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(承前)

 中学三年生の三学期が始まったとき、小学六年生の夏休み明けの悪夢が再来した。そのころには僕は母親の商売にはほとんど加担していなかった。でもどうしても断れない例外もあった。母の姉、僕にとっては伯母からの相談だ。母と伯母の仲は良くない。母親と違って伯母は倫理観のあるしっかりした人なので、気が合わないのはとうぜんだろう。本来ならば伯母は母親と没交渉にしたかったはずだ。けれど、僕のことは案じてくれていて、お年玉やお盆のお墓参りの時にはお小遣いもくれた。
 その伯母から、旦那さんの弟夫婦が購入した中古物件で怪奇現象が起こって困っていると相談を受けたのだ。お世話になっている伯母の頼みだけに、さすがに断れず僕は引き受けることにした。
 広島市内のその家で起きていた怪奇現象は、昼夜問わず誰かの気配を感じる、足音らしき音が聞こえる、閉めたトイレのドアが開いている、トイレに入っていると誰かが開けようとする、などだった。
 実際に訪れて、怪奇現象を起こしていたのは元の住人のお婆さんだとすぐにわかった。病院で最期を迎えたお婆さんはどうしても自宅に帰りたいと望んでいた。そして気が付いたら自宅に戻っていたという。トイレのドアを開ける理由は、存命時に中に入っていた時に鍵が壊れて閉じ込められ、外に出るのに苦労したから、もしものために常に少しあけておく習慣がついていたせいだった。お婆さんは今の住人を案じて良かれと思ってしていたのだ。
 義弟夫婦とお婆さん双方の言い分を僕を通して交換した。ありがたいことにお婆さんは話が分かる人だった。最終的に、庭の柚子の木だけは手を触れずに残すことを条件に、隣町のご実家に行ってくれることになった。それで怪奇現象は起こらなくなり、無事に解決となった。
 伯母は、僕に迷惑をかけまいと、義弟夫婦に今回の話は他言無用と固く口留めをした。けれどけっきょく話は漏れた。その家の隣の住人がクラスのボス猿グループの親戚だったからだ。
 隣人はその家が売り家のときに、空き家なのに窓に人影が見えたり、家の中から物音が聞こえるなどの怪奇現象を体験していたのだ。なので義弟夫婦の引っ越し後、怪奇現象に悩まされていると立ち話で聞かされても驚かなかった。だけでなく、その話を伏せていたのなら不動産屋に責任があると、交渉するようアドバイスもしてくれた。それだけに問題が解決して喜んだ義弟夫婦は今まで相談に乗ってもらっていた隣人に、つい話してしまったのだ。お正月にクラスメイトが親戚のその家に集まったときにその話が披露されて、あとは言わずもがなだ。
 三学期が始まってすぐにボス猿グループに詰め寄られた。小学校六年生の二学期の悪夢がよみがえって目の前が真っ暗になった僕は、とにかく相手にしないと無視を決め込んだ。すると矛先は僕と一緒にいる浩太朗に向いた。浩太朗も僕と同じく無視をし続けてくれた。僕たちから何も答えを得られず、話を流布したボス猿グループが周囲から嘘つき呼ばわりされ始めて、彼らはあわてて僕のことを調べた。
 SNSは便利だけれど恐ろしい。ボス猿たちはネット上で簡単に僕の小学校の同級生を見つけ出した。そして僕と母親が詐欺まがいの商売をしていると認識されているのを知った。とうぜんそれを一気に拡散させた。
 それからは地獄だった。小学校の時は二学期と三学期の半年を耐えなくてはならなかったけれど、今回は三学期だけだ。中高一貫の私立高だけれど、そのまま進学せずに、中学の時と同じく誰も僕のことを知らない地域の高校に進学するしかない。それ以前に、進学する必要があるのだろうか? いっそのこと就職しても良いかもしれない……。
