第5話 焼豚チャーシューと海鮮焼きそば

 

 

2

 

 結局、天福飯店で食事ができたのは翌週のことだった。

 チャーシュー取材で百軒を回った週がようやく終わり、日曜月曜と休めた後の火曜日である。その日は午後から企画会議があって、珍しく夕方には退社できた。気持ちのいい秋晴れだった空には夕焼けの色が残っている。

 そのまま帰宅するのはもったいないと思えた。地下鉄を乗り継ぎ、西新宿で地上に出て、この前歩いた道を辿った。

 正直、チャーシューやラーメンはしばらく食べる気になれない。だけど他にもメニューの豊富そうな店だった。番組のオンエア予定日も来週と決まったのでその報告もしておきたい。単品チャーシューの値段以外には謝礼も出せなかった取材で親切にしてもらったのだから、そのお礼だって言っておきたかった。

 オンエアといっても、番組内で天福飯店が紹介されるわけではない。リコが撮ったチャーシューの写真だって映るのは一瞬のはずだ。それだってカットされる可能性はある。そのあたりも説明しておいた方が無難だろう。

 暖簾をくぐると、割烹着の店員さんがすぐに気づいてくれた。向こうから「この前はお世話さま」と言ってくれたものだから、リコとしては「いえいえこちらこそ」と頭を下げるしかない。「今日はプライベートでうかがいました」と告げると、嬉しそうに笑ってくれた。

 この前の取材ついでに聞いた話では、彼女はこの店のおかみさんではないらしい。「ただのパート店員です」とのことで、「割烹着だけおかみさんのを受け継いだの」という話だった。――せっかくそういう興味深い話を聞かせてもらったのに、今回の企画では活かせないのがもどかしい。

「先週は、『チャーシューのことを焼豚と呼ぶのに、たいてい煮豚なのはなんでだろう?』って企画の取材だったんです」

 カウンター席に座りながら説明した。店主さんから伝わっているかもしれないが、そうやってお喋りしたくなる雰囲気の店員さんだった。

「都内のお店を百軒回って、実際に焼いてるお店は何パーセントか調べてたんですよ」

「あらまあ。大変ねえ」

 グラスのおひやを受け取った。そこで厨房の店主さんも声をかけてきた。

「で――何パーセントくらいでした?」

 料理人としては気になるところらしい。リコは彼にも会釈して答えた。

「十パーセントちょっとって感じでした。焼いてるお店でも、焼いてから煮るところがほとんどで」

「ああ、うちもそこに分類されるのかな」

「あ、そうですね。集計でそこに入れさせていただきました」

 天福飯店ではブロック肉に焼き目をつけてからタレ漬けで煮て味を染みこませるということだった。しかし全体からみると少数派で、最初から煮るところが圧倒的に多かった。

「豚肉のどこを使うとか、タレをどんな味付けにするとかはお店によっていろいろだったんですけど、今回は調理法で分類したんです。煮る・焼く・焼いてから煮る・煮てから焼くって感じで」

「なるほどねえ」店主さんは面白がってくれた。「チャーシューって、そうやって分類できるもんなんだなあ」

「あらまあ」店員さんが言った。「煮てから焼くところなんてあるの? タレが焦げちゃいそうよねえ」

「まあ焼くっていうより、あっためるのが目的みたいでしたよ。冷蔵庫にしまってたのを切ってからさっと炙って、お客さんにはあったかいのを出すって感じで」

「ああ、なるほど!」

 そんな話をしている間にも他のお客さんたちが入店していた。これから夜の部の営業に入って混み合ってくるようだ。

 中にはカウンター席に座るお客もいた。どうやら常連さんのようで、リコたちがチャーシューの話をしているのを聞いて瓶ビールとおつまみのチャーシューを注文している。それでお互い、自然と笑顔になれた。

 浅黒く日焼けした、細身で面長のおじさんだった。年は五十代くらいだろうか。夕方から冷えてきたのにジーンズと半袖ポロシャツの姿が若々しい。リコと目が合うと気さくに話しかけてきた。

