もの哀しいBGMが館内に小さく流れている。白光りした壁と黒光りしたフローリング、四隅には黄の水仙すいせんと紫のデンファレの供花が立て置かれ、白黒の空間にせめてもの色を添えていた。
 喪主である英介えいすけが木製の平棺に歩み寄り、手のひらサイズの小さなサボテンを死装束をまとった陽介ようすけの顔のとなりに持っていった。「トゲが痛いかな」独り言のように言い、微妙に距離を空けて置いた。
 このサボテンは陽介が生前、大事に育てていたものだ。「もっといいのを買ってやるって言ったんだけど、あいつはこのちっこいのがよかったみたいでさ」以前英介がそう話していたのを深町ふかまちきようは覚えている。
 納棺の際、英介はこれを入れ忘れていたらしく、先ほど慌ててタクシーで自宅に帰り、持ってきたのだ。
「故人様にお別れはお済みでしょうか」
 係員が静かに言い、英介がうなずいた。棺が閉じられ、火葬炉の奥に陽介がゆっくり吸い込まれていく。そして頑強そうな扉が音を立てて閉扉された。
「ではあちらの待合室のほうへ」と誘導しようとした係員に対し、「この場にいたらまずいでしょうか」と英介が申し出た。
 係員が眉をひそめる。
「お骨上げまで一時間ほど要しますが」
「私はかまいません」
「しかしながら、燃焼の音も聞こえてしまいますので」
「それもかまいません。お願いします」
 係員は困惑していたが、最後は「それでしたら」と了承してくれた。参列者が英介と京子の二人しかいないため、よしと判断してくれたのかもしれない。
「きみは待合室にいてもらってかまわないよ」
 英介にそう言われたが、京子は「私もいさせて」と断った。
 いや、私はこの場にいなくてはならない。 
 やがて点火のスイッチが入れられると、ゴゴゴゴゴという炎の音がこだました。ほどなくしてバチバチバチと棺が焼ける音が立ち上がった。
 激しい燃焼音の中、火葬炉を透かし見るように英介は目を細めていた。そんな英介の横顔を京子はそっとうかがっていた。
 胸が痛く、ひどく息苦しかった。
 まるで自分の肉体が業火に焼かれているかのように——。

「京子さん。ごめん」
 デッキからの景色を楽しんでいると、ふいに陽介から言われた。この日は三人で箱根の芦ノ湖へドライブへ出掛け、ロワイヤル2という派手な海賊船に乗船していた。
 英介は少し離れたところで、手摺てすりに両腕を預けて遠景を眺めている。その向こうでは水鳥の群れが泳ぐように青空を舞っていた。
「デートに毎回彼氏の弟がいるだなんておかしいだろ。だからついて来ちゃってごめん」
「何言ってるの」京子は笑った。「それに陽介くんは、英介さんに無理やり連れ出されてるんでしょ。だからそんなの気にしないでいいんだよ」
「けど、にいちゃんが結婚しないのはおれがいるからだよ」
「……」 
 陽介のやや伸びた前髪が風になびいた。それが気になったのか、彼は震えた左手を顔の前に持っていき、精一杯前髪を払っていた。
「おれさ、なんのために生きてるんだろうなって思うんだ。誰の役にも立ってないし、それどころかこうして迷惑ばかりかけてさ」
 何か言葉を発しないといけないのに、唇が動いてくれなかった。
「この先、何十年もこうやってにいちゃんの人生の邪魔をして生きていくのかなって、そう思ったらさ……耐えられなくなる」
 ふいに船の揺れを感じた。いや、もしかしたら揺れているのは自分の方かもしれなかった。
「もう。せっかくいいお天気なのに、そんなこと言わないの」
 京子は教師のようにたしなめ、陽介の車椅子を押して英介のもとへ向かった。

 陽介の首から下が不随になったのは九年前、彼が二十歳のときだった。原因は事故や病気ではない。この世にこんなことがあっていいのかと、神を恨まざるをえないほど、理不尽極まりない理由で彼は身体の自由を失った。
 その日の夜、陽介は久しぶりに会う高校時代の友人たちと共に渋谷のクラブにいた。心臓に響くほどのBGMと目まぐるしく飛び交うまばゆいビーム。彼がそうした場所に来るのは初めてで、正直居心地が悪かった。ダンスなど踊ったこともなければ酒だって一滴も飲めない。それに彼はそのとき怪我をしており、アームリーダーというサポーターで左腕を首から吊っていた。先週、大学の野球部の練習で打球が直撃してしまい、肘の骨にヒビが入っていたのだ。
