「陽介、かわいそうだな」
バチバチと激しい音を放つ火葬炉を透かすように見つめ、英介はぽつりと言った。
「昔から熱いのが苦手なんだよ。大人になっても風呂をぬるくしないと入れなかったし。子どもみたいだろう」
どう返答していいのかわからないのか、京子は黙っている。
「あいつ、あっちでちゃんと母さんを見つけられるかな」再び英介は唇を動かした。「でもきっと、母さんは喜ぶだろうな。陽介と暮らすことが念願だったから」
英介が十五歳、陽介が五歳のときに彼らの両親は離婚をしていた。以来、英介は母親のもと、陽介は父親と再婚相手のもとで別々に暮らすこととなった。
これは母にとって大きな誤算だった。彼女は夫が次男を手放さないとは考えていなかったのだ。
そんな母を病魔が襲ったのは陽介が高校三年生になったときだった。乳癌だった。手術は成功したものの、すぐに転移が見つかり、それは瞬く間に全身に広がった。それからは入退院を繰り返し、やがて彼女は医師の宣告した通りの四年後に亡くなった。
あと一年早く死なせてあげたかった——英介は何度もそう思った。そうすれば母は陽介の悲劇を知らずに済んだのだから。
なにより彼女は病床で自分を責めていた。
「私が幼い陽介を捨てたから、あの子がこんなことになった」
母さんは陽介を捨ててなんかいないじゃないか。それとこれとは関係がないだろう。英介が何度そう訴えても、「ううん、悪いのは私」と彼女は聞く耳を持たなかった。そうでもしないと正気が保てなかったのだろう。加害者を憎むだけではとても足りなかったのだ。
「英介。陽介のこと、お願いね」
これが母親の最期の言葉だった。
英介は陽介を自宅に引き取った。もとよりそうするつもりだった。
自分は陽介の兄であり、父だ。あのろくでなしの男は自分たちの父親ではない。英介はずっとそう思って生きてきた。
両親の離婚後、陽介とは月に一度の面会が許されていた。その際、彼は決まって、「ぼくもママとにいちゃんと一緒に暮らしたい」そう言って泣いていた。
陽介は継母からひどく疎まれていたのだ。父親は守ってくれるどころか、愛されないのは陽介に原因があると決めつけ、幼い彼を度々折檻した。
これを見兼ねた母は何度も陽介を引き取らせてほしいと元夫に訴えた。だが、元夫は頑なにこれを拒否した。
これについて、英介は自分に原因があるかもしれないと考えていた。長男から毛嫌いされていることを知っていた父親は、意地でも次男のことは手放したくなかったのだろう。すでに自我が確立していた英介とちがい、まだ幼かった陽介は悲しいほど従順で、事実、彼は父親からどんな理不尽な叱り方をされても、「ごめんなさい。ぼくはいけないことをしました」と素直に謝っていた。
そんな陽介も成長するにつれ、母と兄の前で泣き言を口にせず、こちらから家庭のことを訊ねても、「うまくやってるよ」とお決まりの返事をするようになった。母と兄に心配をかけまいとしていたのは明らかだった。そんなとき、英介は己の無力さを深く痛感させられた。
陽介が逞しくなったきっかけは、彼がちょうどその時期に少年野球チームに入ったからだった。淋しさや悲しさ、家庭でのストレスをぶつけるように陽介は野球にのめり込み、いつしかそれが彼の生きがいとなった。英介は弟の野球の試合があると必ず母と連れ立って応援に駆けつけ、スタンドから声を嗄らした。誕生日には毎年プレゼントを用意し、母と三人でささやかなお祝いをした。共に暮らしていなくとも、いや暮らしていないからこそだろうか、にいちゃん、にいちゃんと慕ってくれる歳の離れた弟が英介は可愛くて仕方なかった。
ゆえに陽介が大学に行くための金を用立てることに抵抗はなかった。父親はちょうど母親が病気になった直後に破産し、蒸発していた。後妻とはとっくに離婚をしていた。
そうした事情もあって就職するつもりでいた陽介を引き留め、大学に行くように説得したのはほかならぬ英介だった。「お金はどうとでもなるから心配するな。にいちゃん、高給取りなんだぞ」これはまったくの嘘ではなかった。大学卒業後、大手企業に就職した英介はそれなりの高給を得ていた。だが、自分自身の奨学金の返済と、陽介に掛かる費用諸々を負担するのはさすがにしんどかった。陽介は進学した大学でも野球部に入り、寮生活を送っていたが、その寮費がべらぼうに高かったのだ。
入学して半年ほど経ったころだろうか、「野球を辞めてアルバイトする」そう申し出た弟を英介は初めて叱った。
「おまえは野球をやりたいのか。やりたくないのか。どっちだ」
「そりゃあ、やりたいけど……」
「じゃあやれよ」
「けど、おれの実力じゃとてもプロにはなれないよ」
英介にはそんなことはどうでもよかった。弟には大好きな野球を続けていてほしかった。
そんな英介の思いに応えるように陽介は日々厳しい練習に励み、やがて一軍に帯同できるまでになった。
その直後、あの残虐な悲劇に見舞われた。
「京子、終わりにしないか」
閑散としたタクシー乗車場で車を待っていると、となりに立つ英介がふいにそんなことを言った。
京子は俯かせていた顔を上げ、横に目をやった。
ブラックコートを羽織り、弟の遺骨の入った桐箱を両手に抱えた英介の顔は夕陽で赤く染められていた。だが、そこからはまるで温度が感じられなかった。彼はお骨上げからここまで固く口を閉ざしていた。
「終わりって、どういうこと」
おそるおそる京子は訊ねた。
「だから——ここでおれたちの関係を終わりにしよう」
英介が淡々と別れを口にしたところで、はかったようにタクシーが自分たちの前にやってきた。後部座席のドアが開けられる。
スッと乗り込んだ英介は奥までいくことなく手前に座り、目的地を運転手に告げた。振り返った運転手は英介と京子に交互に目をやり、一瞬怪訝そうな表情を見せたが、目的地が異なると思ったのだろう、やがてドアを閉めた。
膝の上で桐箱を抱えた英介は一度も京子を見ようとはせず、ひたすら前方を見据えていた。
そんな英介を乗せたタクシーがゆっくりと発進する。
少しずつ、少しずつ、車が離れていく。英介が、遠のいていく。
京子は意識的に深呼吸をしてみた。吐き出した白い息は空気に溶けてすぐに消えていった。
ふつうのカップルなら、ふつうの女なら、こんな唐突な別れを絶対に受け入れはしないだろう。
どうして。きちんと理由を説明して。きっとこんなふうに言うのだろうし、考え直して、と彼の袖口を掴んで涙で訴えるのだろう。
ただ、京子にはそれができない。自分は甘んじて受け入れるしかないのだ。
それに、たとえ引き止めたとしても意味がないだろう。
英介はもう決断をしていた。彼の瞳は残酷なまでに別れを物語っていた。
そしてきっと、私はどこかでこの別れを悟っていた。
そう、英介と出逢ったあの日から、ずっと。
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