「お姉さん、初めて見る顔だけど――黒木さんのお友だち?」

 黒木さんというのは店員さんの名前のようだ。リコは首を横に振った。

「いえいえ。こちらにうかがうの、まだ二回目なんです」

「この前はお仕事で来てくれたのよね」黒木さんが言った。「それで今日はプライベートでいらしてくれた、っていうのが嬉しくて、ちょっとお喋りしてたところ」

 言いながら瓶ビールとグラスを運んでくる。常連のおじさんはそのビール瓶を指さした。

「今日は仕事じゃないってことなら、一緒にどうです? お近づきのしるしに一杯おごるよ」

「えっ……」

 急な誘いに驚いた。ビールは嫌いじゃないが、ここで軽く応じてしまうのも厚かましい気がする。どう応じるべきか迷って、つい黒木さんの方を見てしまった。

「いいんじゃない? お嫌いじゃなければ」悪戯っぽく笑いかけられた。「こちらの上川さん、ちゃんと奥さんもいる歯医者さんだし、若い子をナンパしに来てるような人じゃないですよ」

「はあ」ナンパという言葉に笑いがこみあげてきた。「ていうか、あの、私――」

「もちろん嫌なら断っちゃってね。振られて落ち込むような人でもないから」

 言い添えられた言葉に笑ってしまった。黒木さんの方が年上なのだろうか。上川さんをからかって面白がっているようでもある。

「ていうか私――すいません。まだ注文してないなって思って」

 リコが打ち明けたら上川さんも笑い出した。黒木さんは「あらごめんなさい」と言いながらグラスをもう一つ持ってくる。

 割烹着のポケットから伝票とボールペンが取り出された。実のところまだ注文は決めていなかったのだが、とりあえずビールに合うものを選ぶことにした。

「焼き餃子はありますか? じゃあ一皿、お願いします」

 出されたグラスも受け取ってしまった。上川さんはビール瓶を手に取り、軽く掲げてこちらに向けてくる。

「なんか、すいません。――いいのかな」

 呟くリコに、上川さんが「いいのいいの」と答える。妙な展開になったなあと思いつつ、それを楽しんでもいた。

 

3

 

 ビール一杯のお礼に餃子を一つ進呈した。二つあげると申し出たのだが、上川さんは一つで充分だからと断ってきた。

「こう見えて、アマチュアランナーの端くれでね。文化の日に大会もあるし、体重を落としとかないとタイムの方が落ちちゃうから」

「……タイムって、マラソンか何かですか?」

「うん。今日はチートデーってことで、天福でビールとツマミで夕食ってつもりだったんです。餃子は炭水化物も多いから慎まないとね」

 競技スポーツをやっている人だったら体重管理も真剣なのだろう。あるいはビールをリコに注いでくれたのもカロリーカットのためだったのだろうか。

 それでもリコが小皿にのせた餃子は美味しそうに食べている。その後にはグラスいっぱいに注いだビールを一息に飲み干した。

「いや、本当はこの店の餃子は大好物なんだよ。自己ベストを更新できたら、お祝いに腹いっぱい食べつつビール飲もうと思ってるくらいでさ」

 そう言われ、リコもビールを半分ほど飲んでから食べてみた。ぱりっとした焼き加減の皮は意外に厚く、噛むともちもちの歯応えが伝わってきた。

 そこまできてから醤油も酢もつけてないことに気づいた。だけどすぐ、このままの方がいいと思い直した。ジューシーな餡には肉も野菜もたっぷり詰まっている。その味わいを直接感じられるのが嬉しかった。

