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六花には、ときどき思い出す記憶があった。
どこかの長い坂道を歩いている。手には蜜柑を持っていて……それだけだ。これ以上は、思い出せない。誰かに会ったような、一人だったような気もする。
ただ、少し……嬉しい記憶だった。
なにも覚えていないのに、感情だけが残っている。
そんな、いい思い出だけが、辛い日常から逃がしてくれるのだ。
「…………」
窓ガラスに風が当たり、音を立てていた。
久万高原町の厳しい寒さが、古い家屋の隙間から浸食している。暖房をつけていても、足元から全身に冷えが伝わってきた。
台所は、ことさら寒くて六花は身を震わせる。指先が凍りそうなのでお湯を使用するが、そうすると、手の脂が失われてしまう。
六花は蜂蜜の軟膏を指に塗布した。雪華に渡したものと同じで、六花の手作りである。
雪華は喜んでくれたかな?
普段、雪華とゆっくり話す時間はない。昔は二人で遊んだけれど、今は同じ家に住みながら、お互いに違う生活をしている。雪華は高校へ行きながら封印師の修練もしており、とても忙しそうだ。
トントントン、と。人参を切る音が台所に響く。
寒いので、今日の夕食は花粉ねり汁にするつもりだ。久万高原町の郷土料理で、乾燥させた地トウキビ、つまり、トウモロコシの粉を出汁で練って作る。素朴な甘みと温かさで、雪華の好きなメニューだ。
雪の日は、花粉ねり汁がいい。小さいころからの定番だった。
「あ……」
玄関が開く音がした。雪華と冬実が帰ってきたのだ。
二人を出迎えようと、六花は台所の作業をいったん中断する。
「おかえりなさ──」
急いで玄関に向かったが、六花の声は引っ込んでしまう。
「六花」
玄関には、母の冬実だけが立っていた。それだけならば特段、変わった光景ではないのだが……驚いた理由は、母が手に持ったものであった。
「綺麗……」
思わず口から言葉が漏れる。
冬実が手にしていたのは、純白の着物であった。結婚式に着る白無垢だという知識だけはあるものの、六花が実際に見るのは初めてだ。
「六花」
冬実の声音は、いつもより穏やかだった。口角をあげて、六花に対して微笑んでいる。
こんなに優しげな母は久しぶりで、六花は目を見開いた。
「あの……」
「六花、これを着てちょうだい」
「え?」
その白無垢だろうか。六花は状況が呑み込めず、返事が遅れてしまう。
そんな六花の肩に、冬実が白無垢を当てた。
「大丈夫よ。似合っているから」
玄関に飾ってある姿見を確認するけれど……そこには、いつもの六花が映っていた。根暗で冴えない陰鬱そうな顔。こんな上等な着物なんて不釣り合いだ。しかし、純白の着物を宛がうだけで、ワントーン肌が明るく見えた。
「さあ」
冬実が優しげな声をかける。
「は、はい……」
六花は雰囲気に流されるまま、返事をした。
「こっちへ来なさい」
冬実の声音は穏やかだが、肩をつかんだ指先が肌に食い込んで、痛かった。
声音に反して扱い方が少し乱雑な気もしたが、このときの六花は、大して気に留めていなかった──。
白無垢を着せられると、六花はすぐに外へと連れ出された。
着たといっても、洋服の上から羽織っただけだ。履き物はボロボロのスニーカーだし、お化粧や結髪もしていない。ひどく滑稽な格好だった。
「あの、お母さん……どうして、こんな格好を?」
理由も聞かされないまま山道を歩いて、六花は困惑を隠せなかった。胸騒ぎがして気分が悪くなってくる。
「もうすぐわかるわよ」
家を出るまでは優しげだった冬実の口調も、少しずつ、いつもの棘を帯びていた。六花の背筋に汗が流れる。
「雪華は……? 雪華は、一緒じゃないんですか?」
「雪華には用事を頼んであるから、夜まで帰ってこないのよ。あの子には見せられないことだから」
まるで、雪華を遠ざけたような言い方だ。
「この先って……池ですよね?」
山道の先は赤蔵ヶ池である。
鵺が封印されている池に、無能の六花は必要ないと言われ、もう何年も近寄っていない。こんな格好をする意味もわからなかった。
逃げたほうが……本能が六花に「おかしい」と告げていた。
「いいからついてきなさい!」
何度も質問する六花が煩わしくなったのか、冬実は一喝した。六花は怖くなって、肩をビクリと震わせる。それっきり、もう母に質問するのはやめた。
「はい……」
六花は、とぼとぼと従順についていく。着物の裾が地面につかないように持ちあげてみるが、歩きやすくならない。
「六花」
やがて、目的地に辿りついた。
赤蔵ヶ池だ。
池に来るのは、何年ぶりだろう。封印師として期待されなくなって、六花にとって縁遠い光景となっていた。
自然に囲まれ、豊かな生態系を育む池だ。しかし、雪の降る黄昏時では、鬱蒼と不気味な雰囲気が漂っている。
ヒョー……ヒョー……。
どこからか、よくわからない動物の鳴き声が聞こえた。地元の人間からは鵺の声だと信じられている。
「喜びなさい」
「?」
なんのことだろう。突然、冬実が満面の笑みで六花に両手を広げた。
「あなたのような無能でも、家の役に立つときがきたのよ」
「え?」
役に立つ? わたしが?