 そんなことを考えながらも、僕が最初にしたのは、浩太朗への「僕とは距離を取ってほしい」という通達だった。浩太朗は何も知らなかった。だから僕と一緒にいた。それならば浩太朗は僕に騙されていた被害者となり、一緒に誹られることはない。
 ハの字眉顔で浩太朗は僕を見つめていた。両端が思い切りへの字に下がった唇にはぐっと力が込められている。浩太朗には嫌だと思うことが多い。それを表すときの表情が、まさに今のハの字眉への字口だ。
 ただ、嫌だと言われても僕から距離を取ることは決めていた。けれど浩太朗はあっさりと、「わかった」と言った。
「ただし条件がある。あくまで人前だけ。じゃないと嫌だ」
 さすがに図々しいだろうと僕からはしなかった提案を浩太朗が言ってくれたことに心底僕はほっとした。
「――うん、ありがとう」
 そう応えたとき、図らずも涙が零れ落ちた。
「なんだよ、泣くなよ」
 そう言う浩太朗の目にも涙が盛り上がっていた。二人とも両手で顔をごしごし拭いて、そのあとごまかすように「へへへ」と声を上げて笑ったあのときが、僕の人生で今後何があろうとも、おそらく一番大切な瞬間だ。
 それからはオンライン上でのやりとりが中心になったけれど、浩太朗は親友でありつづけた。でもそれはものの二週間もたたずに終わってしまった。
 ボス猿たちのみならずクラスメイト全員から奇異の視線を浴び、詐欺師と陰口をたたかれ続けること、さらには被害者として祭り上げられ、一緒に罵れとはやし立てられたことに浩太朗が切れたのだ。
「いい加減にしろよ! この中に誰か一人でも光希とお母さんに騙された奴がいるのか? なんの迷惑もかけられていないのに正義面すんな! お前たちのしていることはただのイジメだ!」
 騒然となった教室内で、浩太朗はさらに足音を立てて地団駄を踏みながら大声で怒鳴り続けた。
「僕をお前たちの共犯者にしようとすんな! 僕はそんなの絶対に嫌だ!  やだやだやだやだ!  絶対に嫌だっ!」
 日頃、浩太朗は言葉数が少なく、しゃべり方もぼそぼそとつぶやくようで声も小さい。けれど、それは見せかけだ。ここぞというときに大声を出して、癇癪を起したように大暴れすると効果があると分かっているから、あえていつもは抑えているのだ。
「喧嘩をするときは、落としどころを最初に考えるようにしているんだ」
 親友になってあとの夏休みのある日に、公園のベンチでまぶしいものを見るように目を細めて浩太朗は喧嘩の持論を語ってくれた。
「そもそも僕は自分から喧嘩はしない。ふっかけてくるのはいつも向こうでさ。なぜかいつも皆、僕が嫌だなと思う状況に僕を追い込もうとしてくるんだよ。そうなったら、戦うしかないし、絶対に負けられない」
 そしてたどり着いた必勝法が自分が被害者で相手が加害者だと周囲に知らしめることだという。なかなかの戦法だなと感心していると、浩太朗はさらに続けた。
「卑怯とか、姑息っていうやつもいるだろうけど」
「被害者側に正当性があるから成功する戦法なんだから、卑怯でも姑息でもないよ」
 自分を卑下する浩太朗を遮った僕に、「でも、たまに正当性がなくても被害者面して自分の意見を通しちゃうときもある。ほぼ親になんだけどさ」と言って浩太朗が情けなさそうな顔で、へへへっと笑った。その表情から、悪いと自覚しているのは十分に伝わってきた。
「とんだクズ野郎だ」
 笑いながらそう言って指で肩のあたりをつつくと、「うん、本当にとんだクズ野郎なんだよ、僕」と、浩太朗も言って二人で笑ったのを、僕ははっきりと覚えている。
 今回も効果はてきめんだった。イジメの加害者だと指摘され、自分たちの分の悪さに気づいた聡い女王蜂グループが、すぐさま手のひらを返して謝罪したのだ。それで一気に流れが変わった。ただ話を完全に収めるためには、さすがに僕が何も話さないわけにはいかなかった。
