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3(承前)

 奥さん、頭島さん、僕の三人がソファに並び、スツールに社長が、その背後のリビングの椅子に紗香さんが座った。凜ちゃんはさきほどと同じくフローリングの床だけれど、社長のすぐそばに場所を移していた。全員の視線を感じながら、「凜ちゃんの横に」と、改めて話を始めたものの、ここで言葉が止まってしまった。室内の全員が僕の言葉を待っている。それは分かっている。でも、どう言い表せばよいのかが分からなかった。
「自分のペースでいいから」
 社長が促してくれたが、凜ちゃんと紗香さんを怯えさせないように伝えるにはどうしたらいいのか悩ましい。でも結局、とにかく見たままを言うしかないと腹をくくった。
「僕に見えたのは、凜ちゃんと同じくらいの大きさの、もやもやした半球体のものです。みているうちに、それがひょこっと上に伸びて、それから巨大な真っ黒な目らしきものが見えて。それで驚いて動いたら、消えたんです」
 僕に見えたすべてを伝え終えて口を閉じた。
 何もイメージできなかったのか、誰も言葉を発しなかった。
 本来ならば、かつて見たものはこうだったと説明を付け加えるべきだ。そうすれば今回見たものが今までのような人間の幽霊ではないと伝わったと思う。それに、悪意や敵意のような、何か嫌な感じもしなかったということも言うべきだ。言えば、紗香さんと社長の二人は、少しは安心できたと思う。
 でも、かつて幽霊が見えていたことを僕は今までひた隠しにしてきた。だから、どちらも話すことはできない。
「もやっとした半球体が縦に伸びた。それに馬鹿デカい真っ黒な目? ――化け物だろ、そんなの」
 ぼそりと奥さんが呟く。
 その通りだ。白状すると、僕も人生で初めて妖怪を見たと思った。
「それって」
 吐き出すように言った紗香さんの顔が引きつっている。凜ちゃんもそれまでのかたくなだった表情が不安げに変わっていた。
「今はいないんだな?」
 冷静な声で頭島さんに問われて、「はい」とだけ答えた。
「確認したい」と言うと、頭島さんは立ち上がって凜ちゃんの横に移動する。
「高さはこれくらいだな?」
 大きさを確認しようと、手を凜ちゃんの頭の横で止める。
「そうです」という僕の返事を聞いて、続けて「幅は?」と問われた。
「縦の倍まではいかないくらいで」
 僕の説明を聞いて、両手を広げてその物体の大きさを頭島さんが手で表そうとしている。
 凜ちゃんは、頭島さんが手で形を再現している今は何もない空間を見つめている。
「かなりでけぇな」
 そう漏らした奥さんを社長がじろりとねめつけた。凜ちゃんと紗香さんの不安を煽るようなことを言うなという警告だろう。察して、しまったとばかりに顔をしかめて、何かとりなしの言葉を言おうと奥さんが口を開きかけたそのとき、頭島さんが「それで、これが縦に伸びた。伸びた時の形はどんなだ?」と、僕に訊ねた。
「全体的に縦長になって」
「半球が円柱になったってことか?」
 社長の喩えは間違いではないとは思ったけれど、でもやはり僕が見たものとは違う。
「いえ、そうではなくて」
 何かわかりやすい喩えはないかと考えて、「お餅を伸ばしたみたいな」と言ってみた。でも、言い終える前に、これも正確ではないと気づいていた。
「餅みたいに伸びた?」
「いえ、伸びたんじゃありません。ひょこっと持ち上がったって言うのか、その」
 平らにした左手を下に、お椀型にした右手を上にして、右手だけさっきよりも小さく丸めてすっと上げた。奥さんと紗香さんも両手で、僕のしぐさを真似ている。
「伸びた部分の頭っぽい場所に、大きくて真っ黒な目っぽいものが見えて」
「イマイチ分からないから、絵に描いてくれないか?」 
 すぐさま紗香さんがダイニングテーブルから、メモ用紙とペンを持ってきてくれた。
 ペンを手にメモ用紙を前にして少しためらう。というのも、僕は絵が下手だからだ。小学生の頃、課外授業で動物園のレッサーパンダを写生したことがある。そのとき、誰一人何を描いたか分からず、謎の生物だとからかわれたことがトラウマになって、それ以降、絵だけでなく地図も含めて図形は一切描かないことにしている。