 一つ食べる間にもドラマ展開があるような焼き餃子だった。上川さんがこれをお祝いにしたくなる気持ちも分かる。

 餃子を飲み込み、またビールを口にしてから、ようやく喋る気になった。

「――ほんと、美味しいですね」

「でしょ?」上川さんがうなずいた。「常連の中には、二皿や三皿はぺろっと食べちゃう人もいるよ」

 なんだか得意げな口調だった。食べる量を誇っているわけじゃなく、それほどの味なんだと自慢に思っているようだ。

 リコももう一皿頼もうか迷った。でもせっかくだから、今夜は他の料理も頼んでみたい。メニューを一通り眺め、海鮮焼きそばを注文した。――もともとシーフードは好きだし、チャーシューとは無縁そうなのも気に入った。餃子の焼き具合からして、きっと焼いた麺も美味しいことだろう。

 上川さんは餃子の後でチャーシューに箸を伸ばしていた。ビールを一口飲んではチャーシューを口に運ぶという食べ方だ。それからカウンター越しに厨房に声をかけた。

「そういや野上さん、さっきチャーシューの作り方の話をしてたよね」

「ああ、チャーシューの別名は焼豚なのに、大抵の店は煮豚だよねってことで――」

 店主さんが答えた。彼は野上さんという名前らしい。

 その野上さんがちらりとリコの方を見た。――どうやら、取材のことを話していいか躊躇しているようだった。

「最初こちらにうかがった時は、取材の用事だったんです」リコから答えた。「テレビ番組の調査企画の下調べみたいなことをしてまして」

「へえ、すごいね」上川さんが目を丸くした。「どんな番組?」

「えーと……ロケ番組とお料理番組が合体した感じの、BSの番組です。料理がらみの素朴な疑問を解いてみようって企画で、タレントさんが街歩きしてお店の料理を調べたり、スタジオで実際に作ってみたりして」

 もちろん、実際には忙しいタレントが地道な調査をしたりはしない。事前に撮影許可をとった店に入り、台本に書いてあることを喋る。その下準備のため、リコのような現場スタッフが走り回っているのだ。

「で、その番組にこの店が出るのかい?」

「いえ、そういうわけでもなくて――今回はチャーシューの調査がありまして、こちらの天福飯店さんにもお世話になりまして――」

 とても感じがよかったのでまた来てみました、と言おうとした。だけどリコが言葉を切ったところで、野上さんが口を開いた。

「残念ながら、撮ってもらったのはチャーシューの写真だけだよ。店は出ない」

「これだけ?」上川さんは箸でチャーシューの皿を指した。「せっかくなら野上さんも出ればよかったのに」

 上川さんと野上さんは気安い仲のようだ。からかう口調で「男前が映っとけば客が増えるんじゃないの?」とか「これ以上増えたら店から溢れちまうよ」などとやり合っている。

「番組作りのための下調べだったんです」リコから言い添えた。「チャーシューを焼いてるかどうか、百軒回って調べて写真に撮りまして、番組ではその写真をざーっと続け様に映しまして――」

 そんな説明の最中、上川さんはチャーシューを箸でつまんでまじまじと見つめている。リコが早口で説明を終えると、野上さんに向かって尋ねた。

「このチャーシューは――焼いてんの?」

「焼いてるよ」野上さんがうなずく。「焼いてから煮てるんだ」

「へえ、手間かかってんだね。だから美味いのか」

「最初に軽く表面を焼いとくと香ばしくなるし余分な脂も落とせるし、煮崩れもしにくいからね。だからうちのチャーシューは紐で巻いたりしてないんだよ」

「そうやって焼いてるから焼豚っていうわけか」上川さんは確かめるように噛みしめた。「じゃあさっき言ってた、大抵の店は煮豚だよねってのは?」

「もともと中華料理じゃあ炙り焼きにするんだ。紅麹みたいのに漬け込んで、それを串みたいのに刺して、炭火で焼いたりしてね」野上さんはそういう話をするのが好きらしい。「それが日本に伝わって広まるうちに煮豚が多くなってったんじゃないかなあ。その方が手間がかかんないし」