「怪我してるならはじめから言ってくれよ。わかってたらこんなとこに誘わなかったのに。つまんなかったらおまえは帰ってもいいぜ」
 友人たちはそう言ってくれたが、それもまた彼らに気を遣わせてしまうかもしれないと思い、陽介はその場に残ることにした。「あのとき素直に帰っておけばな」彼はのちにこれが口癖となった。
 陽介はフロアの片隅でウーロン茶を飲みながら、音楽に合わせて身体を揺らす人々を観察するように眺めていた。いったいこれの何が楽しいんだろうな、とそんなことを思っていた。
 ほどなくして陽介は自分に注がれている視線に気がついた。少し離れた場所から一人の男がチラチラとこちらを盗み見ているのだ。その男は陽介以上に場にそぐわなかった。寝巻きのようなスエットの上下にサンダルを履いていたのだ。
 どことなくガラが悪いのでイチャモンをつけられても嫌だなと思い、陽介はキャップを目深に被り、その男の視線に気がつかないフリをした。
 やがて男はダンスフロアから離れ、出入り口の外へと消えた。
 そのおよそ五分後、十人ほどだろうか、覆面を被った男たちが入店してくるのを視界に捉えた。人波を掻き分けるようにして男たちは一直線に陽介のもとへ向かって来ている。
 なんだなんだと、陽介は慌てふためいた。さらにギョッとしたのは男たちが目の前までやって来たときだった。なぜなら彼らの全員が金属バットを手にしていたからだ。
 一人の男が一歩前に出て口を開いた。
「——か」
 大音量で鳴り響く音楽のせいで、よく聞き取れなかった。
 そして耳を差し出した陽介の顔面を男はいきなり拳で殴りつけた。そして倒れ込んだ陽介に降り注いだのはバットの雨だった。もう滅多打ちだった。
 陽介が意識を取り戻したのはそれから三日後で、彼は病院のベッドの上にいた。まるでミイラのように全身に包帯が巻かれ、指先一つ動かすことができなかった。そしてその指先は、怪我がえたあとも動くことはなかった。
 なぜ自分が突然暴漢に襲われたのか、説明してくれたのは兄の英介だった。
 ヒトチガイ——。
 不思議なことに、そのときの陽介には怒りも悲しみも、絶望すらも、どんな感情も一切湧かなかった。ただ気が遠くなっただけだった。現実感があまりに希薄だったのだ。
 陽介は、彼ら——凶徒聯合——が敵対するグループの一員と見間違われたのだという。その男は陽介と同じく坊主頭で、背格好が似ており、さらにはそのとき左腕を怪我しているという噂が流れていたらしい。「似たような特徴の人が来ています」と顔見知りの従業員が凶徒聯合の一人に連絡を入れ、彼らはいきり立ってあのクラブへ駆けつけた。だが、彼らはターゲットの顔を誰一人として正確に認識していなかった。かろうじて面識のある人間が暴行前に陽介の顔を盗み見ていたサンダル履きの男で、そのとき彼は「薄暗くてよくわかんねえ」と仲間たちに報告していたようだ。「まあ行くだけ行ってみようよ」と彼らのリーダーは言い、仲間を引き連れて陽介のもとへやって来た。
 そう、ただの確認のはずだった。だが何を思ったか、彼らのリーダーはいきなり陽介を殴りつけた。それがきっかけとなり仲間たちは陽介をターゲットだと認識した——。
 あまりに残酷で、滑稽な話だった。そしてこんな馬鹿げたことが我が身に降りかかるなどと、いったい誰が想像できるだろう。
 だが、これらすべてがまぎれもない現実だった。
「生きているだけで奇跡のようなもんだよ」
 慰めの言葉を口にした医者に対し、陽介は初めて激しい怒りを覚えた。どこが奇跡なのか。逆に生き長らえてしまった不幸にこそ同情してほしかった。
 なぜそのまま死ねなかったんだろう。陽介はずっとそう思って生きてきた。
 やがて陽介は九年にわたる懸命なリハビリを経て、奇跡的に左手をわずか程度動かせるようになった。
 そして彼はその左手を使って、自らののどをナイフで切り裂いた。
 陽介が懸命にリハビリしていたのは、死ぬため——だったのだろうか。