 ただ今回描くのは、僕の見たあのもやもやした球体だから、正解はない。覚悟を決めて一枚目に最初に見た半球体を描く。描いてみて、半球ではなくカマクラみたいだったと気づいた。続けて二枚目に、ひょこっと伸びた状態を描く。
「円柱じゃねぇな。伸ばしたニット帽ってとこか?」
 社長が僕の絵を見て言う。
「そうですね。上は平らではなくて丸い感じでした」
 三枚目に二枚目と同じような形の絵を描いてから、上の方の中央に二つ、右は右上がりで、左は左上がりの楕円を描き足す。
「頭だとすると、それに比べたらかなり目が大きくて、それに真っ黒だったんです」
 言いながら、二つの楕円ともに塗りつぶしていく。塗り終えてメモ用紙から腕を退けた。全員の目がメモ用紙に集まる。でも誰も何も言わない。少しして最初に言葉を発したのは奥さんだった。
「――宇宙人?」
 目が見えたとき、僕は化け物だと思った。化け物も宇宙人も一般的に実在していないという意味では同じくくりだろう。でも、やはり違う気がする。僕にはなかった発想にとまどって反応することが出来ない。その場の全員が同じだったようで、誰一人何も言わなかった。
「だってこれ、よく見るヤツじゃないっすか? 頭にデカい目の宇宙人の絵。あれに似てないっすか?」
 奥さんが言いたいのは、体に比べて頭が大きく、その顔のほとんどを埋め尽くすようなアーモンド形の大きな目の宇宙人だと思う。言われてみれば、確かに似ている気がするが、だとしても……などと考えていると、「ペンを貸してくれ。それと、新しいメモ用紙を一枚貰えるか?」と頭島さんに言われた。いつの間にか、その手にはスマートフォンが握られている。
 ペンとメモ用紙を差し出すと、頭島さんはペンを手にさっそくメモ用紙に何かを描き始めた。ニット帽状の形の中に楕円を二つ、しかもそれを塗りつぶしている。
 僕の書いた二枚目とほぼ同じ絵だ。でもそこで終わりではなかった。上の丸い部分の両端に小さな葉っぱみたいな半分の楕円を付け加えたのだ。さらに丸い部分の一番上から、大きな目と目の間まで何本か線を重ねて太い線にする。頭島さんはそこで手を止めた。
 これで終わりかと思いきや、次は目と太い線の少し下の部分に、また描き加え始めた。左の目の下にアルファベットのCを、右目の下に逆向きに描き終えて、ペンをメモ用紙から離した。
「それって!」
 興奮して言う奥さんには応えずに、頭島さんはメモ用紙を凜ちゃんが正面から見えるようにテーブルの上で回して差し出した。
「――小太郎」
 ささやくような小声で凜ちゃんが言った。 
 状況を呑み込めずにいる僕に、頭島さんがスマートフォンを差し出した。
 ディスプレーに映し出されていたのは小さなハムスターだった。後ろ足で立ち上がったところを正面からとらえたその写真は、全体のシルエットや大きく真っ黒な目の位置のどちらも、僕が見た謎の物体ととても似ていた。
「小太郎はジャンガリアンハムスターだよね?」
「うん」
 確認をとる頭島さんに、凜ちゃんがメモ用紙から目を離さずに答える。
 ディスプレーのハムスターの額には頭島さんが書いたのと同じ黒い筋が入っていた。
「おー、ここに筋が一本あるだけで、ジャンガリアンハムスターに見えるもんだな。そんでこれが手か。丈、お前、絵が上手いんだな」
 感心する奥さんに同意する。でも僕はまだ納得がいっていなかった。
「でも、最初の形は」
「これじゃないか?」
 最後まで聞き終える前に頭島さんがスマートフォンの画面をスワイプさせる。映し出されたのは四つの足がすべて床に着いている状態のジャンガリアンハムスターの写真だ。そのフォルムは僕が最初に見たカマクラみたいな形によく似ていた。
「最初がこの姿勢で、立ち上がってこうなった」
 スワイプさせて元の画面に戻す。カマクラがひょこっと縦に伸びた状態に変わった。僕が見たのはおそらくこれだと、今度は思えた。
 ならば凜ちゃんの横にいたのは小太郎ということになる。でもジャンガリアンハムスターはかなり小さな生き物だ。とてもではないが、凜ちゃんと同じ大きさのはずがない。
「でも、大きさが」
 僕と同じ疑問を奥さんが言い終える前に、「小太郎がいるの?」と、凜ちゃんが僕を見上げて訊ねた。
 即答は出来ずに、僕は言いよどむ。社長と紗香さんとよく似た大きな二重の目には涙が盛り上がり始めていた。救いを求めるような痛々しい表情に胸が痛む。
 ――凜ちゃんは、僕にどう答えてほしいのだろう?
