もう、ここへ来ることもないだろうな——。
 薄暗い店内のカウンターの隅でロックグラスを傾けていたなか聡之さとしはふとそんなことを思った——が、それ以上の感慨は湧かなかった。
 渋谷区の猿楽さるがくちようにあるこのバーを特別気に入っていたわけではない。会社から近く、なおかつ同僚の出入りがないので時折利用させてもらっていただけだ。
 今日は六年勤めた会社の最後の出社日だった。勤めていたのは企業向けのマーケティングサービスを展開する会社で、聡之はスポーツライフマーケット部に身を置いていた。長く続いた低迷期を抜け、去年から部の業績は右肩上がりで聡之も充実した日々を過ごしていた。
 そんなある日、同僚の不正に気づいてしまった。同僚は外注先の担当者からリベートをもらっていたのだ。迷ったが、聡之は上司たちに報告することにした。すると、彼らはそれをみ消した。はっきりとした証拠を掴んだわけではないが、彼らも同僚と同様、いやそれ以上のことをしていたのだろう。
 詮索するな——。圧を受けたものの、聡之は屈しなかった。そしてそこから社内における聡之の序列は露骨に下がっていった。
「あなたはちょっと潔癖過ぎるんじゃないかな」
 退職すると告げた聡之に対し、結婚して十五年になる妻は苦りきった顔でそう言った。彼女は無理に引き止めこそしなかったものの不安だったのだろう。不惑を過ぎたあなたを同じ待遇で受け入れてくれる会社がほかにあるの、そう言いたかったのだろうし、聡之自身もそれが容易でないことはわかっていた。
 聡之はこれまでも度々たびたび転職を繰り返してきた。新卒で入社した新聞社をはじめ、広告代理店、企業コンサルティング、玩具メーカー、今の会社の前は外資系の損保会社に身を置いていた。
 きっかけは異なれど退社に至る理由はすべて同じだった。不条理なことはさいなことでも受け入れられない。要するに筋を違えたことが絶対的に許せないのだ。
 そんな融通の利かない自分であるから、起業を考えたこともあるし、個人事業主に転身しようとしたこともある。だがトップに立つ才覚も、己の身ひとつで生き抜いていく技能も持ち合わせていない。そんな自分が情けなかった。
「バットをこう、フルスイングするんですよ」
 ふいにそんな声が聞こえ、聡之はカウンターの横に目をやった。三つ空けた席に自分と同世代風の男が二人並んでいた。
 彼らはたしか一時間ほど前にやってきたはずだが、いい具合に酔いが回ってきたのか、手前にいるスキンヘッドの男の声が次第に大きくなっていた。この男はジャージ姿には不似合いの高級そうな腕時計をしていた。ゴツい指には派手な指輪がいくつもはまっている。
「そうすりゃ大半のヤツはビビって逃げるんですよ。なんせおれらはフリじゃなくて本気で殴り殺そうと思ってやってるわけだから」
「はあ」と、奥にいるジャケットを羽織った男は大袈裟に嘆息を漏らし、メモ帳にペンを走らせている。「実際に相手に当てたこともあるんですか」
 そう訊かれると、何を今さら、といった感じでスキンヘッドが肩を揺すった。
「でもね、意外と人ってバットで殴られても平然と逃げていくもんなんですよ。まああっちも死に物狂いだから痛みが麻痺しちゃってるんでしょうね。だってほら、おれらに捕まったらそれこそ地獄だから」
 穏やかな話じゃないことは察したが、これはなにかの取材なのだろうか。よく見たら二人の間にはボイスレコーダーが置かれている。  
「襲撃に使う道具はバットと包丁が基本。あ、バットは子供用のやつね。その方が小回りが利くから便利なんですよ。ちなみに喧嘩でゴルフのアイアンとかを使うような奴らはおれらからすれば素人ですね。簡単に折れちゃうし、相当イイとこに当たんないと致命傷にならないから」
「いま包丁とおっしゃいましたけど、それで本当に刺すんですか」
