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 須田社長の運転で社に向かう車中、これから待ち受けるであろうことに向けて心の準備をする。雇用契約書の作成は社長と僕の二人でできる。なのに社長が「みんなが揃っている終業ミーティングでしよう」としたからには、ただ全社員の前で契約書に署名捺印し、皆からの拍手で終わるとは思えない。おそらく何かしらのサプライズがあるはずだ。
 サプライズに見合うリアクションとはどの程度のものなのだろう? 大仰だと白々しいし、かといって喜びや驚きが薄いと失望させてしまうだろう。そんなことをつらつら考えていて、僕は気づいた。これは僕の人生で初のサプライズになるのだと。能力と母親のせいで小学生時代、僕には友人はほとんどいなかった。中学に進学して親友ができた。けれど中学三年生で彼を失ってからはまた友人ゼロに戻り今に至る僕には、する側、される側ともにサプライズの経験はない。
 とたんに緊張し始めた。準備をしてくれた皆のためにも自分のためにも最高のものにしたい。だが、今までしたことがないだけにどうしたら良いのか分からない。こんなとき奥さんだったら、「マジで? ガチで嬉しい!」と喜びを爆発させるだろう。マネをするのがベストだと思うけど、上手くできる自信がないし、そもそもいつもの僕は絶対にしないだけに、皆に嘘だと見抜かれてしまうに違いない。あれこれ考えているうちに社についてしまった。
 駐車場には会社のトラックがあらかた止められていた。「もう、みんな戻ってんな」
 言いながら、社長が空いている場所に車を切り返しなしで一発で止めた。社長も奥さんも運転がうまい。感心していると、車から降りる前に「光希は運転免許はどうする?」と社長に訊かれた。
「取りたいです」
「だよな。教習所を決めたら教えてくれ。半額補助するから」
「ありがとうございます」 
「まずは普通免許だろうけれど、大型とか重機の免許も取りたければ取るといい。仕事の幅が広がれば、いずれ転職を考えたときに役に立つしな」
 雇用契約を結ぶ前に転職に向けての資格取得を勧められて反応に困っていると、社長が僕の方へ顔を向けた。あわてて僕も社長の顔を見る。
「足場工事の現場は体力的に生涯現役でいるのは難しい。だからきちんとその先のことを考えて貰いたい。俺にできる限りのサポートはする。ただ人生をどう選ぶかは自分で決めないとな」
 真摯な表情で言われた言葉には重みがあった。でも、人生をどう選ぶかと今言われても、先のことなんて僕には何も思い浮かばない。
「まぁ、今言われても答えようがないのかもしれないけれど、一年後にまた聞くから」
 そう言って、社長が先に車を降りた。
 一年後にまた尋ねられた時に、僕は人生の方向性とか目標とかができているのだろうか? ぼんやりとそんなことを考え始めて、一年後にまた同じことを訊ねる、つまり一年後の予定が出来たことに気づいた。
 中学三年の一月にたった一人の親友を失ってからずっと、母親から逃れて十八歳の誕生日に分籍届を提出することだけを考えて僕は生きていた。つまりは、そこまでしか考えておらず、その先のことなどまったく考えていなかった。それだけに一年先の予定が決まったことがとても嬉しい。
 社長の後に続いて職場に入ると、六名の全社員が揃っていた。皆、何でもないといった顔で室内にいたけれど、奥さんと頭島さんが流し台を隠すように立っていたり、何より油とニンニクの混じった美味しそうな匂いがうっすらだけれど室内に漂っていた。やはりサプライズだ。でも、ここは気づかない風を装って、社長に続いて応接セットに向かう。
 雇用に必要な書類数枚に署名捺印を終えるのにさほどの時間は掛からなかった。作業としては、区役所での分籍届の提出と同じだ。でも実際は全く違った。全社員の視線を集める中でだから妙に緊張する。
 すべてを書き終えると、社長が記入漏れがないか確認してくれた。
「これで光希は須田SAFETY STEPの正式な一員だ。みんな、よろしくな」  