 頭の中を過った考えを僕は振り払った。
 過去に幽霊が見えていたとき、僕は一つだけ決まりを作っていた。それは、絶対に嘘はつかないということだ。実際に幽霊がいた場合は、見たまま、会話したままを相手に伝える。その内容が相談者の要望と合わなくてもだ。どれだけ話しかけても無視されて会話にならない、だから問題解決は無理だ、これ以上は何もできない、などのケースも正直に伝えた。
 あと一番多かったのは、幽霊がいなかった場合だ。この場合も、「幽霊がいるのかもしれないけれど、僕には見えないし、何も感じない」と、僕は正直に相手に伝えた。
 これらに関しては母親と何度も言い争いになった。
 母親は「相談者は不安で困っているのだから」と前置きしてから、会話が成立せずに解決不可能なケースは、「手の打ちようがないと拒絶せずに、何度か来て説得すれば可能性はあるかもしれないと言いなさい」とし、僕には幽霊が見えなかったケースは、「今回は見えなかったけれど、違うタイミングならば見えるかもしれないと言いなさい」とした。
 さも相談者を慮っている風だけれど、回数を重ねて金儲けがしたいだけだと、僕は見抜いていた。しつこく迫る母親を黙らせるのには、「そういうことを強要するのなら、二度と相談には乗らない」という伝家の宝刀を抜くしかなかった。
 すると、一か所から大金をせしめられないとなった母親は、相談の数を増やしてきたのだ。僕が「もう手伝わない」と拒絶すると、母親がいったん引き下がる。だが、少し間を空け、ほとぼりが冷めたころを見計らってまた依頼を持ち込む。そのいたちごっこは浩太朗が亡くなるまで続いた。
 思い出に浸っている場合ではない。我に返って口を開く。やはり正直に言うしかない。  
「僕に見えたのはもやもやした塊と、そこに浮かび上がった目らしきものだけで、小太郎には見えませんでした」
 はっきりと見たままを伝える。
 凜ちゃんの目に盛り上がった涙がぽろりと頬を滑り落ちた。泣かせてしまったと焦る僕をよそに、凜ちゃんが遠くを見るような目で話し出す。
「小太郎、あたしのこと怒っているのかな? どうして助けてくれなかったのって」
 聞き捨てならない言葉が出てきた。
「凜、それはどういう意味だ?」
 社長も同じだったのだろう、すぐさま訊ねてきた。
「違うのよ。自分がもっと注意していたら、小太郎の病気に気づけたかもしれない。そうしたら助けられたかもっていう意味なのよ」
 答えたのは凜ちゃんではなく紗香さんだった。
 小太郎の死は凜ちゃんには何の責任もない。でも凜ちゃんは自分が何かを見落としたと自分を責めているのだ。そういう意味かと納得して、ほっと胸をなでおろしたそのとき、頬のあたりにかすかに何かを感じた。倖さんのマンションの風呂場の時ほどではない。でも空気が動いて頬に当たった気がする。
 ――いるのか?