「焼くのも煮るのも、手間は手間じゃないの?」

「煮るだけの方が楽だよ。味付けしたら火加減を見とけば済むから。――昔ながらの焼豚、俺もたまには作りたいけど、半日がかりになるからなあ」

 そこまで言って、「じゃ、焼きそばにかかります」と一礼する。焼き料理はかかりきりになる、というのを実践してくれているようだ。

 リコはつい、「どうぞごゆっくり」などと言ってしまった。別に急いで作ってもらわなくても構わないのだ。常連さんとのお喋りを邪魔してしまったかなという思いも頭をよぎる。

 それが伝わったのか、店員の黒木さんが声をかけてきた。

「うちみたいな町中華よりもラーメン屋さんが多くなったっていうのも、煮豚チャーシューが増えた原因らしいわよ」

「あー、そういえば最近、新しく開店するっていうとラーメン屋ばっかりだよな」上川さんは黒木さん相手のお喋りを続ける。「俺が子供の頃なんて、ラーメンを食べる店って言ったら大衆食堂だったもんだけど」

「ラーメン専門でやる方が、商売としての効率がいいのよ」黒木さんはその話題に詳しいようだ。「この店の場合、野上さんがいろいろ作りたい人だからこの形でやってるけど」

「そういや、前にリムくんも言ってたね。ラーメン屋で働いても同じことばかりでつまらない、修業にならないからこの店がいいって」

 リムくんというのは誰だろう。他にも店員さんがいるのかもしれない。――そんなことを考えつつ、リコは二人の話に耳を傾けていた。

「リムくんっていうのはここの見習い料理人です」黒木さんが説明してくれた。「インドネシア出身でね、野上さんについて修業してるの」

「あれ、前に中国系って言ってなかったっけ?」

「国籍はインドネシアらしいわよ。日本語を勉強したくて留学までしたけど、どうせアルバイトするなら自分のルーツの中華料理も勉強したいんだって。真面目な子なのよね」

 店員さんにもお客さんにもそれぞれの背景があって、それが何気ない会話から垣間見える。リコにとって、そういう話に耳を傾けるのも勉強だった。

 本当はチャーシューの写真を撮るだけじゃなく、こういうお客さんとの会話にこそカメラを回したい。そこから見えてくるドラマがあるはずだし、そんなドキュメンタリー映画を撮りたいのだ。

「それで――煮豚の話だけど」黒木さんは話を戻した。「豚肉を煮て味をつけると、ついでにダシもとれるじゃない。その豚ダシをラーメンスープに活かしちゃうわけよ。チャーシューを作るついでにスープにも使っちゃえば、お店としては手間もコストも省けるもの。それで大抵のお店は、チャーシューは焼かずに煮るんだって」

「はー、なるほどねえ」上川さんはあらためてチャーシューを見つめた。「じゃあここのは、焼いてあるぶん贅沢って思った方がいいのかな」

 黒木さんは「そうねえ」と微笑んでいる。――二人の会話はそこで途切れたので、リコは口を挟むことにした。

「あの、それって実は――今回の企画の結論みたいです」

 リコも事前の企画会議や資料で教わっていた。『チャーシューのことを焼豚と呼ぶのに、たいてい煮豚なのはなんでだろう?』という疑問に対しては、『その方が合理的だから』とか『一手間で二度美味しいから』なんて答えが用意されているのだ。番組では、百軒の店を調査することによってその答えに行きついたような演出と編集が施される。

 そんな話をすると、上川さんも黒木さんも感心したような声を上げてくれた。上川さんはグラスのビールを口にして、ふと思いついたように呟いた。

「でもさ、そんな結論があるんだったら、わざわざ百軒も回る手間かけなくたってよさそうなもんだよな」

「……そうですよねー」

 リコはつい、深く頷いてしまった。ついでにため息もついていた。

 日頃から頭をよぎっていることなのだ。努めて考えないようにしている、といってもいい。

「でもテレビの現場って、そういう手間をかけたがるんですよ。そりゃあ、無駄な手間じゃないのかなって思うこともありますけど――自分は下っ端なんで、そんなこと言えません」

