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3(承前)

 その場でぴたりと足を止めた僕を、立ち上がっても十センチにも満たないちっぽけなハムスターがじっと見上げていた。
 かつて僕には幽霊が見えていた。そのときに見たのは人間だけではなく、犬や猫など動物の幽霊も見えていた。相談を受けた家にいたゴールデンレトリバーの幽霊とは、吠えたりしっぽを振ったりという動作を飼い主さんに伝えることで、意思疎通を図ることに成功した。でも、今回はハムスターだ。感情を表す何かしらのしぐさはあるとは思うが、犬ほどはっきりしたものなのだろうか?
 だが、ふと気づいた。僕と小太郎は目が合っている。そう思ったのは、何か訴える感情のようなものが小太郎から伝わってきているからだ。
 悪意ではない。でも友好的とも言い難い。どちらかと言うと、何かを必死に訴えているように僕には感じる。
「いるんだな」
 動きを止めた僕に、誰よりも先に気づいた頭島さんに訊ねられた。我に返って、「はい」とだけ応える。
「え?」
「いるのか?」
「どこに?」
 紗香さんに続けて社長と奥さんも声を上げ、さらに立ち上がろうとした。
 だが「動かないで。大きな声も出さないで。小太郎はデリケートなの。驚かさないで」と、凜ちゃんに言われてぴたりと動きを止めた。三人揃ってそろそろと元の位置に腰を下ろしていく。
「小太郎がいるの?」
 僕を見上げて凜ちゃんが訊ねる。
「いるよ。凜ちゃんの左足の横に」
 小太郎は横座りしている凜ちゃんの左足の横に立っていた。凜ちゃんが体を動かさずに、そのあたりに目をやる。真剣なまなざしでしばらく見つめてから僕に顔を戻して「見えない」と、悲しげな声を漏らした。
「凜ちゃんの足の横に」と言いかけたとき、小太郎がもぞもぞっと体を揺すった。見る間に、もやもやした巨大な円柱状の塊に膨らんでいく。
 びっくりして一歩後ずさる。もやもやした塊の上の方に、巨大な目が薄らと見え始めた。
 状況が読めてきた。僕が最初に見たのは、巨大化した小太郎だったのだ。小太郎の大きな目が、じっと僕を見つめている。その目は僕に必死に何かを訴えかけていた。言葉はない。でも伝えようとしていることは、なんとなく察することが出来た。
「――わかった、伝えるよ」
 小太郎がぱちりと両目で瞬きした。
 これは偶然ではない。意思の疎通が取れたのだと僕は確信する。
「本当にいるの?」
 再び凜ちゃんに訊かれて、「いるよ、でも今は」と答えている最中に、凜ちゃんがフローリングに向かって「小太郎、いるの?」と、呼びかけた。
 床にいるハムスターに話しかけるという意味では適切な行為だ。でも実際は、巨大な小太郎の中に上半身のほとんどを突っ込んだまま喋っているように僕には見える。真剣なだけに、どこか滑稽な状況になんと言っていいのか言葉を失う。もちろん、このままにしておくわけにもいかない。言葉を選んで話し出す。
「凜ちゃん、――そのお、小太郎は今、大きくなっていて」
「え?」
 凜ちゃんが姿勢を戻すのと同時に、もやもやした巨大な物体が消えた。ふわっと霧散したのではなく、縮んでいったのだ。見ると凜ちゃんの足元に本来の大きさに戻った小太郎がいた。ただし今度は目を閉じて体を横たえている。
 慎重に近づいてフローリングの床に膝をついて、小太郎に手を伸ばす。小太郎の小さな腹が息をするたびに膨らんだりへこんだりしている。ただ横たわっているのではなく、疲れてぐったりしているように僕には見えた。白い腹毛と薄グレーの背中の毛の境目あたりに指が触れた。でも何の感触もない。それどころか指が体の中に入り込んでしまう。
「そこにいるの?」
「いるよ。見えている。でも、僕には触れないんだ」
「小太郎、どうしてるの?」
「今は目を閉じて横になってぐったりしている」
 僕は見たままを正直に伝えた。
「痛がったり、苦しだりしてる?」
 不安に駆られた凜ちゃんが目を見開いて詰め寄る。
「苦しそうには見えない。でもすごく疲れているみたいだ。多分だけれど、大きくなったことで疲れたんだと思う」
「なんでデカくなってたんだ?」
「気づいて欲しかったんだと思います、凜ちゃんに。そばにいるって」
 奥さんの問いに僕は自分の考えを答えとして伝えた。
 小太郎は誰より自分の死を悲しみ、不調に気づけなかったからだと自身を責めつづけている凜ちゃんを案じているのだ。だから死後もそばに寄り添っていた。きっと小太郎なりに、大丈夫だ、もう心配しないでよいと伝えたかったのだろう。けれどどれだけ小太郎が頑張ろうと、凜ちゃんは自分の存在に気づいてくれない。だからなんとかして気づいて貰おうと、体を大きくしていたのだ。
「怒ってる?」
 震え声で凜ちゃんが訊ねた。
「違うよ。凜ちゃんが自分のせいだと悲しんでいるのを心配しているんだよ。話してはいないけれど、僕はそう小太郎から感じた」
「でも」
 凜ちゃんは賢い子だ。励ますために僕が作り話をしていると思っているに違いない。でも、僕の話を信じて貰いたい。そうなると、過去の話をするしかない。
 もちろん話したところで証明は出来ないのだから、信じて貰えるとは限らない。でも、可能性はある。ならばと決意する。
「僕は子供のころから今までずっと、何度も幽霊を見て話もしてきた。人間だけじゃない。犬や猫やそのほかの動物の幽霊とも」
 頭島さんと奥さんの視線を感じたけれど、無視して続ける。
「人だろうと動物だろうと、怒りや悪意があるときははっきりと分かる。でも、小太郎からは感じなかった。伝わってきたのは何かを必死に訴えようとしているってことだけだった。多分だけれど、凜ちゃんを心配しているんだなって感じたんだ。それでさっき、分かった、伝えるよって言ったら、小太郎が瞬きをした」
 にわかには信じられないのだろう。凜ちゃんは無言だった。凜ちゃんだけではなく、室内の誰もが言葉を発しない。
「僕は小太郎と話してはいない。話が出来ていたところで、それを凜ちゃんに証明することもできない。だから信用できないと言われてしまえばそれまでだと思う。でも、思い出して」
 フローリングの床に膝をついたままだから、凜ちゃんと視線が合う。
「小太郎が凜ちゃんに怒っていて、だからそばにいるのなら、何か悪さをしたはずだ。思い当たることはある?」
