一. 契約結婚


 ヒョー……ヒョー……。

 豊かな自然に囲まれた池に、不気味な鳴き声が響く。
 赤蔵あかぞいけは、愛媛県上浮穴かみうけな久万くま高原こうげん町の人里離れた山中にある、湧き水による溜め池である。希少な植物が生息し、四季折々で様相を変える。農業用水としても活用されている、ごく一般的な溜め池だ。
 この池を守り続ける一族がいることは、限られた人間しか知らない。
 正確には、池に“あるもの”を封じている。

「六花! 聞いているのかしら!」
 耳につく声で怒鳴られて、赤蔵あかくらりつは視線をあげる。
「はい、お母さん」
 六花が返事をした瞬間、頭のうえから液体を被る。
 バケツが床に転がり、水をかけられたのだと遅れて気づいた。
「気持ち悪い」
 そうつぶやく母・赤蔵ふゆの声に、六花は目を伏せた。
「なんとか言ったらどうなの?」
「…………」
 なにか言い返せば、今度は「口答えするな」と、怒鳴られるだろう。わかっていて口を開く愚は犯さない。だが、その様子が母にとっては面白くないのも、理解している。
「お前は本当に、可愛げがない。いいわ。早く準備なさい。せつの足を引っ張らないで!」
「……すぐに」
 六花は手早く雑巾で床を拭き、玄関へ向かった。頭から水が滴ったままなので、軽く髪を結いなおす。
 何年も履いたボロボロのスニーカーが、六花の靴だ。玄関から外に出る六花を、冬実が睨みつけながら蹴飛ばす。六花は前のめりに、玄関土間に倒れて額を強く打った。
「遅い。無能!」
 無能。六花のことだ。
「申し訳ありません」
 六花は、赤蔵家の長女として生を受けた。
 赤蔵家の歴史は平安、源氏の武士として名を馳せた源頼政の時代まで遡る。頼政は大江山の鬼退治で有名な源頼光の玄孫に当たる、清和源氏の血筋の武士だ。
 頼政の最も華々しい功績は、ぬえ退治であろう。
『平家物語』によれば、近衛天皇を夜な夜な苦しめる鵺がいた。その鵺を見事、退治してみせたのが、弓の達人たる頼政であった。
 源頼政は、清和源氏として初めて三位まで昇格したが、やがて、以仁王の乱に加担して、栄華を極めた平家一門に反旗を翻す。そして、志半ばで敗れて自刃した。源氏の血筋たる源頼朝が平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開いたのは、頼政失墜後の歴史である。
 けれども、頼政の子孫は滅びず……秘かに赤蔵ヶ池で代々の役目を受け継いできた。
 鵺は退治されていなかったのだ。
 正確には、退治できなかった。頼政の弓によって射られた鵺は、住処である赤蔵ヶ池へ戻ってきて、回復のため眠りについたのである。
 眠った鵺を監視し、結界を張って封じている一族が、赤蔵家だ。源氏の血を引き、平安の世から続く封印師の家系である。
 それなのに、六花には結界を張る能力がない。
 妖の類は見えるし、対話も可能だが、その程度。赤蔵に伝わる術など、なにひとつ使えなかった。只人に毛が生えたくらいの無能である。
 それに引き換え、双子の妹である雪華は、天才と称されていた。一族随一の神気を宿しており、将来的には強固な結界を完成させるだろうと言われている。
「まったく、見送りも満足にできないなんて」
 頭をさげて謝罪する六花に、冬実は薄らと笑みを浮かべた。
「封印師にもなれない。見送りにも遅れる。暗くて口下手で、嫁のもらい手もあるかどうか。本当に、あなたは一人ではなにもできない駄目な子。母は心配ですよ」
 母からそう言われると、「ああ、そうなんだ。わたしはやっぱり無能で、駄目な人間だ」と思い知らされる。
「気をつけます」
 六花は再び頭をさげた。
「いいよ、べつに。私は気にしてないから……」
 母のうしろで不機嫌そうにつぶやいたのは、雪華だ。
 光の加減で、赤みがかっている瞳や、ふわふわとやわらかい髪は、六花とそっくりだ。雪華の薄い唇には、ほんのりとリップグロスが塗られており、乾燥した六花とは対照的である。
 化粧のせいか、十八歳にしては、どこか背伸びした印象を受ける。垢抜けない六花とは区別しやすいので、顔立ちが似ていても間違われることはない。
 双子のはずなのに、まるで、光と影。六花は常に、雪華の影であった。
 六花は立ちあがり、雪華へと歩み寄る。
「雪華、お弁当。がんばってください」
 六花は精一杯微笑みながら、風呂敷に包んだお弁当箱を持ちあげた。雪華の好きなおかずをたくさん詰めている。