 社員みんなに向かって社長が言うと、拍手が沸き起こり、さらに「おめでとう」とか「これからもよろしくな」という祝辞や温かい言葉が僕にかけられる。僕は立ち上がって、「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」と言って、室内の全方向に向けて順次頭を下げた。
「そんじゃ、お祝いだ!」
 奥さんと頭島さんが背後の流し台からオードブルの盛り合わせと、山盛りの唐揚げが載ったアルミ製の大きな皿を持ってきて、応接セットのテーブルの上に置く。さらに寿司桶が四つ持ってこられたので、どうやってすべて置こうか迷っている。どうにか収まりがついたころには、冷蔵庫から取り出された缶やペットボトルの飲み物がバケツリレーのように回されて皆の手に渡っていた。
「では改めて。桧山光希君、入社おめでとう! これからもよろしく!」
 社長の乾杯の発声で、皆が手にした飲み物を合わせて僕の入社祝いの会が始まった。
 社の全員がマイカーか誰かに同乗しての車通勤なので、アルコールがなかったこともあるけれど、それ以前に業務が終わったらだらだらと職場に留まらないという社長の経営方針もあって、入社祝いの会は一時間くらいでお開きとなった。
 片づけを申し出ると、僕を車で送るからと、奥さんと頭島さんも手伝ってくれることになった。帰宅する各人に改めてお礼を伝えながら送り出す。
 サプライズは入社祝いの会だけではなかった。社員のそれぞれがお祝いとして、タオルやTシャツや靴下や冬用の温かい下着など実用的な物をくれたのだ。皆の心遣いが嬉しくて、僕にできる限りの感謝を表したつもりだ。でもやはり喜びのリアクションとしては足りていないような気がする。なんだか申し訳ないなと思いながら寿司桶を洗っていると、「光希、それが終わったら、ちょっといいか?」と、社長に声を掛けられた。
「はい」と答えて、早々に寿司桶を洗い終えて応接セットに戻る。ソファにはすでに社長と、対面に奥さんと頭島さんが並んで座っていた。いったい何だろうと思いながら、僕は奥さんの左隣に腰かける。
 社長はどう話そうか迷っているのか、すぐには切り出さなかった。社長はいつも端的に話をする人だ。それだけにこれから聞かされる内容に不安と緊張を覚える。
「実は、俺個人から三人に頼みごとがあるんだ。もちろん断ってくれ――」
「やります! やるに決まってんじゃないっすか!」
 社長が最後まで言い終える前に、奥さんがもう引き受けていた。僕も頭島さんももちろん否はなく、「やらせていただきます」「やります」と、即答していた。

「三人が色々と相談を受けて、解決している話は俺も聞いていてる」
 これまで僕たちが手掛けたのは、どれも奥さんのところに個人的に話が来て引き受けたものだ。ただ最初の藤谷家は竹本工務店の裕二さんから、二番目のシェアハウス杉村は芝電設の湯沢さんからだったこともあり、事の顛末は二人から社長の耳にも入っているようだった。
 そのあとの二つは須田SAFETY STEPとは関係なく、奥さんの彼女のアヤさんからと、奥さん行きつけの居酒屋・篠井のアルバイトの栞奈さんからだった。この二件は、奥さん自ら社長にこんなことがあったと伝えていた。つまり社長はこれまで僕たち三人の解決活動のすべてを知っていた。
 この切り出しならば、そっち系の相談だ。まさか社長からとはと驚きつつも、社長の頼みならば是が非でも解決したいと思う。
「正直、今まで三人が乗ってきたのと話が違うって言うのか、別モノなんじゃねぇかって俺は思っているんだけどな」
「なんでも言ってください!」
 またもや最後まで言い終える前に奥さんが口を挟んだ。
「ありがとう」
 お礼を言うと、社長はいつも以上に静かな口調で話し出した。
「凜なんだけれど」
「凜ちゃんは社長のお姉さんの一人娘で、小学校六年生のすっげぇ可愛い子なんだよ。今年のバーベキューは来なくて、俺もアヤも会えなくてがっかりしてさ」
 須田SAFETY STEPではどちらも費用は会社持ちで、しかも参加は自由の年に一度の社員旅行と月に一度のお疲れ様会がある。そのうえさらに社長主催の社員の家族や交際相手も参加可能なバーベキュー会が八月に開かれる。夏のバーベキュー会には僕も参加した。ここまでしてくれる会社はなかなかないと思って、社長にお礼を言った。