 もやもやした球体がいた場所を集中して見る。けれどそこには何もいない。気のせいだったかと思っていると、紗香さんが話を続けた。
「それで凜は将来は獣医になるんだって言っているのよ。ハムスターの専門医になるんだって。ね?」
 凜ちゃんは顔を上げると、手の甲でぐいっと涙を拭ってから頷いた。
「この前なんて真司に、獣医学科のある大学の付属中学の受験をしたいって言いだして」
「その方が確実っぽいんだもん」
 返事から、強い意志を感じる。小太郎の死は凜ちゃんにとってつらい経験だった。けれどそれもあって、将来なりたい職業が見つかったのなら、これはこれで良かったのではないだろうか。将来の目標がいまだに何もない僕からすればうらやましくもある。
「きっかけはともあれ、獣医が将来の夢ってのは悪くはねぇんじゃないっすか? ウチのタピ、今、三歳なんだよ。凜ちゃんが獣医になるのは」
「十二年後!」
 奥さんが言い終える前に、凜ちゃんが即答した。
「だったら、まだまだタピは元気だから、凜ちゃんに診て貰えるな」
「あたしはハムスターの専門医だから、健康診断とかワクチン接種とかならしてあげられるけど、難しい病気は、専門の先生に頼んでね」
 ネットで獣医について調べつくしたのだろう。凜ちゃんは獣医になったのちの明確なビジョンを持っていた。
「おー。すげぇな。そんじゃ、笹山凜先生、よろしくお願いします」
 感心した奥さんが、まじめな顔で凜ちゃんに頭を下げた。凜ちゃんもまんざらではないらしく、表情が少し明るくなっている。重かった室内の空気も、少し軽くなった。
「獣医になりたいというのは、決して悪いとは思わない。でも、今からそこまで絞り込んでいるのが、ママはちょっと心配なのよ」
 紗香さんの言葉で、また室内の空気が重くなり始める。
「なんで?」
「一つに決めてしまって、他はないってするのはどうかなってママは思うの」
 言いたい内容は分かる。一つの夢に絞り込んだものの、夢が叶わなかったとき、そのあとの人生を案じているのだ。
 僕の母親ならば、獣医よりも稼げる仕事が他にあるからという理由で駄目だしをするだろう。でも、紗香さんは、凜ちゃんの将来の可能性はいくつもあった方が良いと思っているのだ。 
「なんでダメなの? 獣医の何が悪いの?」
 強い口調で反論する凜ちゃんに「凜、姉ちゃんは獣医がダメだって言ってんじゃねぇよ」と、社長が静かに、でもきっぱりと言う。
「でも」
「凜は頭が良いし、動物が大好きだ。だからこのまま勉強を続ければ獣医になれる。姉ちゃんも俺もそう信じている。でも、とつぜん動物アレルギーになったら? 大人になってとつぜん発症するケースだってある。そうなったらどうする?」
 思わぬことで夢が叶わないこともある。その例をきちんと社長が提示した。これには凜ちゃんも返す言葉がないらしく、何も言い返してこない。ぐうの音も出ないとはこのことだろう。凜ちゃんの目に、また涙が盛り上がっていく。
 これはショックだよなと、さすがに凜ちゃんに同情したそのとき、また頬にかすかな空気の動きを感じた。
 ――やっぱり、いる。
 けれど、元の場所には何もいない。でも室内のどこかにいるはずだ。四人に気づかれないように、視線をわずかに動かしながら捜す。目に入る範囲にはそれらしきものはいない。感じるのは前からで、うしろではない。そこで、一つ思い出した。あのもやもやした球体は形を変えていた。
 勘の良い頭島さんに気づかれないように、視線をテーブルの下に向ける。今の座り方では、見えるのは僕の足の数センチ先までで、そこには何もいなかった。もっとテーブルの下を見ようと、そっと背を後ろに倒す。でもやはり何も見えない。横からの視線を感じる。やはり頭島さんに気づかれた。
 この先の流れは読めた。「どうした?」と尋ねられて、室内の全員に気づかれるだろう。僕が説明して全員で室内を見回したら、せっかく戻ってきたっぽいあのもやもやした球体がまた消える可能性は高い。
 どうしようかと考えてひらめいた。
「すみません、トイレお借りしていいですか?」
 言いながら立ち上がる。これならもぞもぞ動いていた理由になるし、移動中にこれまで目の届かなかった範囲を見ることが出来る。
「どうぞどうぞ。廊下の右奥から二つ目のドアです」
 紗香さんに言われて、「すみません」と言いながら、ソファから離れる。
「なんだよー」という奥さんの呆れ声を背に、ローテーブルを回り込んだところで、凜ちゃんの傍らに、小さくてグレーの丸いものがあるのに気づいた。
 綿埃にしては大きいなと思ったとき、それがひょこっと立ち上がった。驚いて思わず足が止まる。つぶらな大きな黒い目に、頭の上から目までの黒い筋、白い腹毛の前には持ち上げられたピンクの手。それはどう見てもジャンガリアンハムスターだった。
「ハムスターがケージから逃げだしてますよ」と言いたくなるほど、はっきり見えた。でも、笹山家にハムスターはいない。ならばこれは小太郎だ。

 

(つづく)