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(承前)

 小太郎に会いたくて凜ちゃんは五年生からずっと、クラスで誰よりも早く登校していた。そして死んでいる小太郎を見つけてしまった。
「凜ちゃん、かわいそうに」
 心底気の毒そうな声で奥さんが言う横で、「死因はなんだったんですか?」と、頭島さんが冷静に訊ねた。
「明確なところは結局わからなかったって話だ」
 即答した社長がその先を続ける。
「ゲージの中に死因になりそうな食べ物や異物はなかったし、目に見える異変、それこそ外傷とか外から見て分かるような腫瘍や骨折もなかった」
 外的要因になりそうなものはなく、目で見て分かるほどのけがや病気ではない。そうなると、体内で何か病が進行していたのかなと、僕は考える。
「弱っている兆しも前日までまったくなかったそうだ」
 ハムスターは病気を隠す習性があるそうで、変調に気づくのはなかなか難しいのだという。それでも、食べない、ほお袋に入れていた餌を吐き出す、下痢をするなどの変調を表す行動は、まったくなかったそうだ。
「解剖をすれば死因は分かっただろう。でも生徒たちも担任も、さすがにそこまでは望まなかった。突然死も多い生き物だから、それだったんだろうってことで話は収まった」
 話を聞く限り、凜ちゃんには何も責任はない。けれど数日後から家ではしゃべらなくなり、食事もおやつも以前のようには食べられなくなってしまった。
 やはり小太郎の死の悲しさと寂しさが理由だろうかと考えかけて、「それだけでもなさそうなんだよ」と社長が言ったのを思い出す。だとすると――頭に浮かんだのは嫌な予想だった。
「もしかして、凜ちゃんのせいだって抜かしてるガキがいるんすか?」
 奥さんがそれまでと違って低く迫力のある声で訊ねた。
 頭の中に浮かびかけていたのとまったく同じ疑惑を奥さんが口に出した。
「いや、それはない」
 すぐさま社長が否定する。
「けど今のいじめってSNSとかもでしょ? だよな?」
 つい最近まで学生だった僕に目をやって、奥さんが同意を求める。
「そうです」
 いじめられた当事者の僕は、はっきりと答えた。
 小学校六年生の二学期以降、ライン、ツイッター、インスタグラム、さらにはティックトックなど、ありとあらゆるSNSで僕はクラスメイトから始まって学校全体、さらにはそこから波及してまったく知らない全国の人たちから詐欺師呼ばわりされて罵詈雑言を浴びせられた。
 対処法は法的に闘うのがベストだと思う。でも解決するまでには時間が掛かるし、弁護士などの専門家を雇わなくてはならないからお金も掛かる。
 それに僕の場合は母親がそうされても仕方のないことをしていた。母親に関しては、僕がほかの誰よりも一番の被害者なのだけれど、僕ありきの詐欺だから、僕もセットで悪く書かれていた。こうなると残された対処法はただ一つ。一切SNSを見ない、だ。
 自分の知らないところで何を言われようが知ったことではないと割り切れることが出来た僕でも、学校という逃げ場のない環境で、明らかにSNSに書き込んでいると分かっている連中と、同じ空間で時間を過ごすのは辛かった。
 ネット上でも現実でも、一切相手にせずに無視を通していたら、それは反論できないからだ、つまりは事実だとされてしまう。結果、最初のうちは陰口だったのが、時間が経つにつれて聞こえるように悪口を言われるようになった。
 凜ちゃんが今、僕と同じ道をたどっているのだとしたら、なんとしても阻止しないとならない。
「いじめには遭っていない。それは村田さんと、裕二さんの友達の守さん、お二人のお蔭で確認できた」
「村田さんって、もと芝電設の村田さんっすか?」
「そうだ。姉ちゃんが心配していくら話を聞いても、大丈夫、いじめられてなんてないとしか凜は答えない。でもまったく元気にならないし、日に日に元気を失っている。どうにかして学校での様子を知りたいのだけれど、どうすればいいのか分からないって泣きながら相談してきたんだ。だったら凜にも気づかれないように盗聴器をしかけるしかねぇって考えた」
 解決のために証拠を集める。正攻法だと思うけれど、小学生の娘に内緒で盗聴器を仕込むというのはどうなのだろう? などという建前は、いじめの被害者になったことのない奴が言うのだと思う。
「それで村田さんのところに行ってきた。盗聴器ってあんなに小型なのに、長時間の録音可能なんだな。キーホルダー型とか洋服や靴に仕込めるのとか、いくつも紹介されてびっくりしたよ」
「そうなんすよ! 盗撮カメラとかもびっくりするほどちっこくて。――すみません」