 番組制作の現場は上意下達である。手間仕事は下に回ってくる。いちいちそれが無駄だなんて主張していたら、お前の方が無駄だとはじき出されるのがオチだ。

 まあしかし、そんな手間をかけたおかげで、私はこうやって天福飯店に来ることができた。――そんなことを言ってみようかなと考えた。だけどチャーシューや餃子しか食べていない身で分かったようなことを言うのも生意気かもしれない。

 その時、厨房で野上さんが声を上げた。

「――はい、海鮮焼きそば、お待ちどう!」

 見れば、その皿がカウンターの上段に置かれるところだった。料理から湯気が立つのが見えたと思ったら、ふわりといい香りが漂ってくる。

 ついさっき注文したばかりな気がした。カウンターでのお喋りを楽しんでいるうちに料理が終わっていたらしい。

 職人芸という言葉が頭をよぎった。いただきますと言いながら、両手を皿に伸ばす。

 さっき沈みかけた気分が、一気に明るくなった。

 

4

 

 最初にエビの赤みやイカの表面に刻まれた格子模様に目がいった。それからキクラゲやタケノコが入っていることに気づく。麺にはしっかり焼き目がついていて、それをとろみのついた具が覆っている。どうやら麺だけで焼いた上から海鮮や野菜を炒めた具をかけてあるようだ。

 味付けはシンプルに塩コショウだろうか。とろみのついた餡が麺によく絡む。軽く麺をすすったら口の中にイカの香りが広がった。イカってこんなに味が濃かったっけと意外に思うほどの風味だ。さっき豚肉ダシの話をしていたが、イカのダシも大したものだった。

 麺はゴマ油で焼いてあるらしい。油と焼き目が香ばしいと思ったら、中太麺の奥にはもちもちした柔らかさも残っていた。予想よりもずっと食べ応えのある焼きそばだった。

「――美味しい!」

 手で口元を押さえながら声を上げた。とろみのおかげで熱々で、口の中の熱気を外に漏らしたかったのだ。

 野上さんがにこりと笑って一礼してくれた。上川さんは羨ましそうな声を上げた。

「いいなあ、俺もアタマだけ頼んじゃおうかな」

「あれ、いいの?」野上さんが尋ねた。「レース前はビールとツマミだけって言ってなかったっけ?」

「だから麺は抜いてアタマだけって思ったんだよ」

「まあご注文とあらば作るけど」野上さんはからかう口調になった。「食べ過ぎてタイム落としてるようだと、また俺が追い抜いちゃうよ」

 聞けば、上川さんと野上さんはランナー仲間らしい。よく同じレースを走っていて、タイム的には上川さんが勝つことが多いということだった。しかし近ごろは年齢のせいかタイムが落ちてきて、しばしば野上さんが終盤で逆転するのだという。

「ったく、料理人は日頃から鍛えてるからなあ……」上川さんがぼやいた。「中華料理ばっかり食べてたら、普通はもっと中年体型になるもんだぜ?」

「うちのはヘルシー中華ってことじゃないかなあ」

 そんな会話をBGMに海鮮焼きそばを食べ進めた。細く切った白菜がたくさん入っているから、確かにヘルシーな料理かもしれない。きっとチャーシューよりもヘルシーなことだろう。

 グラスのビールを飲み干したら、野上さんが付け合わせのスープを出してくれた。こちらは中華系のダシがあたたかく香って、いい舌休めになる。上川さんはビール瓶をとって注ごうかという仕草をしてくれたが、頭を下げて辞退しておいた。

 そんな食事の最中、二人連れの客が入ってきた。年の頃はリコにも近そうだからまだ二十代だろうか。どちらも眼鏡をかけていて、なんだか陰気な雰囲気だ。大学だったら理系の学部にいそうなタイプだった。