 凜ちゃんが僕を見つめながら、黙って首を横に振った。確認してから今度は紗香さんに訊ねる。
「凜ちゃんの元気がなくなりだしてから、家の中に何か気配を感じるって言ってましたけれど、他に何かありました? 例えば物が壊されるとか、時間問わず物音がするとか?」
「まったくないです。ただ凜の近くで何か気配がしただけよ。でも私が目をやると気配は消えていた」
 紗香さんが答えを聞いて、僕は凜ちゃんに目を戻す。
「今の小太郎を見ればわかる。気づいて貰おうと体を大きくすると、多分すごくエネルギーを使うんだ。だから目を閉じてぐったりしている」
 本当かどうかは僕には分からない。でも、僕にはそう見えていた。
 この先を伝えるのは酷なのは分かっていた。でも、小太郎の望みを叶えるために言わなくてはならない。
「凜ちゃんがこのままずっと、小太郎の死は自分のせいだって責め続けて元気にならない限り、小太郎はこれからも凜ちゃんのそばにいて、大きくなろうとする。それは小太郎にとって、決して楽なことじゃないと僕は思う」
「――小太郎」
 小さな声で凜ちゃんが呼んだ。その頬を大粒の涙が滑り落ちていく。もぞりと小太郎が体を動かした。目を開けて起き上がると、床にうずくまる。
「小太郎が起きた。今は僕が最初に見た半球体みたいな形になっている」
「大丈夫なの?」
 小太郎はその声に振り向いて凜ちゃんを見上げてから、顔を戻した。
「凜ちゃんを振り向いて見たよ。だから多分大丈夫だと思う」
「でも、うずくまったままなんだよね?」
 うなずくことで返事にしてから、僕はこの先どうすればよいのかを考えていた。
 見えているものの説明はできる。けれど、僕にできるのはそれのみだ。小太郎は人の言葉を話さない。あくまで僕が感じたことを伝えることしかできない。そして僕は言うべきことはすでに伝えた。凜ちゃんがどうとらえたのか、そしてこの後どうしたいのかは僕には分からない。
「試させてくれ」
 頭島さんが言いながらテーブルを回り込んで僕の背後に近づく。フローリングの床に両膝をつくと、凜ちゃんの足の前に腕を伸ばした。
「場所を教えてくれ」と頼まれて、「もっと左。行き過ぎです。もうちょっと右」と、スイカ割りの要領で指示を出す。
「つかんで誘導してくれ」
 微調整に時間が掛かることに業を煮やした頭島さんに頼まれて、僕は頭島さんの右手を小太郎の真上に誘導した。
「このままゆっくりおろします。触れたら教えてください」
 小太郎と頭島さんの手の隙間を覗き込みながら、そろそろと手を下ろしていく。頭島さんの手のひらが小太郎の体に触れるか触れないかの状態になったとき、「いる」と、頭島さんが静かに言った。
「放してくれ」と言われて、すぐさま僕はつかんでいた手を放す。頭島さんは右手をそっと傾けると、左手のひらを上に向けて置いた。右手で小太郎を押して左手に乗せる作戦のようだ。
 けれど、頭島さんが右手を動かす前に、小太郎は自ら動いて頭島さんの左手に乗った。
 わずかな感触と重みを感じたらしい頭島さんが、答えを求めるように僕を見る。
「今、左手の上に小太郎が自分から乗りました」 
 小太郎は頭島さんの左手でうずくまっている。
「小太郎が乗っているのなら、両手にして」
 凜ちゃんに言われて、頭島さんがすぐさま右手を添えて、両手で器を作る。
「小さな手足が触れている。それに腹毛がとても柔らかい」
 僕には分からない感触を頭島さんが皆に伝える。
「絹みたいな毛だから、和名はヒメキヌゲネズミっていうのよ」
「絹みたいな毛! 触ってみたいな」
 立ち上がった奥さんがテーブルの上から手を伸ばす。
「ダメ。繊細な生き物だから、人がべたべた触らない方がいいの。菌とかウィルスとかがついたら、すぐに弱っちゃうんだから」
 ぴしゃりと凜ちゃんに言われて、奥さんがすぐさま手を引っ込めた。
 小太郎はすでにこの世のものではないのだけれどな、と思う反面、凜ちゃんは僕の言葉を信じてくれたのかもしれないと気づく。
 凜ちゃんが身を乗り出して頭島さんの空の両手をじっと覗き込んでいる。少しして、右手で両目からあふれる涙をぐいっと拭ってから口を開いた。
「小太郎。心配かけてごめんね。もう大丈夫だから」
 それまでの震えた声ではなかった。小さいけれど、はっきりしたものだった。
 小太郎が頭島さんの手の上で体の向きを変えた。
「動いた」
「凜ちゃんの方に体の向きを変えました」
 ひょこっと小太郎が立ち上がった。
「今、立ちあがって凜ちゃんを見上げてます」
 体感している頭島さんと見えている僕とで状況を伝える。
 何もない頭島さんの手のひらを見つめながら、凜ちゃんがまた話し出した。
「ハムスターの専門医になるのなら、いつまでもめそめそなんてしてらんない。もう平気だよ」
 涙は止まっていない。それを打ち消すように何度も目をしばたかせながら凜ちゃんが続ける。
「うんと勉強しなくちゃならないもの。それには元気じゃなくちゃ。いっぱい食べて、よく寝て、運動も。あーちゃん、ゆーぽん、みすずちゃんたちとも、これまで通りに一緒にたくさん遊ぶ。今までありがとう。――もう行っていいよ」
 凜ちゃんが言い終わると、小太郎が振り向いて僕を見上げた。
「行っていいって、凜ちゃんが言っているよ」
 重ねて言う必要もないとは思ったけれど、念のために伝える。直後に社長の声が聞こえた。小太郎が姿勢を戻して社長を見上げた。
「今までよく頑張ってくれた。本当にありがとう。これからは俺たちが小太郎の分まで頑張って、凜が楽しく元気でいられるようにする。約束する」
 スツールから身を乗り出すようにして、社長が頭島さんの空の手のひらに向かって語り掛けていた。その表情は真剣そのものだ。
 小太郎がまた振り向いた。僕を見上げて一度瞬きをする。
「僕を見て瞬きをしました」
 説明している間に小太郎は向き直ると前足を着いて半球体の姿勢に戻った。そのまま頭島さんの指先に向かって、ちょこちょこと歩き出す。
「歩いてる」
 感触を頭島さんが伝える。
 小太郎の体が頭島さんの指先から宙に乗りだしたとき、ふわっと空気に溶け込むように消えてしまった。
「いなくなった」
「消えました」 
 頭島さんと僕がそう言ったのは、ほぼ同時だった。