 科学の進歩で盗聴器や盗撮カメラがより小型で高性能になっているのは、前回の倖さんの一件で知った奥さんが、知っている話題とばかりに話し始めたものの、今はそれどころではないと気づいてすぐさま止めた。
「常に身近にあって、凜に怪しまれない物ってことで、二重底に盗聴器を仕込める小型のステンレスボトルにして、俺からのプレゼントってことで持たせた。もう一週間以上、姉ちゃんが学校での様子を毎日聞いている。いじめられている様子はまったくなくて、それどころか凜は学校では普通に話しているし、授業中もきちんと発言しているっていうんだ」
「――あのぉ、もしかして、家でなんかあったんじゃないっすか?」
 学校では問題がないと聞いて別な可能性を思いついた奥さんが、言いづらそうに訊ねる。
「日常的に無視されたり悪口を言われているのなら、いじめは末期です。凜ちゃんの様子がおかしくなり始めてからひと月も経っていないし、まだ尻尾を出していないだけなんじゃないですか?」
 経験者だからこそ、黙っていられなくなって口を挟んだ。
「そっか、そうだよな。やっぱSNSで」
「SNSの方は守さんがクラス全員分調べてくれた。結果、シロだった」
 食い気味に言いかけた奥さんは、社長の言葉に口をつぐんだ。
「どころか、クラスメイトの何人もが、凜の様子がおかしいって気づいて心配してくれている」
 最初の藤森家の相談を持ち掛けてきた武本工務店の職人の裕二さんの話には、よく出てくる友達が二人いる。一人は消防士の幼馴染の雄大さんで、もう一人が何をしているのかよく分からない守さんだ。
 守さんは裕二さんよりかなり年上の大金持ちで、大きな家からほとんど出ずに、無線を傍受したりネットを駆使してありとあらゆる情報を得ながら暮らしていると聞いている。ちなみにペットはウミウシだ。――とにかく、僕には謎の人でしかない。
「守さんに会ったんですか? どんな人でした?」
 興味津々とばかりに奥さんが身を乗り出した。
「いや、守さんが抜き出した大量のラインの画面を、裕二さんがタブレットで見せてくれた。俺も全部読んだ。でも、何度読んでもいじめられてはなさそうだ」
 何をどうしたらそんなものを入手できるのかは僕には分からないが、とにかく社長が納得したのなら、そうなのだろう。――ただ、だとしたら、守さんは怖すぎる。
「そうなると、俺も隼人と同じく家が理由なんじゃないのかって思ってな。でも姉ちゃんが言うには、夫婦仲は普通で喧嘩もしていないって。完全に手詰まりになったところで、最近家の中で何か気配を感じるって、姉ちゃんが言いだした」
 僕たち三人に社長が相談した理由がようやく分かった。
「それなら俺たちの出番っすよ! なっ!」
 奥さんは、バンッ! と音を立てて胸を叩き、続けて右の頭島さんと左の僕に次々に同意を求めた。最初のように二つ返事で同意したかったけれど、今度は出来なかった。それは頭島さんも同じだったらしく、返事はない。
 二人ともすぐに応えなかったことに「んっだよっ、お前ら!」と、以前の道を踏み外していた時代を彷彿とさせる迫力に満ちた低い声でどやされた。
 他ならぬ須田社長の頼みだ。もちろん僕は何でもする。でも、今までと同じく解決の約束はできない。だからすぐさま同意できなかったのだ。
「テメェら、ざっけんなよ!」
 怒りを爆発させて奥さんがソファから立ち上がる。
「隼人!」
「もちろん何でもします。でも、解決の約束はできません。それでもよければ、俺たちにやらせて下さい」
 社長の叱責と頭島さんの冷静な言葉で我を取り戻した奥さんが、すとんと腰を下ろした。
「姉ちゃんが言うには」
 そこから僕たち三人は、社長の話にさらに身を乗り出した。



 十月二十四日、僕たちは新座市野火止四丁目にある社長のお姉さんの家に向かっていた。その日になった理由は、凜ちゃんの学校の休みと、社長と僕たち三人の四人ともが休みになる最初の日曜日だったからだ。
「社長は先に行って待っていてくれる。真司さんは客からのクレーム対応で今朝呼び出されちゃったんだって。終わり次第、すぐに帰って来るそうだ。食品メーカー勤務も大変だよな、日曜日も関係なしなんて」
 ハンドルを握りながら、奥さんが僕と頭島さんに話しかける。真司さんというのは、社長のお姉さんの夫で凜ちゃんのお父さんのことだ。
 もはやおなじみのいつもの光景だ。いつもならば頭島さんが先に、そして少し遅れて僕も何かしら応えるが、今日は様子が違った。僕も頭島さんも反応がすこぶる悪くなっていた。
 二人の返事がないことで車内には変な間が出来ていた。それを埋めるようにまた奥さんが話し出す。
「社長とは家の近くの駐車場で合流して、それから一緒に行く。俺たちは、お姉さんの家に行く約束の社長とたまたま出会って、誘われて一緒にお邪魔するってことになっているから」