 黒木さんが「いらっしゃいませ」と声をかけた。二人連れの背の高い方がカウンターに近づいて野上さんに話しかけた。

「あの、こないだお願いした動画撮影なんですけど――そこのテーブル、いいすか?」

 入口のすぐ脇、L字型のカウンターの短い辺と壁と本棚に囲まれたところにあるテーブルが空いていた。そこに通された二人は、背負っていたデイパックから撮影機材を出し始めた。

 リコは動画撮影という言葉が気になって横目で様子を見ていた。スマホを固定する三脚とかイヤホン端子に接続するマイクとか、全て卓上に載る小型の機材で、とてもプロ仕様には見えない。素人の動画配信者のようだ。

 二人はラーメンと炒飯と餃子を注文した。そして壁際に並んだ椅子に並んで腰かけ、咳払いしたり背すじを伸ばしたりしている。――どうやら料理がくる前から撮り始めるようだ。

 何やら小声で言葉を交わした後、向かって右側の背の低い方が腰を浮かせ、三脚の上のスマホを操作した。彼が座り直すのを待って左側の男が喋り始めた。

「はい、そんなわけで、今週も始まりました。ナカノサバクのグルメリポート――」

 そこで背の低い方も加わった。番組名を一緒に唱和するパターンらしい。

「メシウマ~!」

 二人で声を合わせたわりには締まりのない声だった。他の客もいることを意識しているのか、遠慮がちな声量なのだ。かといって完全な小声というわけでもなく、カウンター席からはしっかり聞き取れた。

「そんなわけで今回はー……西新宿の天福飯店ってお店に来ています。私、マサノリがたまたま見かけて、ちょうどいいかなと思って撮影許可をとってみたら、快諾させていただきましたー!」

 慣れた感じの口調で喋り始めたマサノリくんだったが、どうも文法がおかしい。テンポはいいだけに浮わついた印象の喋り方だった。

 リコが軽く眉をひそめたところで上川さんと目が合った。彼も苦笑めいた表情でうなずいている。「妙なのが入ってきたね」とでも言っているみたいな表情だった。

「いい感じに古びた町中華、って感じですねー」右側の小柄な男も喋り始めた。「そうだ、後で外観も撮っとかねえとな」

「ああ、俺一応、さっき撮っといたよ。アキトを待ってる間に」

「うわ。気ぃきく~」

 段取りがいいのか悪いのか、二人はちょっと大げさな口調で喋っていく。どうやら料理が届くまで二人のトークで繋ぐという段取りらしい。

「例によって、ラーメンとギョーザとチャーハンを注文してみました」

「今回の味はどんな感じかなー。店を見つけたマサノリも、まだ食べたことはないんだよな?」

 何を話すかはあまり決めてなかったようで、なんとなく間延びしたやり取りが続いている。――そこで、カウンター席の上川さんが口を開いた。

「――まあ、今日のところは海鮮アタマも我慢して、このへんにしとこうかな」

 皿に残っていたチャーシューを平らげ、最後のビールをぐっと飲み干す。立ち上がったのは、黒木さんに向かってお勘定を頼む合図だったようだ。

「それじゃ、またね」リコにも声をかけてくれた。「――例のチャーシュー企画、楽しみにしてます」

 番組とか撮影とかいう言葉は使わないで挨拶してくれたようだった。リコからは放送日のことを伝えておいたが、配信者たちに聞きつけられたら面倒かもしれないという配慮だろう。

 多分、ナカノサバクとかいう配信者たちのトークは上川さんの好みではなかったのだ。その気持ちはリコにも分かった。――別に聞き耳を立てたいほどの話じゃないのだが、独特の喋り方で声を上げていられると気になってしまう。そのせいで微妙に居心地が悪いのだ。

「じゃあ、ごちそうさまでした!」

 上川さんは厨房に軽く手を上げて退店していく。――後から思えば、彼は実にいいタイミングで席を立っていた。そのあたりの見極めがうまいあたりが常連客の経験値というものかもしれない。

 

5

 

