もとより、恨みがあってやった闘いではない。
 文七にしてみれば、ただ強い相手、自分が身につけてしまった技を、思うさま駆使して闘う相手が欲しかっただけである。
 梶原への挑戦という長い闘いの途上にあって、そういう復讐の思いから離れて純粋な闘いであったような気がする。
 象山のような武術家もいれば、この宗一郎のような武術家もいる。
“その時だよ。おれが強くなることをあきらめたのはね。そのかわりに、銭のとれるレスラーになろうと思ったんだ”
 松尾まつおしようざんに破れた時のことを思い出して、文七にそう言った男がいた。
 レスラーの、伊達だてうしである。
 まだ前座時代に、松尾象山と闘い、伊達は、前歯のほとんどをへし折られたのだという。
 伊達も、宗一郎も、あまり年齢は変わらないはずであった。
「ところで──」
 と、宗一郎があらたまった。
「はい」
「きみに、伝えておかねばならないことがある」
「何でしょう?」
「松尾さんからも耳にしていようが、最近、北辰館の門弟に野試合を挑んでいる男がいるが、話というのはそのことだ」
「松尾さんは、泉さんから訊けと言って、詳しいことは言いませんでしたが」
「そうか。ならば、わしが説明しよう」
 宗一郎は、そう言って文七を見た。
「わたしの門弟に、藤巻ふじまきじゆうぞうという男がいるのだが──」
「藤巻?」
「門弟と言っても、今はどこにいるのかわからない男だ」
「はい」
「その男は、素晴しい素質を持っていてな。数年間、わたしも、狂ったようにその男に技を教えたことがある──」
「───」
「どのような技も、すぐに、藤巻は呑み込んだ。わたしがやってみせるだけで、その技のポイントを呑み込んでしまう」
「はい」
「特に、関節技には異様なほどののめり込みを見せた男でな。年齢はきみとあまり変わらぬはずだ──」
「───」
「空手だの柔道だのは習う人間は多いが、竹宮流を学ぼうとする人間などはほとんどおらん。素質のある人間は、皆そちらに流れて行ってしまう。そんな中で、藤巻は異色だった。十二年前に、ふいにこの家に現われて、弟子にしてくれと言ってきた。空手の雑誌に、一度、竹宮流が紹介されたことがあってな、その記事を見てやってきたのさ。十八歳だった。高校を卒業して、その足でうちの門を叩いたのだよ──」
「そうですか」
「それまでは、高校で陸上競技をやっていたらしい。それが何故、武術を、しかも竹宮流を学ぼうと考えたのか。どうしてかとわたしはその時に訊いた……」
 宗一郎は話し出した。
 その時、藤巻十三は、学生服を着ていたという。
「実戦的だと思ったからです」
 と、その時藤巻は答えたという。
 ぬうっと背が高くて、ひょろりと痩せた男であった。
 昏い双眸を持った男だった。
「実戦的?」
「はい」
「空手の方が実戦的だとは思わないのか」
「寸止めの空手は、信用できません」
「世の中には、当てる流派もあるぞ」
「でも関節技や、武器を持った敵を相手にする場合の方法には、竹宮流の方が優れているものがあると感じたのですが」
 藤巻は、はっきりとそう言った。
 現在の空手の組手は、基本的には、素手の人間が、一対一で闘うということを前提にして行なわれている。
 それは、試合形式が一対一の素手であるので、必然的にそうなってしまうのだ。むろん空手にも、数人の敵を想定した場合や、武器を持っている人間を相手にした場合の型や練習方法がある。
 しかし、それはあくまでも、一対一での闘いを主に置いた、その下に位置するものである。
 藤巻は、宗一郎に、赤い顔でそう言った。
「でも、竹宮流は違います」
「どう違う」
「竹宮流は、あらゆる闘いを想定していて、そのどれも平等にあつかっていると思います」
「ほう」
 宗一郎は、舌を巻いた。
 高校を卒業したばかりの藤巻が、遠まわしながらも、竹宮流の本質を見抜いた発言をしたからである。
 竹宮流の根は、柳生新陰流にある。
 その柳生流から、素手で、いかに武器を持った相手を倒すかというテーマのみを独立させたのが竹宮流である。
 武士が、己れの武器を戦場で失くした場合、手に武器を持っている敵を、その素手でどう倒すか、それが竹宮流という武術の発想の根本にあるのだ。しかも、相手は、ひとりとは限らない。周囲の全部が敵という場合もある。
 だから、竹宮流の中には、サバイバルの技術もきちんと含まれているのである。
 薬草学から、山菜の知識、料理の仕方、竹宮流はそういうことまでを含んだ武術の体系なのだ。
 それは、現代にも通ずる。
 現代においても、実生活の中で、一対三、一対四というような闘いは常に起こりうるのだ。
 そして、相手が武器を持っているというケースも少なくない。
 空手などでは使わない──つまり試合においてはまるで必要のない技が、かなり含まれている。
 股間の蹴り方から、首の締め方、眼の突き方、あらゆる危険な技を学ぶことになる。
 そういうことを、雑誌の記事から、藤巻は知ったらしい。
 しかし、その雑誌の記事は、わずかに一ページほどのものだ。
 とても、普通の人間でそこまでわかる者はいない。
