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『悔しいのう』

 誰かの声が聞こえた。
 りつが意識を取り戻したとき、最初に目にしたのは黒だった。
 闇をまとう空を、白い雪が舞っている。ひどく寒くて身体が動かないのは、水に浮いているからだろう。
 気がつくと、六花は白無垢を羽織った姿のまま、池の真ん中に浮かんでいた。遠くからは死体に見えるかもしれない。
 そうか。わたしはいけにえにされたんだ。
 ぼんやり自覚するものの、どうにかしようという気は起こらなかった。
『憐れよのう』
 また声がした。
「……鵺」
 六花には術を練る力はないけれど、妖の気配や神気の流れはわかる。
『恐ろしくはないのかえ?』
 六花の目の前で、影のようなものが揺らめいた。
 不気味な猿の顔、虎の手足、蛇の尻尾……様々な動物が複合した奇妙な姿の妖。なんとも形容しがたい歪なおぞましさがあり、背筋が凍りそうだ。
 ぬえである。
「もう……どうでもいい」
 六花はつぶやいて目を閉じた。こうしている間にも、手足に当たる水草が触手に変じて、水底へと引きずり込まれてしまうのではないかと錯覚させられる。
『そうか。では、未練はないな』
 未練。
 未練なんて……思いつかなかった。
 ふり返ってみても、なにもないなんて笑える。やはり、六花の人生は無意味だったのだ。あるとすれば……雪華が立派な当主になった姿を見届けられなかったこと。
「早く食べて……」
 六花は無気力につぶやいた。
 鵺はなにも答えない。代わりに、妖力が強まっていった。
 強烈な妖気が六花を包んでいく。濃密な負の気配に、頭が割れそうだ。六花はせり上がってくる酸味を抑えようと、口に手を当てた。
「き──」
 六花を鵺の妖気が拘束する。身体中が痛くて、熱くて、声にならない叫びをあげてしまう。六花の身体は、妖気によって宙へと浮きあがる。
 喰われるんだ。これから。理解して、六花は身体の力を抜いた。
『なに……!?』
 しかし、急に妖気の性質が変わった。
 鵺の声は、狼狽しているのだろうか?
『これは……?』
 なにを慌てているのだろう。突然、鵺は六花から逃げるように身を引く。
『なんという……龍かえ!?』
 妖気が嵐のごとくうねっている。その波動は、池の外側に張ってある結界をも揺るがすほどであった。
「う……!」
 荒ぶる妖気に、身体が引き裂かれそうだ。とくに、右手の甲が熱い。ほのおに焼かれるような激痛だった。
 なにが起こっているのか、六花には理解できない。ただ熱くて仕方がない手を冷やそうと、もがいていた。手の甲を水面に叩きつけて、必死で抵抗する。
 さきほどまで、死を受け入れていたのに……。
「いや! 熱いッ!」
 叫んだ瞬間に、鵺の妖気が消える。六花の身体を拘束する力も失せ、水面に打ちつけられるように落下した。
「ぐ、ぶ……はぁっ」
 六花は必死に泳いで、池の岸へと向かう。底に足がつくと、這うように岸を進んだ。
 ただ、右手の甲に感じた熱だけはとれない。見おろすと、火傷のような痣が浮かびあがっていた。
『驚いたのう』
 鵺の声が頭に響いた。直接、脳内に語りかける感覚に、六花は吐き気がする。
うぬ、龍の加護がついておるではないか』
 加護? 覚えのないことを聞かれ、六花は戸惑う。
『危うく、そのまま喰らうところであったわ。これは迂闊に手を出せぬ……加護を解かねばのう』
 混乱する六花に、鵺の言っている意味はわからない。
『まあよい。汝には我の呪いを刻んだ──三日で、汝は我のものじゃ』
 六花は自らの右手を見る。蛇のような、猿のような、鳥のような……まがまがしい火傷に似た刻印。鵺の姿をかたどったものであった。
 鵺の言うとおり、呪われたのだ。邪悪な妖気の気配がする……そして、自分の死が近いことも感じてしまった。
 六花は脱力した。なにも考えたくない。現実からいったん、目を背ける。
「どう……しよう……」
 なぜ、そんな言葉が口からこぼれたのだろう。
 一族のためを思えば、このままなにもせず死ぬべきだ。放っておけば、六花は呪いによって、鵺に身を喰われる。だから、考える必要なんてなかった。
 それなのに……。
「怖い」
 六花は自らの肩を抱いてつぶやいた。
 そして、覚束ない足どりで立ちあがる。
 あてなどないのに。