「……こんなに食べられないよ。それより、ずぶ濡れじゃない。早く拭きなよ……」
 雪華は素っ気なく言って、六花の持っていたお弁当を受けとる。思ったよりも重かったらしく、顔をしかめた。
「もっと簡単な冷食とかでいいのに。大変でしょ」
 雪華はボソリとつぶやきながら、六花を睨む。その視線に、ほんの少しだけ憐れみのような色を感じて、六花はどう反応すればいいのか、わからなかった。
 お弁当のおかずは、毎日すべて手作りである。冬実が「雪華の口に、既製品なんて入れないでちょうだい!」と、六花にキツく言ったからだ。けれども、それを正直に話すのは、母の手前、むずかしかった。
「口にあわないなら、作り直します」
「そこまでしなくていい……美味しいから」
 雪華は小さな声で返しながら、お弁当を荷物に入れる。
 お弁当を持つ雪華の指はボロボロで、絆創膏だらけだ。
 赤蔵に伝わる結界術には、破魔の弓を使用する。女の力では易々と引けぬ強弓だが、雪華は幼いころから訓練しており、自在に扱えた。神気が強いだけではなく、雪華はしっかり努力している。
 無能で役立たずの六花とは違って。
「あと……これを」
 六花は差し出がましいと思いながら、小瓶を取り出した。
「蜂蜜で作った軟膏。雪華は、がんばり屋さんだから……」
 いつもがんばっている雪華のために。無能の六花ができることと言えば、これくらいだ。
「雪華には、高いハンドクリームを買ってあるわ。六花の手作りなんて、もらうはずないでしょう? 考えてわからなかったのかしら。だから、あなたは駄目なのよ」
 すかさず、冬実が割って入り、六花の軟膏をとりあげる。口調はゆっくりだが、決して優しくない。六花は、背中を小さく丸めた。
「……ちょうど切れてたから、次のを買ってくれるまで使うわ」
 けれども、雪華は軟膏の小瓶を母から奪いとる。冬実がなにか言う前に、荷物に軟膏を入れた。
「じゃあ、行ってくる」
 雪華は六花に背を向けた。冬実も雪華についていく。これから、鵺の封印される池で修行をするのだ。封印師としての務めを全うするため、雪華は努力している。
「いってらっしゃいませ」
 六花は妹と母に、頭をさげて見送る。まるで、使用人だ。無能で出来損ないの六花には、彼らと同じ家族として過ごす資格などない。幼いころから、そうやって育てられた。
 平安の世より、鵺の封印を守り続けてきた赤蔵の結界は強固だが、今代の赤蔵家は特殊な事情を抱えていた。現在の当主は、六花の父・しゆうがつとめているものの、病気がちである。家の奥で養生しながら、やっと結界を維持している状態だ。
 力の強い雪華ばかりを持てはやすのも、当主の病弱さに起因する。早く雪華を一人前にして、当主の座を引き継ぐ必要があるのだ。無能な六花に構う余裕などない。
 今日はぜんそくがひどくて、父は部屋から出てこなかった。さきほど、生姜湯を持っていったが、六花の言葉にはなんの反応もない。それでも時間が経つと、使用済みの食器が廊下に出ていた。
 六花は頭をタオルで拭いて、食器を片づける。それからすぐに、洗濯が終了するメロディーが聞こえた。
 洗濯物を抱えて外に出て、ふと空を見あげると、曇天が垂れさがっている。吐く息が白く、指先も凍りそうだった。
「嫌な天気」
 天気予報では、夕方から雪という話だ。今日は早めに洗濯物を取り込まなければ。
 六花は解けていたエプロンのリボンを締め直して、庭へと回り込む。歩きながら、頭の中では夕食の献立について考えていた。
 同じ年頃の子は、みんな大学受験をしている時期だ。けれども、六花は義務教育を終えて進学しなかった。家の役にも立てない者に、高校以降の学費は出せないと言われ、中学を卒業してから、家事手伝いをしている。
 六花がいても迷惑をかけるので、家を出ていきたいと提案したこともあったが、両親からは猛反対されてしまう。六花のような無能は、社会に出たところで、野垂れ死ぬのがオチ。養ってやるのだから、ありがたく思えと、懇々と説教された。
 六花は赤蔵の人間としてだけではなく、世間的にも無能で役立たずらしい。中学までの成績は悪くなかったが、そんなもので人間は測れないのだという。
 どうせ、わたしなんて……。
 いつしか、六花は背筋を丸めて、下を向いて歩くようになっていた。
 きっと、このままなにも変わらない。
 なにをするにしても、いつもあきらめがつきまとっていた。