きちんと継がれている」
「竹宮流の全てではありません。彼等がここで学んで行ったのは、その一部です。それも、竹宮流の本質である、投げ技や締め技のほとんどを、彼等は学ぼうとせず、蹴りなどの、あてる技のみを学んで行ったにすぎません。それは、学んでも役に立たないからです。彼らは、自流派のルール内で、一対一で闘うのに必要な技しか学んでいかないのを、先生もなげいておられたではありませんか。自流派のルールのための闘いのためにだけ学んだ技など、それは竹宮流ではありません。先生は、それが竹宮流だと本気で考えているのですか──」
「───」
 宗一郎は答えられなかった。
 宗一郎が、胸に秘めていたことそのままを、藤巻が口にしたからである。
「だが、彼等の中にも、きちんと関節技を学んでいったものがいる」
「誰ですか?」
「まずは、北辰館の総帥、松尾象山。次には姫川ひめかわつとむ──」
「姫川?」
「つい最近、ここで竹宮流を学んでいった者だ。この男、おまえと同じ、天分がある──」
「───」
「丹波文七も、関節技を使った。しかも、その関節技で、竹宮流のこの泉宗一郎が負けたのだ──」
「関節技で?」
「チキン・ウィング・フェイスロックという技だ」
「どのような技なのですか──」
「“ぎようげつ”と“片羽かたはねどり”を合わせたような技だ」
「───」
「竹宮流が、関節技で負けた。ここらがよい潮時ではないか」
 宗一郎が言うと、藤巻はまた黙った。
「わかりました」
 やがて、藤巻が言った。
「そうか」
「自分が、ここで、竹宮流を学んで行った者が、どれほどのものか、試してきます──」
「なに!?」
「自分は、竹宮流以外の武道を学んでおりません。その自分が、いずれかに負けるのであれば、おとなしく、また姿を消します。しかし、勝ち残った場合は──」
「なんだ?」
「冴子さんを妻とし、竹宮流を名告ることをお許し下さい」
「竹宮流と、冴子とは別の話だ」
「自分にとっては同じです」
 きっぱりと、藤巻は言った。
「冴子がうんというのなら、それはかまわん。しかし、竹宮流を我が代で終らせるという気持に変わりはない」
「どうしてですか。竹宮流が、武術としてどれだけ優れたものかを、自分が証明します」
「ここに来た北辰館の人間を倒してか──」
「はい」
「松尾象山、姫川勉もいるぞ」
「相手が誰であろうと、自分の決心はかわりません」
「丹波文七はどうする」
「わたしが倒します」
「どこにいるのか、わからぬ男だぞ」
「自分に考えがあります。北辰館の人間を倒しながら、丹波文七を引きずり出します」
「なに?」
「話では、体形が、自分に似ているということですから──」
「何を考えている?」
「そのうちにわかります」
 藤巻が、深々と頭を下げた。
「待て──」
 宗一郎が言った時、藤巻が背を向けていた。
 ざざ
 と、庭の灌木の繁みをくぐる音がして、すぐに静かになった。
「その時以来、藤巻には、会ってはおらん──」
 宗一郎が言った。
「それで、今回の事件があったというわけですか」
 文七がつぶやいた。
「ああ。どうやら藤巻は、君が闘う時と同じ、黒い上下のトレーナーを身につけて、次々と北辰館の人間を襲ったらしい。まさか、本当にやるとは思ってもいなかった。事件を知って、わたしの方から、松尾さんに藤巻のことを話した──」
「松尾象山は何と?」
「おもしろがっていた。底のつかめない男だよ」
 言って、宗一郎は懐に手を差し込んで、二枚の写真を取り出した。
 それを、文七に差し出した。
「これが、藤巻十三だ」
 文七は、二枚の写真を受け取って眺めた。
 一枚の写真には、頭を坊主にした、学生服のまだ十代の少年が写っていた。
 双眸に、十代とは思えない、昏い光を宿していた。
 その眼が、怒ったように、レンズを睨んでいた。
 身体にはまだ肉が付いてなく、ほっそりとした印象がある。