 直後、ぐっぐっと嗚咽を堪えるような音が聞こえた。
「――泣いちゃダメ。泣いたら小太郎が心配して戻ってきちゃう。もう泣かない」
 体を震わせて、小さい声で凜ちゃんが繰り返している。
「そうだな。凜、えらいぞ」
 社長がスツールを降りて凜ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
 この光景に僕の目頭も熱くなってきた。指で拭おうとしたら、さきほどの数倍も大きいぐずっぐずっという音が聞こえた。
 奥さんが真っ赤にした顔をぐちゃぐちゃにして、必死に泣き出すのを堪えていた。けれど、鼻水混じりの息が荒い。
「隼人さん、泣いちゃダメ!」
 凜ちゃんに叱責されて、「わかってる。わがってるけどぉ」と、奥さんが言い返す。
「かっこよすぎるだろ、小太郎。――じゃねぇわ、小太郎さん。いや、もう小太郎兄さんって呼ばせてもらうぜ、俺は」
 凜ちゃんへの小太郎の献身ぶりには僕も感動しているし、尊敬の念も持っている。けれど、ハムスターを兄さんと呼ぶのはどうなのだろうかと思っていると、「小太郎は去年の三月生まれだから、人間の年だと六十歳くらいだから、兄さんじゃないと思う」と、凜ちゃんがひくっひくっとしゃくりあげながら訂正した。
「六十歳。だったら、叔父貴だ。カッコいいぜ、小太郎の叔父貴」
「叔父貴は、ヤクザ映画みたいでイヤ」
 強めに凜ちゃんに拒絶されて、奥さんが「そっか。じゃあ小太郎さんは?」とお伺いを立てる。
「それならいい」
「じゃぁ、小太郎さんだ。ホント、カッコイイぜ。小太郎さん。男の中の――いや、ジャンガリアンハムスターの中のジャンガリアンハムスターだ」
 ダイバーシティからなのか、ヤクザ映画みたいで嫌と言われたからなのか、奥さんが言い換えた。
「うん、あの子は最高のジャンガリアンハムスターよ。あたしには、これからもずっと」
 小太郎との別れは感動でしんみりする場面だと思う。けれど、奥さんと凜ちゃんのやりとりのお蔭で、どこか明るく感じる。
「ママ、隼人さんの持ってきてくれたお土産のお菓子、貰っていい?」
 それまでの空気を振り払うように、今日一番の元気な声で凜ちゃんが紗香さんに訊ねた。
「そうね、みんなでいただきましょう。紅茶を淹れるから、凜、手伝って」
 はぁいと元気に言って、凜ちゃんがキッチンに向かう。その背中を見ていると、「ありがとな」と、社長が礼を言った。
 いえ、と返す前に「このお礼は必ずする。本当にありがとう」と、重ねて言われた。
「俺は何もしてないんで。光希と丈には飯でも奢ってやってください」
「俺も何もしていません。光希にだけお願いします」
 奥さんと頭島さんの二人ともが社長のお礼を断ってしまった。もちろん僕も断ろうとした。今までどれだけ社長にお世話になったかを考えたら、これくらいなんでもないからだ。けれど断りの言葉を言おうとして気が変わった。
「僕ではなく、他の誰かにしてあげてください」
「――わかった。そうさせて貰う」
 社長が口の端だけ上げる男前スマイルを見せてくれた。
 誰に食事をご馳走するかは社長の自由だ。でも、今回の僕への一回は、できればかつての僕のような、行く宛も頼る人もいない途方に暮れた誰かだと良いと願う。もちろん僕が言うまでもなく、社長は今まで通りに困っている人に手を差し伸べるだろう。でもその一回分に貢献出来るのなら、僕は満足だ。
 ぽんと肩を叩かれた。笑顔の頭島さんが視線を動かす。その先を追うと、奥さんが左手で顔を覆ったまま体を小刻みに震わせている。その右腕は、親指だけ突き出して僕へと伸ばされていた。グッジョブ! と言いたいのだろう。指の隙間から覗く奥さんと目が合って、僕も無言で親指を突き出した。



「よっしゃ、帰ろ。――って、まだ二時半か。夕飯はどうしようかって、まだ腹も減ってねぇしな。とりあえずいったん戻ろっか」
 家の前で手を振って見送ってくれる社長と紗香さんと凜ちゃんの三人が見えなくなってから、ハンドルを握る奥さんが言った。
 小太郎を見送ったあと、奥さんの手土産だけでなく、紗香さんが準備してくれていたケーキもいただいて笹山家を退出するまでに要したのは一時間半にも満たなかった。
 小太郎を送り出すまでに掛かったのは三十分くらいで、あとはティータイムだったのだが、一時間も掛からなかった理由は、会話が弾まなかったからだ。いつも陽気な奥さんですら、小太郎以外の共通の話題を持ち出すのは難しく、これといった話もなくて会話は途絶えがちだった。
 しかも紗香さんと凜ちゃんにちらちらと物問いたげな目を向けられて、どうにも僕は居心地が悪かった。これまでの僕の話を聞きたいのだろうが、話すつもりはなかった。話すのなら、頭島さんと奥さんに今まで嘘を吐いていたことへの謝罪をしてからだと考えていたからだ。
 それにもう一つ考えていたことがあった。いみじくも小太郎と一度違いの浩太朗のことだ。秋定さん、さよりさん、春香さん、黒岩さん、そして小太郎は、理由も相手もそれぞれだけれど、皆、思いを伝えるためにこの世に残っていた。
 浩太朗は亡くなってからずっと、僕の前には現れなかった。けれどこの前、姿を現した。あの日から何度も思い返していた浩太朗の言葉が甦る。
「久しぶり」「元気そう。って言うより、前よりずっと元気だ」
「前よりずっと元気だ」という言葉が引っかかっていた。初めは須田SAFETY STEPでアルバイトを始めて筋肉がついたことを言われたと思っていた。でもやはり違う気がする。元気と言うのなら、浩太朗と一緒にいた時期が、人生の中で一番だった。あの頃と比べて、「前よりずっと元気」にはなってはいない。もしかしたら、浩太朗にはそう見えたのかもしれないが、鏡に映る薄暗い目をした覇気のない顔は、どう見てもあの頃の方が元気だ。
 ――だとすると。
 どれだけ一人で考えたところで出ない答えを求めて、僕は考え続けていた。とうぜん皆との会話には加わらないし、視線すら合わない。そんな僕に気づいた社長が「このあと隼人たちは予定があるんだよな。そろそろ時間じゃないのか?」と、早々に解散するように仕向けてくれた。
 そして笹山家の滞在時間は、これまでの怪奇現象の解決に要した中では最短時間で終わった。
