多くの現代人が抱える「生きづらさ」を描いた『死にたいって誰かに話したかった』が発売されました。発売前から「ブクログ」や「NetGalley」でランキング1位を獲得し、絶賛や共感の声が押し寄せている本作。著者の南綾子氏に創作秘話から読みどころまで話を聞いた。
■一日一秒幸せ、あと残りの時間は全部ゆるい不幸。そんなに頑張らない。それでもいいじゃないと思います
──本書に出てくる登場人物と同じく、若年層でも孤独死に怯える人が増えているそうです。今回のお話には、孤独との付き合い方についてもヒントのようなものが書かれている気がしました。
家族がいたり仕事がある状況や、他人から見れば恵まれている境遇でも孤独を感じやすい人が多い世の中、人はどうやってサバイブしていくのがいいように思いますか?
南綾子(以下=南):孤独や不幸を解決、解消するのではなく、少しでもやわらげながら生きていく、という方向性のほうがいいと思うんです。未婚のまま年をとると不幸度が増すとか、幸福な老後を迎えるためには貯蓄がいくら必要とか最近よく目にしますが、いやだなあと思います。幸福であることが人生の最重要課題にされるとわたしは苦しいです。幸せってそんなに持続性のあるものなんですかね? 一日一秒幸せ、あと残りの時間は全部ゆるい不幸、それでもいいじゃないと思います。幸せになるという義務からみんな解放されるべきですね。
そのために完璧な家庭を作ることや、恋人や親友と呼べるかけがえのない関係性を獲得することを目指すのではなく、茶飲み友達ぐらいのゆるーい関係性を一つでも持っておく、というのはいいのかもしれないです。一年に一度でも、三年に一度でもいいから連絡がとれる人がいる。そのぐらいのゆるいつながりでもいいから一つは確保しておく。あとはそんなに頑張らない。それでいいような気もします。
──前作『タイムスリップしたら、また就職氷河期でした』では生まれた時代というどうしようもないことで行き詰まりを感じる男女を描かれていました。南さん自身も就職氷河期世代で、その経験が内容に反映されていたかと思います。今作でも、ご自身が日頃から思っていたこと、抱えてる生きづらさから生まれた描写があれば教えてください。
南:就職氷河期と同時期に世の中に台頭していまだに幅をきかせ続けているのが、能力主義、成果主義、努力至上主義で、わたしもながらくそれらに縛られていたような気がします。優秀な人はその能力に相応しい成果を受け取るべき、反対に役に立たない人間は切り捨てられても仕方がない、努力しているのにうまくいかない人は努力の方向性が間違っている。そういう言説にあんまり疑問を抱いていませんでした。能力主義の世界では、うまくいかないことは全部努力不足が原因になってしまう。それは明らかに生きづらさの要因の一つだと思います。非モテなんて最たる例で、モテないのは努力が足りないせい→だから頑張って相手に振り向いてもらおうとする→無茶な行動に出る→ふられる→努力を否定されて怒りに火がついてモンスター化、なわけです。
そもそもなぜ人は大人になっても努力し、成長し続けなければいけないのか? 努力しなかったら確かに人生は広がらないけど、冒険をしなければケガもしないし、そんなふうに平穏無事に生きていくのもアリなんじゃないかな? とか考えたりしました。本文中に、誰からも愛してもらえない人生を考える、というくだりがありますが、そんなことを考えながら書きました。
──『21世紀の処女』は、経験がなく純情なことは正義で美しいものとして扱われる風潮に一矢報いている印象がありました。同じように、本作でもそういった斬り込んだ部分があれば教えてください。
南:奈月が語っている、シスターフッドの足切り問題ですかね。本当にすべての女性と連帯しようとしてくれてます? という疑問を抱いています。結構厳しい審査、ありますよね? みたいな……。
──この本を人におすすめするときに添えたい一言があれば教えてください!
南:フィクションであろうと、他人の幸せを喜べない気分のときに読んでほしいです。
【あらすじ】
あたたかい家庭に憧れを抱きながらも恋人どころか友人もできず仕事も空回りばかりしている37歳独身の奈月は、生きづらさを抱えて日々暮らしていた。悩みを共有できる人を求めて「生きづらさを克服しようの会」を発足し、勧誘チラシを撒く。すると、モテなさすぎて辛いと話す男性から連絡がきて──。
どうして私たちは他の人のように「普通」に生きられないのか。生き方に悩む男女が不器用に前進していく物語。
南綾子(みなみ・あやこ)プロフィール
1981年愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18文学賞」大賞を受賞しデビュー。『結婚のためなら死んでもいい』『タイムスリップしたら、また就職氷河期でした』など著書多数。