 もう一枚の写真の藤巻は、その肉体に大きな変貌を見せていた。
 ほっそりした印象は、跡かたもなく、みっしりと重い肉が張っていた。
 道衣に包まれてはいるが、その肉の量が増えたのがはっきりとわかる。
 肩が張り、首の周囲の肉の太さは、バットでおもいきり叩いてもびくともしないように見える。
 髪は長くなり、顔つきも大人のそれに変わっていた。
 ただ、怒ったような顔でレンズを睨んでいるその眼だけが、少年の時と同じものであった。
「一枚は、ここに来たばかりの時に撮ったもので、もう一枚は、ここを出てゆく一ケ月ほど前に撮ったものだ──」
 宗一郎が言った。
 現在の藤巻十三は、その写真よりも、さらに六年、歳をとっていることになる。
「この藤巻には、先日会いました」
「会ったのか、藤巻に?」
「四国の徳島です。ほんの一瞬でした。むこうもこちらも、相手が誰であるか、知らないままでしたが──」
 行く手の路地の闇の中からいきなり姿を現わしたその男のことは、まだ鮮烈に覚えている。
 走ってくるなり、その男は、いきなり横に跳びのいた。
 肉体は跳びのいたが、その肉体が有していた気の圧力は、そのまま文七にぶつかってきた。
 しかも、跳びのく寸前に、男は、文七に向かって蹴りを放ってきている。
 かろうじてその蹴りはかわしたが、その蹴りが残していった風圧が顔を叩いてきた。その風圧の感触はまだ鮮明である。
 あの男が藤巻であったのだ。
 その時のことを、あらためて思い出しながら、文七は写真を見た。
 この男が、自分に、あの火を吹くような蹴りを放ってきたのか──。
「丹波くん──」
 写真に眼をやっていた文七に、宗一郎が声をかけた。
「いずれ、きみの眼の前に、ふたたび藤巻が現われよう」
「はい」
「その時、きみに頼みがある」
「何でしょう」
「藤巻を、手加減ぬきで倒してもらいたいのだ」
「もし、勝負となれば、いずれにしろ手加減はしません」
「そうだったな」
「おれが、藤巻を倒すことを、本気で望んでるのですか」
「ああ」
「何故ですか」
「あの男が可愛いからだよ」
「───」
「竹宮流にしがみついていては、わたしと同じ道を歩くことになる。それをさせたくないからだ」
「本当に竹宮流に未練はないのですか」
「ないと言えば嘘になるよ。しかし、竹宮流が、過去のものになりつつあるのもまた事実だ。わたしの望みは、新しい武道の中に、竹宮流を生かしてもらうことだ」
「しかし、藤巻はそう考えてはいないでしょう──」
「これは、ひとつの賭けさ。もし、もし、きみが藤巻に負けるのであれば、竹宮流にも、生き残るに足るものがあるということになる」
「───」
「その場合には──」
「どうするのです」
「わからん」
 宗一郎が溜め息と共に吐き出した。
 文七を見た。
「正直に言えば、藤巻に勝ってもらいたいという気持もないわけではないのだ」
「あるのですね」
「ある」
 宗一郎の表情は、ふたつの想いを秘めて、複雑に揺れていた。
「しかし、できることなら、きみに勝ってもらいたいと思う」
 はっきりとした声音で言った。
「丹波くん、きみに会えて、本当によかったと、わたしは思っているよ」
「───」
「どうだね、丹波くん。時間の許す限り、ここに足を止めていかないか──」
「足を止める?」
「丹波文七という男の中に、竹宮流の血を少しでも伝えておきたいのだよ。迷惑な話かもしれんがね」
「竹宮流を教えていただけるのですか──」
「きみさえ、いやでなければだ」
「願ってもないことです」
 素直に文七は言った。
 宗一郎の眼が嬉しそうに細められた。
「きみには、すでに充分な関節技の素養がある。竹宮流の関節技を飲み込むのも、早いだろう──」

 

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