 この話は三回目だ。頭島さんが気乗りしていない声で「気を付けます」と言ったので、僕も「はい」とだけなんとか応えた。
「解決できないこともあると分かったうえで社長も頼んだんだから、今まで通りに行こうぜ」
 重苦しい空気を何とかしようと、奥さんが明るい声で言う。
 こんな空気になった理由は、社長から聞いた相談内容のせいだ。
 社長のお姉さんの紗香さんはスピリチュアル的なことはあまり信じていない人で、幽霊が見えるなどという話は、社長は今までただの一度も聞いていない。その紗香さんが、凜ちゃんが元気を失くし始めて少しした頃から、家の中で何かの気配を感じると言い出したのだ。
「あくまで気配だって言うんだよ。何かが動いたとかではなくて、あくまで気配がするってだけだ」
 困ったように頭を掻いて言う社長に「具体的には何もないんですか?」と、頭島さんが訊く。
「ああ。物も動いてない。音がするでもない。ただ、何かの気配がするって言い張るんだ。それも凜の近くでだけ。でも気づくと気配が消えているんだって」
「それって、誰かが凜ちゃんの近くにいるってことじゃないっすか? そいつのせいで凜ちゃんが元気を失くしているってことか! 隼人、ボッコボコにしちまえ!」
 勝手に決めつけた奥さんが、頭島さんに怒鳴るように命じた。
「――そうしたいのはやまやまですが」
 いつになく沈んだ声で頭島さんが応えた。
 頭島さんは幽霊が見えない。何か物理的な現象が起きている場合、現象が起こったその瞬間ならば、幽霊に触れることが出来る。でも、何も起きていない状態では何かに触れることはまったくない。
 これは僕からするととても不思議だ。かつて僕は幽霊が見えていて、会話もすることが出来た。その頃の僕には、場所も昼夜も問わず、ありとあらゆる場所で幽霊が見えていた。それこそ人は常に幽霊を突き抜けて歩いていたし、なんなら幽霊と重なって突っ立ってもいた。浩太朗が亡くなってから見えも話せもしなくなったけれど、状況は同じはずだ。だとしたら、頭島さんは常に幽霊にぶつかっているはずだ。でも、そうはなっていない。オカルト現象が起きている現場で起こった瞬間、つまり現行犯の時のみ、触ることが出来る。
「俺は、いつでも幽霊に触れるわけではないので、お役に立てないかもしれません」
「社長のお姉さんか、光希が感じた方を教えて貰って、そこに飛び掛かりゃいいんじゃね? 今までと一緒だろ?」
 すぐさま奥さんが反論する。
「ですが、事情を知らない凜ちゃんの横にとつぜん飛び掛かるのはどうなのでしょう。それに取り逃がしてしまったら、その先の向こうの動きはまったく読めません。これまで以上に凜ちゃんに何かが起こる可能性もあるのでは?」
「そりゃー、ダメだわ。絶対にダメだ」
 すぐさま奥さんは却下したが、「でも、見に行くのはアリだろ? 光希が見えれば、どんな奴が何してるとかわかるわけだし」
 話の流れから、矛先が僕に僕に向くのは予想済みだった。なのですでに考えていた答えを口に出す。
「でも僕もいつも見えているわけではないです。だからお役に立てるかどうかはわからないです」
 浩太朗が亡くなって以来、僕は幽霊が見えなくなっていた。また見えるようになったのは、頭島さんと出会ってからだ。そのあと、頭島さんがいないときも浩太朗や秋定さんを見ることが出来たけれど、秋定さんがアパートから出て行ってからは、浩太朗はもちろん幽霊は誰一人見ていない。
「それははなっから承知のうえだ。姉ちゃんにもそう言ってある。とりあえず、姉ちゃんの家に来てくれないか? それで二人が何も見えないとか感じないって言うのなら、姉ちゃんにはっきり言ってやらないと。じゃないと先に進めない」
 最終目標の凜ちゃんの元気を取り戻すためには、原因の可能性を一つずつ潰していくしかない。お姉さんが感じるという気配は何でもないと分かればまた別な原因を見つけられる。だから社長は僕たちに頼んだのだ。
 なんだ、解決できなくてもいいのなら、行くだけ行きます、などと思えるわけがなかった。恩人の須田社長の頼みだ。絶対に解決して凜ちゃんの元気を取り戻したい。でも確約は出来ない。ジレンマで言葉が出てこない。それは奥さんも頭島さんもおそらく同じ気持ちだったのだろう。三人とも無言になった。
「休みのところ申し訳ないが、俺と姉ちゃんと凜のために頼む」
 社長に深く頭を下げられて、三人それぞれがあわてて「社長、それは違うって」「頭を上げてください。できることはさせていただきます」「やめて下さい。やってみます」ととりなして、引き受けることなった。
 果たして僕に何が見えるのか。それは行ってみなければわからない。見えなかったら、何の役にも立てない。奥さん、頭島さん、僕の三人ともが、それが分かっているからこそ車内の空気は重かった。

 

(つづく)