 しかたなく、幽霊が見えたり、話をすることができるときもあること、それを母親に利用されてきて、それが嫌でたまらないこと、だから中学に入ってからは誰にも話していなかったことを簡潔に伝えた。
 スピリチュアル的なことを尊ぶ人は結構いる。今まで、それをうっとうしく思うときの方が圧倒的に多かった。でも、女王蜂グループがスピリチュアル好きだった今回だけは、本当に運が良かった。「大変ね」「今まで辛かったね」と、僕に同情を寄せ始めたのだ。
 その日を境に、クラスメイトからの僕に対するイジメは終わった。平穏な学校生活を取り戻したのはもちろん、何より浩太朗との友情を隠さずに済むようになったのが本当にうれしかった。それもこれも、すべては浩太朗のお蔭だ。親友の賢さに僕は心底感謝していた。けれど、これが後々の悲劇の引き金になるだなんて、その時の僕には知りようもなかった。
 数か月後に卒業して、そのまま浩太朗と仲良く高校に進学できる。その未来が確実に来ると信じていた一月二十九日のことだ。ボス猿たちから、幽霊が出ると評判の廃屋を一緒に見に行ってほしいと頼まれた。正直、引き受けたくはなかった。面倒なことになりそうなのは分かっていたからだ。けれど浩太朗に「どうして嫌なのか、きちんと説明してあげたら?」と言われて、とりあえず説明をした。
 見えなかったとしても、僕に見えないだけで何かがいる可能性はある。その見えない何かが誰かに何か悪さをしても自分にはどうしようもない。見えたとして、見えない皆に説明するのは難しい。見えないからと勝手な行動をして、相手を怒らせてしまったら、見えている自分に詰め寄られるのも迷惑だ――。
 一連の説明を聞いたボス猿たちは一応、納得はした。でも諦めようとはせずに、「見に行くだけだから。見えたら入らないから」と粘った。
 やはり断った方がと思ったけれど、気を変えたのは、浩太朗が「一度くらい付き合ってあげてもいいんじゃない?」と言ったからだ。これだけ浩太朗が勧めてくるのなら、何か勝算があってのことだろうと僕は了承した。
 浩太朗は僕にそうするように言った理由を廃屋に行く道中にこっそりと教えてくれた。イジメは一応手打ちにはなったけれど、高校生活を考えると少しは相手に譲った方が得策だと思ったのと、一度行って何も見えなかったら、そんなものかと諦めて、その先は誘わなくなるかもしれないという二つだった。なるほど、一理あるなと思った僕はこれが最後になるようにと願いながら、皆と一緒に廃屋へと向かった。
 向かったのは、学校からバスで四つ先にある個人経営の内科の廃病院だった。人の生死に関わる病院と幽霊話はつきものだ。まして廃病院ともなるとなおさらだ。その廃病院の存在は僕も知っていた。でも行ったことはない。
 幽霊なんて見たくも会いたくもないのに、依頼されてもいないのに幽霊がいるかもしれないという場所にわざわざ行きはしない。バスの中、遠足気分で盛り上がるボス猿たちを横目に、僕の気持ちはやはり引き受けなければよかったかもと、沈んでいた。
 本当に幽霊がいたとして、見えていると気づいた幽霊が僕に押し寄せてくる可能性は高い。一人ならばまだどうにかなるかもしれないけれど、病院ともなると複数の可能性もある。それに好意的な幽霊ばかりとは限らない。当人は見えも感じもしていなくとも、僕には幽霊が誰かにつきまとって、恐ろしい顔で恨みや呪い、罵詈雑言を浴びせ続けるのは見える。
 自分ではないし、つきまとわれている本人に影響がなさそうならば、そのまま放っておいていた。でも、見続けるのは気持ちのよいものではない。
 こそっと「やっぱり、止める?」と浩太朗に訊かれた。でも降りるバス停についてしまった今、ここで止めるとは言い出せなかった。