「社員の家族の顔が浮かべば、絶対に怪我なくきちんと仕事をして、しっかり稼いでもらおうと改めて思える。だから年に一度はできれば社員の家族にも会いたくてしているんだ。まぁ、俺の自己満足だ。だから感謝とかいらねぇよ。――って、これも武本社長の受け売りだけどな」 
 照れくさそうに社長はそう言うと、最後にあの男前スマイルを見せてくれた。
 この会話があの日の一番の思い出だけれど、奥さんやアヤさんだけでなく社員のみんなが、社長のお姉さんの家族が来ないと知って残念がっていたのを思い出す。
「凜ちゃんがどうし――されたんですか?」
 途中で気づいた頭島さんが丁寧に言い直した。それを見逃さなかった社長は、男前スマイルを見せてから話し始める。
「九月の二十日過ぎから家ではほとんどしゃべらなくなって、飯もおやつもあまり食べられなくなっちまって、すっかり元気を失くしちまっているんだって」
 ショックを受けたのか、今度は奥さんもすぐに口を開かなかった。
「姉ちゃんが言うには、クラスで飼っていたハムスターが死んだせいらしいんだ」
「えっ? コタロウが?」
 コタロウが浩太朗と聞こえてどきりとする。
「小さい太郎で小太郎だ」
 頭島さんが付け足してくれたことで、違うと分かってほっとした。
「凜ちゃん、小太郎が大好きだったから、落ち込んじゃったんですかね?」
「だとは思うけれど、ただ、それだけでもなさそうなんだよ」
 気の毒そうな奥さんの表情が、社長の言葉で一気に引き締まった。
「二人はさておき、光希はまったく知らない話だと思うから、ちょっと説明しとくわ」
 そう前置きして社長は「凜の小学校では、五年生からクラスで動物を飼う決まりになっていて」と、僕に向けて話し始めた。
「昔は学校に飼育小屋があって、生き物係とかいたけれど、今は動物愛護の視点とか生徒のアレルギーとか教師の負担だとかで、動物の飼育をやめているところが全国的に多いんだって」
「えっ、もう飼育小屋ってねぇんだ。知らなかった」
 びっくりする奥さんの隣で、僕も驚く。
 小学校ではウサギとニワトリを飼育小屋で飼っていたし、とうぜん生き物係もあった。でもあれから六年経つし、今はどうしているのかはわからない。
「都内の学校では運動場すら土じゃないところとかもあるしな。地球温暖化で夏とかとんでもねぇ暑さになっているから、屋外で動物を飼うのは厳しいってなるのもわかる」
 家出で上京して驚いたことはいくつもある。その中の一つが、仕事で都内の現場に行ったときに目にした小学校の校庭の狭さや緑の少なさ、そして僕の出身地ではまずお目にかかったことのない立派な体育館や屋内プールが完備されていることだった。
 確かにあの校庭に飼育小屋を設けて、近年の猛暑の中で空調なしで動物を飼うには無理があると僕も思う。
「ただ、やっぱり命の大切を学ぶために生き物を飼った方が良いってことで、凜のところではクラス替えのない五年生と六年生の間、各クラスで飼うことになっている」
「やっぱ、大事っすよね、それは。命もだし、相手の怪我とか痛みとかも」
 奥さんがしみじみと吐き出すように言った。
 社長を尊敬してやまない奥さんは基本的に社長の言動にはすべて同意する。でも今回は、奥さんの体験からにじみ出ているのが伝わってきた。
「だよな。各家庭でしろって話かもしれねぇけど、家庭差もあるから、やっぱり義務教育で一律に教えた方が良いと俺も思う」と、社長が同意する。
「いざ飼うとなっても、ハードルがいくつかある。教室内で授業の邪魔にならないとか」
「鳴き声がうるさいのはやっぱダメっすよね」
「アレルギーもな」
 社長が付け足す。確かに、それも重要なポイントだ。
「あとは費用もだ。本体と飼育も含めて学校の予算を超すものは選べない。シビアだとは思うが、これもまた教育として俺は正しいと思う」
「それ! アヤがちょいちょい言うんっすよ。ペットショップで動物の価格だけ貼ってあるじゃないっすか。あれ、寿命までに掛かる平均的な総額にすればいいのにって。そしたら可愛いだけで飼いたいとか言い出す奴が減るはずだって。これ、マジでスゴくないっすか?」