 これが、六花の身に起きた不幸だった。

 六花は今日一日を思い出しながら、現状を把握しようとする。
 雪の舞う山道を歩いていたら、誰かの声に導かれて、不思議な門を潜った。小さな化け狐に案内されて、どこかの庭に迷い込んでしまう。
 視線をさげると、池を水燈籠が滑っている。細い石の橋を進んだ先には、三階建ての日本家屋があった。軒に吊るされた、たくさんの提灯が暖かい光を放っており、現世の景色とは思えない。
 そして──。
「迎えにきたよ──僕の花嫁」
 美しい容姿の青年が、六花に微笑んでいた。
 おかしい……六花は周囲を見回す。
 しかし、周りには六花以外の人間はいない。強いて言うなら、足元で尻尾をふっている子狐さんだろうか。たしか、コマと名乗っていた。さっきまで、女の子の姿に化けていたはずなのに、いつの間にか、また子狐に戻っている。あまり変化が得意ではなさそうだ。
「花嫁って……?」
 六花は戸惑いながら、コマに問う。すると、コマはキョトンと首を傾げた。
「ウチには、その……婚約者がおりますから。お客様のことじゃないでしょうか?」
 コマは小さな手を両頬に当て、照れながらお尻を左右にふる。尻尾が動きにあわせて、クイックイッと揺れる様が愛くるしかった。
「わたしが……?」
 六花はやはり状況が呑み込めず、自分の姿を見おろした。
 普通の洋服のうえから、泥だらけの白無垢を羽織っている。全身ずぶ濡れで凍えそうな有様だが……この装いを指して「花嫁」と呼んだのなら、一応の納得がいく。
「外は寒かっただろう? ずいぶん汚れてしまったね……さあ、こちらへおいで」
 青年は六花に歩み寄りながら、手を伸ばす。
「お風呂に入って、温かいごはんでも食べなさい」
「あ……いえ……」
 お風呂やごはんを用意させて、迷惑をかけたくない。六花はしっかりとした返事ができなかったが、青年は構わないようだった。六花の手を引いていく。
 なぜだろう。引っ張られているのに、まったく強引だとは感じない。身体が導かれるように、青年についていくのがわかる。凍てついた胸の奥が溶かされるように、温かい。
 こんな気持ちは、初めてだった。
「あなたは……」
「ロンとでも呼んでくれ」
 青年は笑って、六花をふり返った。先ほどまで、水燈籠に照らされて橙色だった髪が、金色に輝いている。建物の灯りを反射しているからだ。
 本当に綺麗……。
 六花は彼が人ならざるものであると気づいていた。けれども、彼がまとう神気は人間とも妖とも違っていて……神、いや、神霊? はっきりと断定できない。
 玄関に入ると、まず出迎えたのは立派な切り絵だ。白い紙に宝船がデザインされており、朱色の台紙がついている。とても繊細な線が多く、遠くから見たら二色の絵画と間違えてしまいそうだ。
 切り絵に気をとられていると、ロンが六花に向きなおる。
「これは必要ないね」
 邪魔になっていた白無垢を脱がせてくれた。水を含んだ衣が、ばしゃんっと重い音を立てて落ちる。今考えれば、早く捨てればよかった。
「聞きたいことはいろいろあるだろうが、まずはお風呂に入っておいで。人間は身体を冷やすと壊れてしまうんだろう? コマ、案内してあげて……」
 ロンは、六花の頭をタオルで拭いてくれる。玄関に何枚か用意してあったようだ。
 玄関の隅には、なにかを洗うためのブリキバケツと雑巾が置いてある。傘立ての隣には、長いものを挿すためのスタンドもあった。靴箱の一部もカウンターになっていて、市販のカイロや小さめの蜜柑、地図などが並べられている。
 品のいい玄関なのに、雑多な印象だ。
 不思議に思っていると、ロンが首を傾げた。
「どうしたの? ……ああ、そうか!」
 ロンは言いながら、なにかに気がついたようだ。
「そうだった。お風呂の入り方は、わかるかい? 僕としたことが、気が利かなくて申し訳ないね」
 その問いに、六花はポカンと口を開ける。
「お風呂って……ここは、そんなに特殊な設備なんですか?」
「蛇口を捻らないとお湯が出ないし、シャワーが身体に巻きつかないように注意する必要がある。青いほうが水で、赤いのがお湯。温度調整も意外とむずかしいんだ」
 ロンの説明を聞いて、六花は呆気にとられる。
「ええと……たぶん、そのタイプのお風呂なら、大丈夫です……」
「本当に? 遠慮せずに言ってくれ。いつでも手伝ってあげるから」
 ロンがあまりにも真剣なので、六花はどう反応すればいいかわからなかった。ただ、お風呂を「手伝う」と言われて、よからぬ想像が頭を過ってしまう。
「お手伝いなんて……ま、間にあっています!」
 恥ずかしくて、つい強めに返した。
 すると、ロンは寂しそうに肩をシュンとさげる。まるで子どものような仕草だ。
「旦那様に悪気はないんです。ちょっと人間がわかっていないだけなんですっ!」
 見かねたのか、コマがフォローに入ってくれる。
「では、お風呂へ案内します。旦那様は、食堂で待っていてください」
 コマは、胸を張って六花の前を歩く。ぴょこぴょこと、跳ねるような歩き方が可愛らしい。そして、しっかり者だ。
「あいたっ」
 と、思った矢先。張り切りすぎたコマの足元が、つるんっと滑る。なにもないところで、こてんと転がってしまった。
「大丈夫ですか?」
 六花は慌てて手を差し伸べた。
「あいたた……だ、大丈夫ですっ! ウチ、立派な看板狐になるって決めたんです……って、耳!? 変化が解けていますーっ! どうしてですかー!」
 コマは身体を丸めて頭を押さえていたが、慌てて立ちあがる。どうやら、いまさらになって、変化の術が解けていると気づいたらしい。急いで耳を隠そうと、ペタペタ頭に触れるけれど、時既に遅し。
 その様がおかしくて、六花は笑ってしまった。コマは恥ずかしそうに頬を染めながら、コホンと咳払いする。
「コマさんは、緊張しているわたしを笑わせたかったんですよね」
 コマがとても張り切るので、六花は微笑してみせた。すると、コマは両耳をピンッと立てながら、嬉しそうに尻尾をふる。
「そ……そうなんですっ! お客様の笑顔、とっても素敵ですぅ!」
「ありがとうございます、コマさん」
 六花は、改めて周囲を見回す。
 コマはここを宿だと言っていた。お風呂場へと続く廊下には客室は見当たらないが、きっと、どこかに宿泊客がいるのだろう。
 不思議な門から繋がる、不思議な宿。
 普通の人間向けの宿とは思えなかった。

 

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