 バスを降りてもう一度、そこにいる全員に忠告をした。まず敷地の外から見て、その時点で幽霊が見えたら敷地内に入らない。外にいなかったら建物の近くまで行き、また外から見て中にいたら入らない――。
 明らかに話半分なボス猿たちに、「そもそも、他人の土地と建物に入ること自体、不法侵入なんだから。誰かに通報されたら捕まる。みんな、そんな馬鹿なことはしないよな」と、淡々と浩太朗が言った。
 現実的な指摘に、ようやく「勝手なことはしない」と、その場の全員が約束した。
 病院の外で目を閉じて、全神経を集中させる。何も感じない。安堵して「いないみたい」と伝えると、ボス猿たちは失望した声を上げて、「それじゃ、中に入ろう」と、脇道のフェンスが壊れた隙間からさっさと敷地内に入っていった。仕方なく浩太朗と僕も後に続いた。
 二十年以上前に廃業した病院の建物は古い木造の三階建てで、もとは白かったはずの壁は風雪に汚れて灰色に変色していて、窓ガラスは何か所も割れていた。
「ホラーのゲームとか漫画に出てくるまんまだな」
「今はまだ明るいからいいけど、夜だったらとんでもなく怖いよな」
 ボス猿たちの楽しそうな声を聞きながら、僕は全神経をまた集中させた。でもやはり何も感じない。覚悟を決めて、出入り口の割れたガラス戸から、一人先に中に入った。どれだけあたりを見回しても、何も感じないし、何も見えない。ほっとして、「誰もいないよ」と皆に伝えた。
「なんだ、ただの噂だったのか」
 明らかにがっかりしながらボス猿たちが建物内に入ってきた。
「病院って、そういう話になりやすいしな」
「人が勝手に入らないように、そういう噂をわざと流してるって話、聞いたことがある」
 壁にはスプレーで、アートとはさすがに言えない何かのマークや、「××参上!」という古臭い署名がいくつも書いてあり、床の上には誰かの飲食したごみも落ちていた。そういう噂があるから、確かめてやろうと入り込む輩もいるだけに、その手はあまり有効ではないのでは? と僕は思う。
 幽霊はいなそうで安心はしたけれど、不法侵入をしていることには違いない。「そろそろ出ようよ」と、声をかけると、「せっかく来たんだから、もうちょっと見てくる」とボス猿たちに断られてしまった。
 敷地内から出なければ不法侵入には変わりはない。でもせめて建物内からは出ようと、僕は一足先に建物から外に出た。浩太朗も一緒に出てくるとばかり思っていた。けれど「浩太朗、二階を見に行こうぜ!」と、ボス猿の一人に誘われてついて行ってしまった。幽霊はいなそうだし、まぁ大丈夫かと僕は思って、そのままにした。
 ここから先は、これまで何度も僕の頭の中で再現してきた音と光景になる。廃病院の二階の床は経年で腐っていたのだ。それに気づかずに浩太朗は進んでしまった。重みで床が崩れ落ち、そのまま浩太朗は階下に落ちた。建物内に駆け込んだ僕が見たのは、物が乱雑に積まれたうえに不思議な角度で首を曲げて横たわる彼の姿だった。
 浩太朗が搬送された病院の受付ロビーで僕はずっと考えていた。
 幽霊が見えたと嘘をついて、建物内には入るなと言っていたら。それ以前に、絶対に嫌だと廃病院行きをを断っていたら、こんなことにならなかったと、考えはどんどん過去にさかのぼっていく。三学期が始まって、僕の過去がバレたときに、ちゃんと浩太朗と絶縁していれば。それ以前に、僕と仲良くなっていなければ。そうしたら、こんなことにはなっていなかった――。
 お願いだから、僕のたった一人の友達を助けて。僕は浩太朗の無事をひたすら祈り続けた。けれど、望みはかなわなかった。夜の九時過ぎにロビーに現れた浩太朗の父親の表情で僕は悟った。
 あの日、僕はたった一人の親友を失った。そして幽霊も見えなくなった。

 

(つづく)