「確かに」
 思わず言葉が漏れてしまった。
 ペットの販売価格に終生までの総額が併記してあったら、安易にペットを飼おうとする人は減ると思う。でもそんなことをしたら店側は商売あがったりだろうから、絶対にしないだろう。
「凜のクラスには動物アレルギーの子がいなかったんでハムスターになったんだけれど、他のクラスはメダカと亀だそうだ。カブトムシも候補に入っていたものの、カブトムシは寿命が一年だからダメになったんだって」
 一年で寿命が来てしまう生き物だと、六年生でまた新しい個体にしなければならない。五年生と六年生の二年間で面倒を見続けるというカリキュラムだから、寿命が一年の生き物は避けたということだろう。
「でも、途中で死ぬ場合もありますよね?」
 それまで黙っていた頭島さんの質問に、それもあるなと感心する。
「今回は小太郎を偲んで、四葉のクローバーの鉢植えを育てることに決まって、もう育て始めているけれど、五年生の初めの頃だったらどうしたんだろうな」
 思案する社長の顔を見ながら、逆に寿命が長い生き物の場合、卒業後はどうするのだろうと疑問を持つ。
「亀ってめちゃくちゃ長生きすんのに、卒業後はどうするんっすかね?」
 僕と同じ疑問を頭島さんが口にした。
「クラスの誰かが引き取るだろうってのは建前で、メダカや亀は学区内の神社が引き取ってくれる前提ありきなんだって。ハムスターは寿命が二年から二年半の種類で、誰も挙手しなかったら担任が引き取るってことで学校側からGOサインが出た」
 世知辛いというのではなく、責任感があると思うべきなのだろうが、やはりどこか味気なく感じる。
「ほかのクラスは知らないが、ハムスターは誰も引き取らないのなら自分がって凜が申し出ていて、クラスメイトもそれで納得していた」
「凜ちゃん、小太郎のことをすげぇ可愛がってたもんな。今年のバーベキューに来なかったのだって、小太郎を残して出かけることなんて出来ないからって理由でしたもんね」
「ああ、ちょうど小太郎のホームステイと重なってたからな。――もともと一年を通じて休みの日は有志が交代でハムスターを預かることになってて、夏休みはアレルギーのある家族のいる家や、旅行とかの日程とかも考慮して自発的に預かれる生徒が数日間交代で預かることになっていて、凜のところは一週間預かっていたんだ」
 言葉が足りないと思ったのか、社長が僕を見て説明してくれた。
 家に居させるのだからホームステイで間違っていない。でも、ハムスターとなるとやはり違う気がする。
「バーベキューなんてせいぜい二時間くらいなんだから来なよって誘ったら、ハムスターはデリケートな生き物なんだからって、すごい剣幕で叱られた」
 ハムスターはストレスに弱いだけでなく目もあまりよくない生き物なので、環境や騒音、光の明るさはもちろん、転落への注意も必要なのだという。中でも気温の管理は特に留意する必要があり、一年中、十六度から二十八度くらいを維持しければならない。さらに食べ物にも注意が必要なのだと社長が続ける。
「チョコレート、アボカド、ビワ、ドングリ、ネギ、玉ねぎ、アサガオ、チューリップ、シクラメン、スイセン、あと観葉植物もけっこうアウトなんだって」
「ネギは犬もアウトっすけど、ハムスターもっすか。植物とか穀物はなんでもイケるって思ってたんすけど、けっこうダメな物が多いんすね」
 ネズミに近い生き物だから、きっと雑食でなんでも食べるのだろうと奥さんは思っていたに違いない。僕も同じ考えだったので驚いていた。
「食べ物だけじゃなくて、殺虫剤や洗剤も、とにかく体が小さいから少量でも致命的な毒になる。私が預かっているときにもしも何かあったら大変だから、絶対に行かないって言われたよ。ハムスターに負けるのかってがっかりしたけど、責任感の強さと愛情深さからだからな」
 可愛い姪に誘いを袖にされ失望したものの、すぐに凜ちゃんの良さを社長は見直す。
「二学期になって小太郎も教室に戻った。ところが九月十四日の水曜日、死んでたんだ。見つけたのは凜だ」

 

(つづく)