「どうする? どっか行きたいとことか、したいことがあるのなら、そこまで送るぞ」
「俺はないです」
 すぐさま頭島さんが返したので、「僕もないです」と続ける。それで会話は終わってしまった。
 いつもなら奥さんの車の中で会話が途絶えることはない。でも今は、しんと静まり返っている。沈黙の理由は、どう考えても僕だろう。
 意を決して「二人に謝らせて下さい」と、切り出す。
「アパートで頭島さんが秋定さんを殴ったとき、僕は初めて幽霊を見たと言いました。けれど本当は、子供の頃から幽霊が見えていたんです。ただ中学三年の一月以降は見えなくなって、あの日、久しぶりに見えたんです。でも、初めてと嘘を吐きました。ごめんなさい」
「別に謝る話じゃねぇだろ。俺も丈も言いたくないことは言ってねぇし。な?」
 奥さんが頭島さんに水を向けた。「ええ」と頭島さんが追随する。
「言わないのとは違うかと」
「面倒臭かったんだろ?」
 言い終える前に奥さんが割って入った。
「気持ちは分かるよ。丈が殴れて、光希が見えるって知ったとたん、俺はグイグイ相談を引き受けちまった。多分だけど、俺みたいな奴につきまとわれて嫌な思いをしてきたんだろ? ――今までゴメンな」
 逆に謝られて僕はあわてる。
「いえ、そんな」と返すのを遮るように奥さんが続ける。
「丈もゴメンな。この通りのお調子者だからよ、つい安請け合いしちまった。俺はなんもできねぇのに」
「俺は見えないし聞こえないので、触れなければそれまでです。だから嫌な思いはしていないので、まったく構いません。ただ、光希には負担をかけてしまったと思います。俺も配慮が足りなかった。ごめんな」
 頭島さんにも謝罪されて、さらにあわてて言い返す。
「やめて下さい。一緒に怪奇現象を解決するのは嫌じゃなかったです。それどころか、楽しかったです」
 思いがけない言葉が口から飛び出した。
 そのとき僕は気づいた。今日も含めてこれまで五回、三人で怪奇事件の解決をしてきた。最初の頃、現場に向かう道中は億劫だった。けれど数を重ねていくうちに、昔のような嫌悪感はなくなっていた。今日の笹山家もそうだ。抱えていたのは解決できなかったらという不安だけだった。
 ミラー越しに窺うような奥さんの目に向かって、僕はさらに続ける。
「子供の頃、僕は幽霊が怖かった。見えているのに気づくと話を聞いて貰おうとか、望みを叶えて貰おうとか、みんなすごい勢いで寄ってきた。血が流れていたり、骨が折れていたりといった酷い見た目の幽霊だけじゃない。幽霊同士、お互いの存在に気づいていなくて、何体も折り重なった状態の奴もいて、化物にしか見えなかった」
 幽霊には重力は関係ないらしく、全員が地面に足がついているわけではなかった。上下左右に重なり合った幽霊の塊は建物の一階を越すほどの大きさのものもいて、中ではいくつもの顔や腕や足がうごめき、それぞれぞれが僕に向かってでんでばらばらに話しかけてきた。
「幼い僕にはなんだか分からかったし、ちゃんと説明することも出来なかった。ほかの人から見たら何もないところに向かって泣きわめく僕を両親は持て余しました。大きくなるにつれて言葉で説明できるようにはなったけれど、見えない両親には信じて貰えなかった。いい加減にしなさい! 嘘をつくな! って、僕は両親から怒鳴られ続けた」
 両親の怒鳴り声が頭の中でこだまする。かき消すように声を大きくして続ける。
「小学校に入る頃には、さすがに見慣れてきて、無視すればやり過ごせるって気づいた。それでもすべては無視できなかった。だから、誰もいないところに向かって話したり、うるさい、いなくなれって怒鳴ったりし続けた。そのたびにまた両親から叱られた」
 頭の中で両親の疎ましそうな顔と「うるさい、黙れ!」「やめてよ!」という怒鳴り声がまた甦る。
「でも、小学校一年になって、とつぜん母親が僕を信じてくれた。僕はそれがとても嬉しかった」
 やっと分かってくれた。僕を信じて味方になってくれたと、そのときは本当に嬉しかった。
「だから母親が受けた相談に乗りました。母親は幽霊は見えないから、相談先で僕は一人で幽霊と話すしかなかった。会話にならない幽霊もいたし、話は出来ても僕の言うことなんて聞いてくれない幽霊もいた。一方的に怒鳴られたり、襲い掛かってくることもしょっちゅうだった。でも僕は頑張った。解決したら母さんが喜んで褒めてくれたから」
 母親は息子の僕が言うのもなんだけれど、綺麗な類に入る人だった。二重の大きな目に細面の顔もだが、長い指の手もとても綺麗だった。
 その手で僕の頭を撫でながら、「光希は良い子ね、本当に偉いわ」と褒めてくれた。そのときの感触と温かさは今でも覚えている。
「でも、ただの金儲けでしかないってあとで気づいた」
 目頭が熱くなった。意図していないのに涙が頬を滑り落ちていく。
「謝礼を貰って味を占めた母親は、どんどん相談を取るようになって、ついには自分も霊感があるって言い出して、ネットで占いの商売を始めた。愛想をつかした父親は家を出て行きました」
 どんどん早口になっていく。
「でもそのときは僕を信じてくれる母親がいればいいって僕は思っていた。だから、幽霊に会い続けた。でも」
 喉がひくついてぐっと鳴った。それでも僕は話し続ける。
「相談のたびに分厚い封筒を貰っているのは知っていました。母親が大きな色のついた石の指輪をとっかえひっかえしているのにも気づいていた。でも構わなかった。それで母親が喜んでくれるのなら。僕を信じてくれるのなら。だけど、そうじゃなかった」
 そのまま小学校六年生の夏休みに知ってしまった母親の詐欺商売の話をする。もう言葉が止まらなかった。近くの中学にはいけなくなり遠くの私立中学に進学して出会った浩太朗の話へと続く。
「高校一年の夏休み前に、あいつは浩太朗の墓参りに行こうって言い出した。『浩ちゃんだって、あなたが元気じゃないと嫌だと思うもの。だからお墓で話しかけてみましょうよ。あなたが来たら嬉しくなって、きっと浩ちゃんも出来るわよ』って」 
 目にかかった重たげな前髪に、いつもどこかまぶしそうな目の浩太朗の顔が頭の中に甦る。幽霊が見えるのは大変だろうと気づいてくれて、幽霊を追い払おうとしてくれたのは彼だけだ。浩太朗は僕の真の理解者で、たった一人の友達だった。その友達を殺したのは僕だ。