「ええ。もちろん」
「でも下手すると、相手の人、死んじゃいません?」
 スキンヘッドが噴き出した。「あまさん。おれの経歴、事前に調べてきてるんでしょ」
「あ、そうでしたね。失礼しました」
 天野と呼ばれた男が苦笑し、ちょこんと頭を垂れた。
「ネリカンって言ってね、練馬区に鑑別所があるんですけど、都内で悪さをした少年は大抵家裁からそこに送られるんですよ。おれも傷害だなんだで何度も世話になってるんですけど、さすがにあのときは逆送されて、トクショウってとこに送られてね。まあ、トクショウではそれなりにつらい日々を過ごしましたよ」
 彼らの前にいる若いバーテンダーが顔を引きらせながら酒を作っている。そのバーテンダーに向かって聡之は「お会計」と声を掛けた。こんな気分の悪い話、とても聞いていられない。
「そのトクショウ——特別少年院での生活はやっぱり厳しいものだったんですか」
「まあきつかったですね。当たり前ですけどなんでも規則があって、破ると懲罰房行きですから。もっとも自分は懲罰房に入ったことはないんですけどね。おとなしくしてたんで」
「ほかの院生たちと喧嘩になったりなどトラブルはなかったんですか」
「自分はなかったですね。もちろん周りは毎日のようにやり合ってましたよ。どいつもこいつもワルだから、ちょっとしたことで揉めるんです。あいつの方がおかずの盛り方が多いとか、そんなことで殴り合いになったり」
 バーテンダーが明細の紙をスッとテーブルに滑らせてきた。聡之が鞄から財布を取り出す。
「どうして坂崎さかざきさんはそうしたトラブルを避けてこられたのでしょう」
「やっぱり早く出たいってのが一番にありましたよね。それと、周りの奴らも自分には気を遣ってくれてるっていうか、一目置いてくれてるようなとこがあったんでね」
「それはなぜ?」
「だってほら——自分が『きよう聯合れんごう』だから」
 その単語を鼓膜が捉えた瞬間、聡之の手が止まった。直後、遠い記憶のドアがバンッと音を立てて開かれた。
 あれは二十二年前——高校三年生の春。
 当時、聡之の友人が帰宅途中に暴走族に襲われるという事件があった。
 聡之と友人は共に柔道部に所属しており、全国大会出場を目標に掲げ、日々稽古に励んでいた。そんな部活の帰途、友人は自分と同世代の男二人が対峙している現場に偶然出くわした。よく見れば、それは不良少年が学生を脅して金を巻き上げているのだとわかった。
「おい。何してんだ」友人は声を掛けた。彼は聡之以上に正義感の強い男だった。が、結果としてそれが災いを招いた。不良少年と掴み合いになり、反射的に相手を投げ飛ばしてしまったのだ。
 ただ、このときはそれで事は済んだ。「ああいうヤツらってイキがってるだけで、てんで弱っちいんだよ」と友人も得意げに語っていた。
 悲劇はその数日後に起きた。その日も友人が部活を終え帰路に就くと、いきなり背後から頭に強い衝撃を受けた。そして数人がかりで車のトランクに押し込められた。
 友人が連れて行かれたのは人気のない廃墟で、そこで男たち——その中の一人が友人が投げ飛ばした不良だった——から殴る蹴るの暴行を受けたのだ。さらには全裸にひん剥かれ、あろうことかその場で自慰行為まで強要された。奴らはそれをビデオカメラに収め、「チクったらばら撒くからよ」と友人を脅した。
 そして友人は壊れた。身体よりも心が負った傷の方が大きかったのだろう。部活を辞め、のちに学校も辞めていった。彼は親友の聡之にもいっさい会おうとしなかった。
 この鬼畜の所業を行った集団が『凶徒聯合』だったのだ。
「つづきまして、のちに起きる渋谷クラブ襲撃事件についてなんですが——」
 ここでテーブルに置かれていた坂崎の携帯電話が鳴った。手に取り、画面をにらんだ坂崎は「古賀こがのおっさんかよ」と舌打ちを放ち、「ちょっと失礼」と天野に手刀を切って席を離れていった。