 記事にしても、簡単な紹介文のみで、あとは宗一郎の写真がそえられている程度であった。
「それに、竹宮流ならば、誰もまだ習おうとは思っていないでしょう。闘う時、他人に、その技のことを知られているよりは、知られてない方がいいに決まっていますから」
 藤巻はそう言った。
 竹宮流を、完全に実戦面からしか捕えてない言い方であった。
 そして、その実戦こそが、竹宮流の本質であった。
「あとは、写真を見て、決心がついたんです──」
「写真?」
「泉先生の写真です」
 藤巻は言った。
 雑誌にのっていた宗一郎の写真のことであった。
「あの写真のどこがよかったんだ」
 宗一郎は訊いた。
 正面から、撮った写真であった。
 何かの型を演じているわけでも、試割りをしているわけでもない。
 和服を着て、前を凝っと見ているだけの写真である。
「うまく言えません」
「───」
「真っ直に見てましたから──」
「真っ直?」
「はい」
「どういうことだ」
「いつでも死ねる。だからおまえをいつでも殺せるんだと、そういう顔でした──」
「それが真っ直ということか──」
「ええ。それに……」
「なんだ」
「先生の顔が淋しそうだったからです」
 思わぬことを藤巻は言った。
 宗一郎は言葉につまった。
「どこから来た?」
 藤巻に訊いた。
「北海道です」
「御両親は、今回のことを知っているのか」
「知りません」
「言わないで、家を出てきたのか──」
「自分に、両親はいません」
「いない?」
「死にました」
 藤巻が答えた。
 それでまた宗一郎は、言葉につまった。
 夕刻であった。
 とにかく今日は泊まってゆけと、宗一郎は藤巻に言った。
 それから、藤巻十三は泉宗一郎の家に居ついたのであった。
「その藤巻が、ここを出て行ったのが、それから七年後──今から六年前のことだ」
 宗一郎が、文七に言った。
「何かあったのですね」
 文七が言うと、宗一郎は、顎を引いて、無言でうなずいた。
「わたしの留守の時だ。この家に強盗が入ってな。その強盗を殺してしまったのだよ」
「藤巻十三が?」
「そうだ」
「───」
「最初は、中学生の娘がひとりだった。夕方だよ。そこへ、強盗が入ってきてな。ナイフで娘を脅して、金を盗った。それだけでよしておけばよかったのだが、強盗は、娘のさえを──」
 宗一郎が言葉につまった。
 文七は黙ったまま、宗一郎の次の言葉を待った。
「──娘の冴子を、ナイフで脅して犯したのだ」
 苦いものを吐き出すように言った。
 一瞬、言葉を切り、また宗一郎が話し出した。
「そこへ、帰ってきたのが藤巻だった。強盗が、娘を犯して、まさに立ち去ろうとしていた時だ。強盗は、藤巻を見て逃げた。藤巻は、後を追って、庭でその強盗を捕えた。強盗を抱えあげ、脳天から庭の石の上に投げ落とした……」
「───」
「それでその強盗が死んだのさ」
「死んだ──」
「投げる時には、石の上へ。落とす時には脳天から。関節を決めたらば、まず、折る。それが竹宮流でな──」
「───」
 頭蓋骨陥没で、首の骨が折れ、ほとんど即死であったという。
「それで、藤巻は出て行ったのだ。自分から、破門にしてくれと、わたしに頼みにきたのだよ」
「したのですか」
「うむ。その時、わたしは、藤巻の秘密を知ったのだよ」
「秘密?」
「本人が話してくれたのさ。藤巻は、この奈良に来る前に、自分の両親を殺されていたんだ──」
「え!?」
「藤巻の家に、強盗が入ってな。藤巻の両親を殺していたんだよ。さんざ、女の方の味を楽しんでからだった」
「藤巻の母親を?」
「そうだ。変質者でな。頭のおかしい男だ。似たような事件を過去にもおこして、精神病院にも、出たり入ったりを繰り返している男だった。だいぶむごたらしい殺され方をしたらしい──」
「───」
「で、その男は結局無罪さ。頭のおかしい男に、日本の法律は罪を問えないことになっているんだ」
「そうだったのですか──」
「その時以来、藤巻とは顔を合わせたことはなかった。つい、先日まではだ」
「会ったのですか──」
「きみが引き合わせてくれたのさ。たんくん──」
「おれが?」
「そうだ。藤巻のやつ、泉宗一郎が、丹波文七という男に負けたということを、どこかで耳にしてきたらしい。ちょうど、退院してきた頃だ。冴子も、まだこの家にいた時だ。その晩、この部屋で、冴子と話をしていると、そこの庭に、ひっそりと藤巻が立っていたのだ──」
 宗一郎は、驚いて、声をかけた。
「藤巻──」
 宗一郎の声が届くと、藤巻は、深々と頭を下げた。
「これまでどうしていたのだ?」
 宗一郎は、思わず問うていた。しかし、藤巻は答えなかった。
 逆に、低い声で宗一郎に問うてきた。
「先生。先生が、丹波という男と闘って敗れたという話は本当でしょうか──」
「本当だ」
 わずかに沈黙があって、また藤巻の声が響いてきた。
「正当な闘いだったのですか」
「そうだ」
 宗一郎が答えると、藤巻は押し黙った。
 家にあがれと宗一郎が声をかけても、藤巻はそこを動こうとはしなかった。
「竹宮流は、どうなりますか?」
 闇の中から低い声で、藤巻十三が訊いてきた。
「我が代で終るか──」
 宗一郎は、そう答えた。