 ちょっと落ち着かなくなったとはいえ、海鮮焼きそばは急いで平らげるのがもったいない味だった。しっかり味わって食べようと思うと、どうしても配信者たちのトークが聞こえてきてしまう。

 ナカノサバクの二人は、いよいよグルメリポートにとりかかっていた。

「さあ、まずは餃子から到着です!」

「あーあ、五個じゃねえか! ラスト一個で喧嘩になるパターンです」

「なら最初から二皿頼め、って話なんですけどねー。低予算でやってますから」

「そうそう。動画で宣伝するから只にしてくれー、なんて迷惑系ユーチューバーみたいなことはしてませーん」

 本人たちは楽しいトークを展開しているつもりなのだろう。だけど、どうもどこかで聞いた事のあるような言い回しが多かった。どこか投げやりで馬鹿にしたような、二人の間の内輪ウケの雰囲気が鬱陶しい。

 だからといってリコが文句を言う筋合いではないのだが、トークの中にはだんだんと、文句をつけたくなるような言葉が混ざってきた。

「――うわ、やべえ。この餃子美味いよ」

 小柄な方が、太い眉をひそめていった。餃子が美味しいならよかっただろうに、なんだか不吉なことでも起きたような表情だ。

 背の高い相方もここぞとばかりに応じる。

「パリッと焼けてるのがいいね。ゲロうま!」

「いやいや、ゲロうまを通り越して、クッソいけます!」

 料理の美味しさを表現するのにその言い方はないだろう。飲食店で口にすべき言葉とも思えない。何か内輪ウケの定番フレーズなのだろうか。

 美味しいものを素直に褒める気がなさそうなのが気になった。わざと嫌な言い方を選んでいるようでもある。そうやって悪意のフィルターを通すのが彼らの配信のスタイルみたいだった。

 本人たちがその悪意を面白がっている様子が鼻についた。傍で聞いていてもちっとも面白くないのだ。なのに本人たちは互いの台詞に笑ったりしている。

 おまけに慣れてきたのか、だんだんと声が大きくなってきた。二人してスマホのレンズに向かって喋っているせいで周りが見えていないのかもしれない。

 じゃあ見えるようにしてやろうか、と考えた。リコが今、立ち上がって文句を言ったらどうなるだろう。聞かないようならスマホのレンズを塞いでやればいい。撮影を邪魔されたらさすがに態度を改めるはずだ。

 そうしてやろうかと思う一方、ここで自分などが出しゃばるのも申し訳ないと思った。この前はリコだって撮影させてもらった身だし、その後に初めて食事に来た新参者なのだ。揉め事など起こしたらお店の人たちにも迷惑だろう。

 リコがそんなことを考えているのに気づいたのだろうか。そこで黒木さんが動いた。そっと二人に近づき、画面には映らない位置から控えめに声をかける。

「あの――他のお客さんもいらっしゃいますから、もうちょっと声、抑えめでお願いしますね」

 言われた二人は、一瞬ぴたりと固まった。それから「すいません」と謝ったが、何故か謝る声の方が小声だった。

「……いやー、怒られちゃいましたねー」

「表現者はいつの世も迫害されるってやつだな」

「いや、迫害じゃねえだろ。悪いのはこっちだから!」

 そうしてボケとツッコミのやり取りにもっていった後、二人して笑っている。外野のリコとしては、反省してるのかなあと思わずにはいられなかった。冷笑的というのか、注意した側を小馬鹿にする響きがあった。

 次いでラーメンが運ばれてきたが、そこから二人は喋り方を変えた。スマホに顔を近づけ、何ごとか囁きかけるようになったのだ。おかげで嫌な思いをすることも減ったが――それはそれで嫌味でやっているようにも思えた。

 それに、聞こえるか聞こえないか微妙な小声というのが癪だった。何を言っているのか余計に気になってしまう。二人が小声でジャンケンを始めた時などはついついそちらを見てしまった。

 

 

(つづく)