 残された天野と聡之の目が重なり合う。聡之が睨みつけているからだろう、なんだこいつといぶかるような視線を天野は送っている。
 その天野が微笑んで会釈をしてきたところで、
「あんた、記者か」
 無意識に聡之の口から言葉がこぼれた。
「いいえ、雑誌の編集者です」習性なのか、言うなり天野は立ち上がり、ジャケットの内側から名刺を取り出して聡之に差し出してきた。「双伸社そうしんしやという出版社で『月刊スラング』という雑誌を——」
 聡之は反射的にその手を払った。名刺がひらりと床に舞い落ちる。
「あんた、恥ずかしくないのか」
「はい?」
「あんなろくでもない男を持ち上げて、恥ずかしくないのか。どうせくだらない記事を書くつもりなんだろう」
 聡之が語気荒く言い放つと、天野は不敵に微笑んでから、ゆったりとかがみ込んで名刺を拾い上げた。
「何がおかしい」
「記事というか、書籍にするんですよ。きちんとした単行本でね。おそらく『凶徒聯合の崩壊』というタイトルになると思いますが、発売されたあかつきには、おにいさんもどうぞ手に取ってみてください」
 自然とその胸ぐらに手が伸びた。ひょろっとした天野の身体が持ち上がる。 
 あわてたバーテンダーが、「あのお客様、店内で揉め事は困ります」と両手を突き出して言った。
 聡之はそれを無視し、数センチの距離で天野を睨みつけた。だが天野はその嫌らしい薄ら笑いを崩そうとしなかった。
「世間はね、彼らについて知りたいんですよ。近年やや落ち着いてきた感はあるものの凶徒聯合はいまだに半グレの中でもっともメジャーな存在です。ヤクザすら恐れた凶悪集団の実態を、私はこの手でまとめてみたいんですよ」
「……」
「さて、私のやってることはいけないことですか。犯罪ですか。何か法に触れていますか」
 挑発するように天野が言い、聡之はグッと拳を握りしめた。
 そこに電話を終えた坂崎が戻ってきた。不穏な状況を見て、「あれ?」と小首を傾げる。
「おたくどちらさん? おれのツレに何か用?」 
 坂崎がにこやかに、だが威圧するように言った。
「べつに」
「じゃあその手を離そうよ。何があったのか知らないけどさ」
 だが聡之は従わず、逆に坂崎を睨みつけた。
「まいったな。カタギに喧嘩売られちゃってるよ」坂崎が肩をすくめて嘆く。「おたく、本気でおれと揉めるつもり? こっちは構わないけど、覚悟だけはしてね」
 鋭い視線をぶつけ合う。だが坂崎は口元に余裕の笑みをたたえている。
 聡之は大きく息を吐いて、天野から手を離した。天野が汚れを払うようにパンパンとジャケットを叩く。
「すみません。お騒がせして」聡之はバーテンダーに向けて詫び、財布の中から一万円札を抜き取り、テーブルに置いた。「お釣りは結構です」
 そして出口に向けて足を繰り出すと、「なにがあったの?」と背中の方から坂崎の声が聞こえた。
「いえ、なにも。ちょっとおかしい人なんでしょう」と天野がささやき声で返す。「それより坂崎さん、よくこらえましたね。私はそっちのほうが怖くて」
 聡之はドアノブに手を掛けた。
「いやあ自分だってもう若くありませんから。見境なく喧嘩なんてしませんよ。昔のことだってきっちり反省してるし——」

 翌日、昼下がりに聡之は目覚めた。髪はボサボサで、仕事着のままだった。昨夜は自宅に帰ってからも酩酊するまで酒をあおっていた。記憶は曖昧だが、ひどく不味まずい酒だったことだけは覚えている。
 重い身体を引きずって居間へ向かうと、そこに妻と二人の子どもの姿はなかった。どこかに買い物にでも出掛けているのだろうか。
 ため息をついて浴室に向かった。熱いシャワーを浴び、酔い覚ましに水風呂に浸かった。昨日妻たちが入った残り湯がちょうど冷えていてそれを利用したのだ。