 友達になっていなかったら、それ以前に僕と出会っていなかったら、浩太朗は死なずに済んだ。
 目をぎゅっと閉じる。後悔と失望と母親への怒りで、瞼の裏が真っ赤だ。嗚咽で喉が震えてすぐに声が出ない。でも振り絞るように言った。
「金儲けさえ出来ればよかっただけだった。僕はただの商売道具でしかなかったんだ!」
 最後は怒鳴っていた。僕が口を閉じると、車内に聞こえるのは僕の喉がひくつく音だけだった。もう嗚咽で上手く息すら出来ない。何度か深呼吸を繰り返して、どうにか声を絞り出す。
「浩太朗が僕に会って喜ぶわけがない。どころか、会いたくなんてない。だって、殺したのは僕だ。僕が浩太朗を殺したんだ」
 裏返った声でそう言い終えると、「それは違うだろ」「それは違うと思う」という奥さんと頭島さんの声に重なって、「それは違うよ」と別な声が聞こえた。
 驚いて目を向けると、後部座席に座る僕の隣に、いつの間にか浩太朗が座っていた。
 とつぜん現れたその姿にびっくりして、僕はただ浩太朗を見つめる。そんな僕を浩太朗もじっと見つめ返す。しばらく無言で見つめ合ってから、ようやく「――浩太朗」と、僕は彼の名を呼んだ。
「僕が死んだのはただの事故だよ。原因は僕の不注意」
 昔と変わらず、まぶしいものでも見るように目を細めて浩太朗が言う。
「でも、僕と仲良くなってなければ」
 隣に座る小太郎へ思わず身を乗り出すと、
「たらればはよそう」と、さくっと切り捨てられてしまった。
「光希と出会ってないとか、仲良くなってなかったとしても、山岸たちと仲良くなってたら、きっとあそこに行ってた。だったら同じことが起こっていてもおかしくない」
 そうかもね、と納得なんて絶対に出来ない。
「だけど」と、重ねて反論しようとしたところで、「ちょっと、そこのコインパーキングで止めるわ」と、奥さんの声がした。
 バックミラー越しに奥さんと目を合わせようとするが、こちらを向いてくれない。
「落ち着きたい――んだよ、俺が」とだけ言って、左車線に入る。
 様子を察して、気を利かせてくれたのだろう。
「気を遣わせちゃった。でも、路駐じゃなくて、コインパーキングなのがいいよね。最初、見た目で苦手だって思っちゃったんだけど、すごく良い人だね」
 浩太朗が奥さんについて語る。
「頭島さんも良い人だよね。変わった苗字だけど。そうだ、頭島って島があるって知ってた?」
「知らない」と、正直に答える。 
「岡山県の備前市の島で、日生諸島の中で一番人口が多いんだって。この人、岡山県の島出身なんだよね? もしかたらそこなんじゃない?」
 頭島さんに訊こうにも、とつぜんこんな質問をする理由を説明をしなくてはならない。
 ちょうどそのとき、奥さんがパーキングに車を止めた。二人に状況を説明するのなら今だ。でも、どこから話してよいのかがわかない。どうしようかと迷っていると、「何だ?」と、頭島さんが振り向かずに訊いてきた。
「二人とも僕がいるって、もう気づいているんだよ。だから訊いて」と、浩太朗に促されたので、「頭島さんって岡山県の頭島出身ですか?」と、前置き抜きで質問する。
「ああ、そうだ」
 あっさり頭島さんが答えてくれた。
「やっぱり!」
 嬉しそうに微笑んで浩太朗が続ける。
「この人にはびっくりしたな。まさか、あんなことをするなんて」
 浩太朗が同意を求めるように僕を見る。秋定さんのことだろう。けれどとつぜん現れた浩太朗と、浩太朗の存在に気づいているらしい奥さんと頭島さんが揃っている今の状況に、すぐに言葉が出てこない。
「もう、鈍感だな。秋定さんだよ」
 浩太朗の口がへの字だ。馬鹿にした目つきに、思わず「同じことをしたくせに」と言い返した。
 きょとんとしてから、思い出したのだろう。「――そっか、僕もしたっけ」と言って、へへへっと浩太朗が笑った。
 僕の大好きな笑い声につられて、「そうだよ。歩道でとつぜん怒鳴って大暴れしただろう? 両腕を大きくバタバタ振り回してさ」と、続ける。
「見えないんだから仕方ないだろ?」
「体の中に、腕がズボッって入って」と、そのときの再現をしながら、
「それであいつ、『なんだコイツ、怖っ!』って言って消えたんだから」と続けた。
「あー、今ならわかる。何も感じないんだけど、やっぱりビビるんだよ」
 あの頃のような軽口の会話だったけれど、返事を聞いて何も言えなくなってしまった。気づいた浩太朗が「しまった、やっちゃった」と、反省する。けれどすぐに何事もなかったかのように、「僕はまったく何も触れなかったけれど、この人は違うじゃん。秋定さんに馬乗りになってぼっこぼこに殴っているのを見て、怖くなって逃げ出しちゃった」と続けた。
 見ているだけでも怖かった。けれど、触られることはないと自覚している幽霊の立場ならば、怖さはそれどころではなかっただろう――なんて今はどうでもいい。浩太朗は、逃げ出しちゃった、と言った。
 やはり、「あの頃よりも、ずっと元気だ」のあの頃は、中学三年の一月二十九日までではない。
「――いたんだ」
 絞り出すように言うと、「いたよ」と、さらりと浩太朗が応えた。
「もしかして、ずっといた?」
「うん」
 当たり前のようにそれだけ言って、浩太朗がふにゃりと微笑んだ。
 浩太朗が搬送された病院のロビーで、僕は彼の手術が無事に終わるのを祈っていた。けれど姿を現したのは彼の父親だった。
 亡くなったのだと悟った僕は、浩太朗を捜し始めた。院内には何人もの幽霊がいて、その中の一人の中年男性と目が合った。男が立ち上がって近づいて来た。男の表情から友好的ではないのは分かっていたけれど、浩太朗のことを聞けるのならと覚悟した。
 そのとき、男がよろけた。体勢を立て直そうとしてもまたよろけて、そのままどんどん壁の方へと押しやられて行き、最後は壁の中に消えてしまった。
 何だったのだろうと思いはしたが、浩太朗のことを聞きたくて改めて他の幽霊を捜した。でもいなかった。直前までロビー内に見えていた五~六人の幽霊がすべて消えていたのだ。それだけではない。その日以来、幽霊は見えなくなった。次に見たのは秋定さんで、約三年ぶりだった。
 それが何を意味するのか、やっと僕にも分かった。
 目頭に熱を感じて、ぎゅっと目を閉じてから僕は訊ねる。
「今までずっと?」