そう聞いたとき、心にほんの少しだけ希望が宿った。六花でも役に立てる。そんな日が来るなんて……夢にも思っていなかった。
けれども、すぐに疑問と不安が押し寄せる。
母は、わたしになにをさせようとしているのだろう。
六花は自分の花嫁衣装を見おろす。注意したつもりだが、裾はやはり泥で汚れて、落ち葉もついている。全身にじっとりと汗をかき、衣の内側は気持ちが悪かった。
「わたし、なにをすればいいんですか?」
なにをさせられるの?
不安で、心拍数があがっていく。
「なにもしなくてもいいわ」
次第に、足元がぐらぐらと揺れる感覚があった。地震……そうではない。六花の身体がふらりと傾いて、立っているのが苦しくなってきたのだ。
「な……に……」
唐突な眠気が六花を襲った。平衡感覚を失って、六花は落ち葉の敷き詰められた地面に膝をつく。
頭が痛い。額から汗が噴き出て、目が開けていられなくなった。
この術には覚えがある……幼いころから、冬実が六花を折檻するときに用いていた。これをかけられると、身体の自由が利かず、悪夢に落ちてしまうのだ。それから、家の蔵に閉じ込められるのが常だった。
「あなたは生贄よ」
冬実が近づく足音がする。
「なんのために、あなたのような無能を飼い続けていたと思う?」
悪意はなく、ただ純粋に説明するような口調であった。
六花は自らの肩を抱きしめながら、必死に呼吸する。
「あなたを鵺に喰わせるの」
冬実の言っている意味が、理解できない。
今まで、両親からは様々な言葉をかけられた。ひどい仕打ちも、たくさん。それでも、今日より衝撃を受けたことはない。
「赤蔵ヶ池の伝承は知っているでしょう?」
地元に伝わる伝承だ。
平安の世、源頼政が京に現れる鵺を退治した。
しかし、その鵺の正体は──頼政の母だったのだ。
思うような出世ができず、嘆いていた頼政を案じ、母は池の龍神にねがった。すると、たちまち母の身体は異形の鵺へと変じてしまう。醜い妖となった頼政の母は、雲にのって京へと渡り、夜な夜な天皇を苦しめた。
そうして、自ら子に討たれたのである。その功績をもって、頼政の出世は叶った……鵺が倒された日、赤蔵ヶ池は真っ赤に染まったという。
「でもね、伝承は誤りなの──頼政公は自らの母を殺められず、逃がした」
逃げた鵺は池に帰ってきた。しかし、身内ゆえに見逃したものの、不吉の象徴たる鵺を放置してはおけない。逃がした事実を帝に知られるのも都合が悪かった。こうして、頼政の命を受けた赤蔵家の先祖は、代々、鵺を池に封じる役目を負ったのだ。封じ続けていれば、いつか鵺は力尽きて滅ぶ。
「鵺は放っておけば、じきに死ぬわ。でも、殺してはいけないの」
なぜ? 頼政には母親への情があったかもしれないが、子孫は事情が違う。頼政も、鵺の自然消滅をねがって封印させたのではないか。
「頼政公の母はね、巫女の血筋だったのよ。神気を宿し、邪を封じ込める……その力は、封印師たる子孫たちにも及んでいるの」
六花は反射的に耳を塞ごうとするが、すでに指一本動かせなかった。
「池の鵺が死ねば、赤蔵家の神気は絶えてしまうわ」
冬実の言葉一つひとつが、六花の脳を揺らす。
「だから……当主は自分の娘を一人、生贄に差し出しているのよ」
赤蔵家の力を守るために、妖に娘を喰わせる。そうやって力を繋いで生かしながら、鵺を封印してきた──一族の真相を聞かされて、六花は身体の震えが止まらなかった。
矛盾している。
なんのために、鵺を封印しているというのだ。自分たちの力を守るために、鵺を生かすなんて……おぞましい。当初、源頼政が望んだ一族の役割にも反している。
「あなたは、生贄」
天才の雪華ではなく、無能の六花が生贄だ。
これまで、なんの役にも立たなかった。そんな六花にようやく、役目ができる。
少しも嬉しくない。
今まで、両親は六花を生贄にするために育てた。家を出るのを反対されたのも、六花を逃がしたくなかったからだ。六花は巧みに、家に縛りつけられてきた。
「あ……あ……」
これまで、六花は愛されていると感じていなかった。それは六花がどうしようもない無能だから、仕方のないこと。妹の雪華とは違って当然だ。そう割り切って生きていた。
でも、両親は……最初から、六花を──。
「六花、ごめんなさいね」
冬実の口から、六花に対する謝罪の言葉を聞いたのは、記憶する限り初めてだった。
六花は淡い期待を抱いてしまう。
わたしは愛されていなかった。
でも、もしかすると……一抹の希望に縋りたくて、顔をあげる。
せめて、愛されなかったのは、未練を残さないためだと言ってほしい。この瞬間、冬実が少しでも悲しんでいてくれたら……そんな希望、いや、願望が胸に宿る。
「お母さ……ん……」
六花は、おそるおそる顔をあげていく。
そこに母親らしい感情があることを期待して──。
「────ッ」
けれども、希望は打ち砕かれた。
震える六花を見おろす視線は冷たくて。それなのに、唇には弧が描かれていた。
やっと、厄介者がいなくなる。そんな感情が透けて見えてしまうような……六花が求めていたものとは、かけ離れた表情であった。
ああ、無駄だった。
わたしの人生、なにもかも。
絶望した瞬間に、目が開けていられなくなる。六花は泥に沈んでいくような思いで、自らの意識を手放した。
もう、どうでもいい。
こんな人生、無意味だった──。