 冷水の中に頭ごと沈み込み、昨夜のバーでの出来事を思い返した。
 すぐに苦い気持ちが込み上げた。あれではまるで自分の方がヤカラのようではないか。
 だが、酒の勢いに任せた乱行ではなかった。どうしても我慢ならなかったのだ。
 坂崎の顔が脳裏に映し出される。あの男が実際に友人を暴行した犯人の一人だったのかはわからない。だがおそらく同じような、あの鬼畜同然の蛮行を数多く行ってきたのだろう。二人の話を聞く限り、坂崎は人をも死なせた経歴があるようだった。そんな下衆げすがああやって平然と街で酒を飲み、ろくでもない過去を雄弁に語る。反吐へどが出る。
 友人は酒を飲めているだろうか。あいつは今、心から笑うことができているだろうか。それを思うと、坂崎が呼吸していることすら許せない。
 そしてあの天野という男。あの男もまた度し難い。坂崎のような外道をおだて上げ、カネを儲けようとしているのだ。あんな奴らの実態などどうだっていいではないか。そんなものを活字にして、いったいなんの価値があるというのか。
 だいいち、今さらだ。すでに凶徒聯合の悪名は広く世に知れ渡っている。奴らが度々世間を騒がしてきたからだ。有名人を暴行したことや、息子の不祥事をネタに政治家を強請ゆすっていたことなど、数え上げればキリがない。
 なにより、かつて奴らの仲間だった人物がその内情を赤裸々に暴露した書籍を数年前に発表していた。本はベストセラーになり、そしてその男は消えた。いや、仲間に消されたという噂だった。
 聡之はそのすべてに憤りを覚えていた。凶徒聯合はもちろん、くだらない情報に手を伸ばす下世話な連中もすべて許せなかった。心底、胸糞が悪かった。
 冷水の中だというのに身体が火照ほてってきた。風呂から上がり、タオルを首から下げて居間に戻った。
 それからほどなくして、聡之がコーヒーをれているところにインターフォンが鳴った。宅配便でもきたのかと思いきや、エントランスにつながるモニターには背広を着た二人の男の姿が映し出されていた。
 誰だろう。聡之は眉をひそめ訝った。
 応答すると、一人の男が黒いパスケースのようなものをカメラに向けた。中央に金色の桜の代紋が描かれている。
〈わたくしども警視庁の者なんですが、中尾聡之さんはご在宅でしょうか〉
「ええと……自分ですけど」
〈突然お訪ねして申し訳ありません。少々お話を伺わせていただけないでしょうか〉
「あの、どういったご用件でしょうか」
〈すみません、ここではちょっと。恐縮ですがご自宅か、または近場の喫茶店などでお時間をちょうだいできると助かります〉
 判断に迷ったが聡之はエントランスのロックを解除することにした。〈ご協力感謝します〉と刑事が液晶の向こうで笑みを浮かべる。
 聡之はスリッパを二つ用意し、玄関前で刑事らを待ち構えた。そしてほどなくしてやってきた彼らを家の中に通した。
「お休みのところ突然押し掛けてしまい申し訳ありません」
 食卓を挟み、向き合ったところで改めて刑事の一人が頭を垂れて言った。五十代半ばくらいだろうか、穏やかに微笑んでいるが、目つきが鋭い。その片割れはまだ三十そこそこの若者といった感じだが、ラグビーでもやっていたのか、肩と胸がやたら盛り上がっている。 
 前者は古賀、後者は窪塚くぼづかと名乗った。
「それで、あの、ご用件は?」
 聡之から切り出すと、古賀が一枚の写真を取り出し、卓上を滑らせてきた。
「中尾さんはこの男をご存知でしょうか」
 一目見て聡之は息を呑んだ。そこに写っていたのは坂崎だった。
「知っているというか……昨夜ちょっと。それで、この男がどうしたんですか」
 訊くと、古賀は軽く息を吸い込み、聡之を正視した。
「今朝、死体となって発見されたのです」