 まぁね、と言う替わりだろう、浩太朗ひょいと肩をすくめてみせた。
 浩太朗は死後ずっと、僕のそばにいてくれた。ただいただけではない。病院のロビーのときのように、幽霊たちを追い払ってくれていた。だから僕には幽霊が見えなかったに違いない。
 浩太朗は賢いし、芯こそ強いけれど、心身ともに特別強くはない。それどころか、苦手な物や事の方が多くて、生きるのは楽ではなかった。そんな彼が、僕ですら相手にするのが大変だった、見た目や言動も恐ろしく、それこそ暴力的な幽霊たちを相手にしつづけていた。
 どれだけ怖かっただろう。どれだけ大変だったのだろう。きっと勇気を振り絞っていたに違いないと思う反面、なぜそんなことを? と、疑問に思う。
 それ以前にもう一つ、分からないことがあった。
 病院で男を追い払ったときもだし、それ以降も僕には浩太朗が見えなかった。
「ずっとそばにいたのに、なんで僕には見えなかったの?」
 瞼を開いたら涙が零れ落ちそうで、目を閉じたまま訊ねる。
「幽霊を見せたくなくてしてるのなら、僕もだろ? それで、見えたくない! って、めちゃくちゃ思った。そしたらなんか、上手くいった」
 嬉しそうに浩太朗が言う。
 僕に幽霊を見せたくないのなら、自分も見えてはならない。そこまで慮ってくれていたことに、胸がぎゅっと締めつけられる。
「ただ、気を抜くと見えちゃうらしくてさ。高校には幽霊が一人もいなかったから、授業中は図書館でぼーっとしてたんだ。そしたら司書の一人に見えちゃったみたいで」
 入学してすぐに、高校の図書室に幽霊が出るという噂が流れた。在校中、その噂は途絶えなかったけれど、日参していた僕にはまったく見えなかった。
「あれ、浩太朗だったのか」
「そう。自分で言うのもなんだけど、見た目、普通だろ?」
 僕が最後に見た浩太朗は、不思議な角度で首を曲げて横たわっていた。けれどさきほど見た浩太朗には、おかしなところはどこにもなかった。
「なのに全身ずぶぬれとか、血がしたたり落ちているとか、みんな勝手なこと言って。見てもないくせにさ」
 不満げな声で言って、浩太朗が口をつぐんだ。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。けれど、そんなことはしなくていいとだけは、とにかく伝えなくてはならない。
「そんなこと、しなくていいよ」
 はっきりと言うつもりだったのに、声が震えている。
「僕がしたくてしていただけ」
 なぜ? と声に出す前に浩太朗が話し始める。
「見えなかったら、普通に暮らせるんじゃないかって思ってさ」
 はっとして、目を見開いて浩太朗を見た。例のまぶしいものを見ているようなまなざしで僕を見つめている。
 僕は言葉を失っていた。
 浩太朗は、ただ一人、僕の大変さに気づいていた。だからこそ、僕が楽に生きられるようにしてくれていたのだ。そして、さらに僕は気づいた。賢い彼はとっくに分かっているはずだ。僕が生きている間はずっと終わりなく続けなくてはならないことに。
 ぶわっと涙が溢れてきた。喉がぐぐっと鳴る。
「なんだよ、泣くなよ」と、言われても止められない。
「でも結局、高校では友達はゼロだったね。――なんか、その、ごめん」
 僕が友達を作らなかった理由が、幽霊のせいではなく自分にあると思っているのだ。誤解を解きたいけれど、上手く言葉が出てこない。いったん話を変えることにした。
「東京に向かって、在来線を乗り継いでたときもいたの?」
 話が飛んだことに首を傾げたものの、浩太朗が答えてくれる。
「――うん。バレずに、しかもお金を掛けないためにはベストの方法だったと思う。でもターミナル駅とかだと人が多くて、どれだけ避けてもバンバン人が突き抜けてくるから大変だった」
 その様子が頭に浮かんで申し訳ないことをしたなと思う。
「コンビニの前で須田社長に声を掛けられたときも?」
「もちろん。あのときがピンチのマックス。どうやって助けたらいいのか分からなくてさ。触っても人には気づいて貰えないし、物も動かせないんだもの。だからどうやって助けようかって、めちゃくちゃ焦った」
 幽霊相手だけでも大変なのに、さらに生身の人間が相手だとまったくの無力だろう。
「ごめん」
「いいよ、結果オーライだったし。でも、良い人たちでツイてたね」
「――うん。本当にツイてた」
 洟をすすり上げながら同意する。
「頭島さんが秋定さんに飛び掛かってぼっこぼこにしたときは怖くて逃げちゃったんだけど、やっぱり心配でまた戻ったんだ」
「じゃぁ、仕事中もずっとそばにいたの?」
「最初のうちはね。でも仕事中は、みんなあまり寄ってこないんだよ。なんでだろって思って見ているうちに分かったんだ。頭島さんの半径五メートルくらいかな? その中には誰も来ないんだよ。頭島さんの周りはぐるっとバリアとか結界みたいになっていて、その中には誰も入らないんだ。――って言うより、避けてる」
 僕に言わせれば、幽霊はいつでもどこにでもいる。なのになぜ頭島さんにぶつからないのかの謎が解けた。幽霊たちは危険を感じて避けていたのだ。これはあとで必ず伝えなくてはと思う。
「一緒の時は大丈夫そうなんで、一人のときだけそばにいたんだけど、アパートは例の一件の効果なのか幽霊は誰も来ないし、行き帰りは奥さんの送迎で頭島さんも一緒だし。どうしようかなって考えていたら幽霊退治が始まって。奥さんの頼みだもの、断れないのは分かったいたから心配だった。ただ頭島さんがいたから、とにかく様子を見ることにしたんだよ。ところで藤谷さんのタンスって結局なんだったの?」
 近くにいたのなら見ているはずだと不思議に思っていると、「幽霊を見る気満々だったから、念ために離れてた」と、謎を明かしてくれた。
「小さな男の子がいて、出たり入ったりしていたんだ。ほかに行くところがあるか聞いたんだけれど、何も答えなかったんで、このままここにいてもいいけれど、藤谷さんの家族に迷惑を掛けちゃダメだって言ったんだ。最後は約束してくれて、ありがとうってお礼も言ってくれた」
 夜中にタンスのドアを開けたりして藤谷さんに迷惑をかけるのなら、怖いお兄さんがまた来ると脅した部分は伏せることにする。
 これまでもずっとミラー越しの奥さんの視線を感じていた。でも、今回は一層強く感じる。この話もまた、改めてきちんとしなくてはならない。
「そうだったんだ。次のシェアハウスは隣のおばさんが犯人で幽霊はいなかったんだよね」
「シェアハウス杉村にも幽霊はいたよ。家の中に入ったら、キッチンにおばさんがいた。住人は誰一人気づいていないし、問題もなさそうだから誰にも言わなかった」
 我慢できなくなったのだろう。奥さんが振り向きかける。頭島さんが右手で奥さんの肩を押さえた。慌てて奥さんが姿勢を戻す。
「そのあとのマンションも無事に解決して、それで思ったんだ。もう大丈夫かもって。だから会いに行ったんだ」
 やはり、あれは夢ではなかったのだ。
「本当は、あのまま出ていこう思ってたんだ。でも、秋定さんがいてさ。殴られたのがよっぽど怖かったみたいで、部屋には入れずにアパートの近くにずっと立っていたんだよ。それで話を聞いたんだ」
 秋定さんが再び現れたのは、やはり浩太朗と話したからだった。
「でも、あのときもいなかったよね?」
「光希に気づかれたくなかったからね。秋定さん、本当に感謝してたよ」
「ライブ会場に行くって言ってたけど」
「秋葉原の地下アイドルがしょっちゅうコンサートしているライブ会場に行くって言ってた。向かう足取りがスキップしそうな勢いだった」
 秋定さんだけでなく、これまで出会った幽霊の全員が、好きなところで楽しく過ごしていると良いと僕は心から願う。
「四件目を解決し終えたら、またすぐに五件目が来て。光希の恩人の須田社長の依頼だったし、これは見届けなくちゃって思ったんだよ。無事に解決できて本当に良かったね」
 浩太朗は僕を見てふにゃりと笑うと「思ったんだ。奥さんや頭島さん、それに須田社長や会社の人たちと一緒なら大丈夫だって。――って言うか、もうゲット・ア・ライフでいいんじゃない?」
 奥さんが教えてくれた言葉だ。ある作品では「ヒマかっ!」、別な作品では「ちゃんと生きろ!」と訳されていた言葉だと聞いた。
「もう自活できてるし、離籍もした。素敵な先輩たちもいる。だからさ、お母さんはもういいよ」
 とつぜん母親のことを持ち出された。しかも僕が母親に執着しているかのような言いっぷりだ。これには「なんだよ、それ!」と、強く言い返す。
「思い出したり考えたりするってことは、お母さんが頭の中にいるからだよ」
「あんなことをされたら」
「考えるだけ時間の無駄だ」
 食ってかかろうとしたところをぴしりと言い返される。
「時間は有効に使わないとね。人生、何があるか分からないんだから」
 浩太朗が言うことだけに重みが違う。
「ゲット・ア・ライフには、ヒマかっ! と、ちゃんと生きろの二つの意味があるって奥さんが言っていたのを聞いて、驚いたんだよね。だって、僕の観た映画では違ったから」
 浩太朗がまっすぐに僕の目を見て口を開く。
「人生を取り戻せ! って、なってたんだ」
 驚いて話し続ける浩太朗をまじまじと見る。
「ストーリーによって解釈が違うのだろうけれど、どれも正しいと思うんだ。人生を無駄にしないで、ちゃんと生きろってことだもの」
 涙が頬を滑り落ちていく。でも拭わない。
「いつまでも嫌なことや辛いことに囚われていて欲しくない。これから先は、楽しく暮らして欲しいんだ」
 聞こえる声は穏やかだ。でも、浩太朗の目は必死だった。
 母親を恨み、浩太朗の死を悔やんで人生を黒く塗りつぶすような生き方をして欲しくない。それが僕への浩太朗の望みで、だからこそ幽霊を追い払い、守り続けてくれたのだ。
 そうなると、言うべき答えは一つだけだ。小太郎を見送った凜ちゃんの勇気を思いだす。僕は一つ息を大きく吐いた。
「わかった。そうする。今まで本当にありがとう。だから、――もういいよ」
「ホント?」
 疑りの表情で浩太朗が僕を見る。でも、その目は真っ赤で、今にも涙が零れ落ちそうだ。
 僕の気持ちを分かってくれている。そう気づいたら、もうダメだった。涙が止まらない。それでも「本当だよ」と、言い返して、「守護霊なんて柄じゃないのに、何やってんだか」と、あえて憎まれ口をたたく。
「守護霊って。――そっか、僕、守護霊やってたんだね。ホント、柄じゃないや」
 浩太朗はムッとしたものの、すぐに納得して、へへへっと声を上げて笑った。
「僕も浩太朗に、これからは楽しく暮らして貰いたい。だから、もういいよ」
「分かった。じゃぁ、行くね」
 そういうと、ふにゃりとした笑顔を見せた。これでお別れだ。最後に見せるのが泣き顔なのは嫌だと、両手で素早く涙をぬぐう。
 拭い終えて隣を見ると浩太朗は消えていた。あっけなさに呆然としていると、「ごめん、二人に伝えてくれる?」と、窓の外から浩太朗の声が聞こえた。
「すみません、降ります」と声をかけて、外に出る。
 運転席の横に立つ浩太朗の前にきて、背の高さの違いに驚く。車内でも、座高は僕より低いなとは思っていた。でもこうして立つと、頭二つ浩太朗の方が背が低い。
「チビって思っただろ、今」
 他人から自分へのマイナスな思考を見抜くことに長けているのは今も変わっていなかった。
 嘘は通用しないと知っているので、「うん」と正直に認める。
「まぁ、事実だからしかたないか。――そんなことより」
 しぶしぶ認めてから、改まって話し出す。
「光希と仲良くしてくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。――って、伝えて」
 気持ちは分かるけれど、それを僕が言うのは何かが違う気がするけれど、浩太朗の望みなのだから伝えることにする。
 運転席の窓をノックすると、すぐにウィンドウが下り始めた。
「今までずっと後ろに僕の友達の浩太朗がいて。色々話して、もう行くことになったんですけれど、二人に伝えて欲しいことがあるって言われて」
「降りる」
 奥さんが口を開く前に頭島さんはそう言って車から降りた。
 頭島さんの周りにはバリアだか結界だかがあって、その中に幽霊はおらず、皆避けていると浩太朗は言っていた。ならば近づかれては困る。
「頭島さん、そこで止まって!」
 僕の声に頭島さんがぴたりと足を止めた。
「何がどうした?」
 車から降りかけた奥さんも、なぜか動きを止めている。
「奥さんは大丈夫ですけれど、頭島さんはそこにいて下さい」と言うと、「車内で平気だったんだから、平気だよ」と言いながら浩太朗が僕の横を過ぎて頭島さんに近づいていく。
 確かにそうだったけれど、それでもはらはらしながら見守っていると、そのまま浩太朗が近づいていき、頭島さんのすぐ隣に立った。だが、別に何も起こらない。
「ほら、平気だろ?」と、にこにこ笑って浩太朗が戻ってくるのを見て、僕は安堵の息を吐いた。そして改めて二人に「僕の友人の浩太朗が二人に話したいことがあると言っているので聞いてください」と頼んだ。
「ちょっと待ってくれ」
 再び動き始めた奥さんが、なぜか両手で髪型を整えてから深呼吸する。何をしているのだろうと見ていると、僕に向き直った。
「俺、馬鹿だからよ、細かいところまではわかんねぇんだけどよ。でも、光希が言っているのを聞いて、だいたいのところはつかめたと思う。浩太朗ってダチが行くんだろ?」
 真剣なまなざしで奥さんに言われて、僕は頷く。
「光希をずっと守ってくれてたんだろ? そんな立派なダチに会うのにおかしな髪型じゃみっともないからよ。ちょっとましになったか?」
 無造作に伸びた金髪のニュアンスパーマの正解が分からない。でも、きちんと身なりを整えてくれたその気持ちが嬉しくて「大丈夫です」と答える。
「じゃぁ、頼むわ」と奥さんが言うのに、「ほんっと、良い人だね、僕、奥さんのこと大好きだよ」と浩太朗の声が重なる。
「アパートを貸してくれて、送り迎えもしてくれて、食事だけじゃなくて、光希の生活全般の面倒も見てくれて、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします」 
 これを僕が言うのかとは思ったけれど、一言一句間違えないように伝える。
 無言で聞き終えた奥さんが「そんなのお安い御用だ。ふつつかながら奥隼人、浩太朗さんの代わりに精一杯、桧山光希君の面倒を見させてもらいます」と言って、誰もいないところに向かって深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 浩太朗も奥さんに深く頭を下げる。
 感動的なシーンなのだけれど、あらぬところに真剣な顔で頭を下げている姿が滑稽さを醸しだす。
「次は頭島さんに伝えて。これからも光希をよろしくお願いします。特に幽霊から守ってあげてください、って。――あと、幽霊を殴るときは、もう少し手加減して欲しいって。もちろん、そいつが悪い奴のときは、ボッコボコにしていいからって」
 僕のことを頼んだあとに、幽霊全般への配慮をお願いしつつも、悪い奴ならボコボコにして良いとさらりと加えるころが実に彼らしい。これも一言も間違ないように、そのままに僕は伝えた。聞き終えた頭島さんが「わかった、約束する」とだけ言って、頭を下げた。頭を戻してから「試していいか?」と、僕に訊ねる。僕が返事をする前に、頭島さんがゆっくりと手を伸ばし始めた。近づいてくる手を浩太朗が無言で見つめている。
 僕が首をかしげてみせると、浩太朗が頷いた。了承したと受け止めて、「もう少し右です」と頭島さんの手をガイドする。ゆっくりと伸ばされる頭島さんの指先が、浩太朗の肩に触れた。
 びっくりして浩太朗が目を見開いたのと、「いる」と頭島さんが言ったのは同時だった。
「左の肩です」と僕が説明したそのとき、頭島さんが大きく一歩、右に向かって足を踏み出した。そのまま身を屈めて両腕を広げ、浩太朗を抱きしめる。
 驚いた浩太朗が固まっている。
「今までよく頑張ってくれた。本当にありがとう」
 頭島さんは腕にぎゅっと力を込めて、さらに浩太朗を抱きしめた。
「苦しいよ」
 なんとかそれだけ言うと、浩太朗は「――でも、あったかいや」と続けた。まぶしそうなものを見るような笑顔が、今は泣きだしそうだ。
「もう行くから離してって言って」
 浩太朗の言葉を伝えると、すぐに頭島さんが腕をほどいた。
「じゃぁ、またね」
 そう言って、浩太朗はくるりと背を向けて歩き出した。
 どこに行くのかは訊かなかった。訊いたら、会いに行きたくなってしまうからだ。これから浩太朗には、自由に楽しく幸せに過ごして貰いたい。それだけが僕のたった一つの望みだ。
「またな!」とその背に向かって僕が叫ぶと浩太朗は手を上げて、こちらを振り向かずに手を振った。そしてそのまま数歩進むと、空気の中に溶けるように消えてしまった。
「お前のダチの浩太朗、最高だな」
 奥さんが僕の視線の先を見てそう呟いた。
「ええ、あいつは最高のダチです。これからもずっと」
 僕の答えを聞いた奥さんが「浩太朗との約束、俺は絶対に守る。男と男の約束だからな。――よーし、今晩何を食いたいか光希が決めろ。もちろん俺の奢りだぁっ!」と宣言して、運転席に乗り込んだ。
 気持ちは嬉しいけれど、まだまったくお腹は空いていない。スマートフォンで時刻を確認すると午後三時二十七分だった。笹山家を出てから一時間も経っていない。浩太朗との別れは時間にしたら長くはない。でも、濃密な時間だったなと思いながら、僕も後部座席に乗り込んだ。もちろん頭島さんはすでに助手席に収まっていた。
「そんじゃ、いったん帰るぞ。そんで光希、飯はどうする? 寿司って気分じゃねぇか。ここはガッツリ焼肉か、いやステーキとかどうだ? そうだ、荻原さんのところに行くって手もあるぞ。もちろん、違うのでもいい。好きなの言いな」
 気の早い奥さんが次々に夕食の提案をして、なににするかを迫ってきたが、まだお腹も空いていないし答えられない。でも何か答えなくてはと焦って「すみません、もう少しあとでもいいですか? まだお腹が空いていないくて」と言う。
「そっか。じゃあ、決まったら言ってくれ」
 気を悪くした様子がないのに安心して、僕は隣の席に目を向けた。ちょっと前までここには浩太朗がいた。でも今はもういない。
 別れ際、「じゃぁ、またね」と彼は言った。
 その「またね」はいつなのだろう。どれくらい先かは分からない。僕が生涯を終えたときなのか、それとも秋定さんのようにひょいっとまた現れるのか。それは分からない。でもどちらにしても大歓迎だ。
 ただ、再会したそのときに、「何してんだよ!」と、浩太朗に怒られるのは避けたい。そのために、これから僕はしっかりと楽しく生きていこう。
 Get a Life!
 僕の人生はこれからだ。

 

(了)