タイピーエンとムースーロー
6
それにしても、どうして「太平燕」という名前なのだろう。
きっと「太平」というのは苗字ではあるまい。何か縁起のいい由来がありそうだ。そういえば中華料理で燕の巣は高級食材だと聞いたことがある。
上着のポケットからスマホを取り出した。太平燕について検索してみようと思いついたのだ。食事中のスマホ操作なんて行儀が悪いかもしれないが、この店で見咎められたりはしなかろう。他にもスマホをいじっているお客はいたし、それを誰も気にしない大らかさが漂ってもいる。そんな店の一部になっていることが心地よかった。
検索してみたら、まず農林水産省というのが出てきて驚いた。熊本の郷土料理ということで国の機関が紹介しているのだ。純奈が知らなかっただけで、太平燕というのは有名な料理だったらしい。
何やら難しそうな説明が載っていたが、中国の福建省の家庭でお祝いの時に食べるスープ料理がルーツだという話のようだ。やはり燕の巣にちなんでいるようだが、春雨を燕の巣に見立てたのではなく、揚げたゆで玉子の表面に浮き出た皺が燕の巣のイメージらしい。その揚げ玉子のことを太平卵と書いてタイピーノンと呼び、縁起のよい料理とされているということだった。
他のサイトでは別の説も紹介されていた。天下太平の宴という意味の「太平宴」が転じて「太平燕」になったとか、「太平卵」と呼ばれたアヒルの玉子の代用で揚げた鶏卵を使ったとかいうのだ。こうなると、諸説入り乱れて何が正しいのかよく分からない。
一方で、複数のサイトで一致している情報もあった。九州各地に移住してきた華僑の料理として広まったとか、太平燕が元になって長崎ちゃんぽんが生まれたとかいった話は歴史的な定説のようだ。熊本県で定着して広く親しまれているとか、給食の献立に入っているとかも現在進行形の情報で間違いなさそうだった。
たくさんの人が思い出や思い入れと共に太平燕について書き込んでいる。その様が楽しかったし、いま食べている料理の味を大勢の人たちと共有している気分になれた。太平燕のおかげでこの場にいない人たちと食卓を囲んでいる感覚を味わえた。
この天福飯店のメニューに入っているのも何かしらの思い入れがあってのことだろう。――これからこの店に通ったら、その背景を知ることもあるだろうか。勝手にそんな期待感まで抱いてしまった。
太平燕にまつわるあれこれを読みふけっている間に、丼一杯の太平燕を食べ終えていた。
しっかりボリューム感のある一杯だったが、春雨があっさりしていたおかげで食べやすく、もたれたりもしない。店員のおばさんが言っていたくらいだから、カロリーの心配もしなくていいのだろう。しっかり満腹して美容にもいいならありがたいかぎりだった。
純奈が席を立つと、彼女は自然な足取りでレジのところに回ってくれた。会計を済ませる間に言葉を交わすことができた。
「すごく美味しかったです!」
「よかった。美味しそうに食べてもらえて、こっちも喜んでたのよー」
「あの――食べながら、ネットで調べてみたんです。太平燕って、熊本のお料理なんですね」
「あら、そうなの?」意外そうな顔をされた。「普通に中華料理だと思ってたわ」
「あ、中華は中華なんですけど、中国から熊本県とか、九州の方に伝わったみたいです」
慌てて言い添えた。なにしろ付け焼刃の知識だ。誤解を与えたら申し訳ない。
「ああ……たしかこちらの奥さんが、九州出身って話だったから、それでかしらね」
口元に浮かぶ笑みが、ちょっと寂しそうに見えた。触れない方がいい話題なのかもしれない。
そこに次のお客が入ってきた。二人連れの女性だったから、純奈のいたテーブルに案内されることだろう。
「あ、じゃあ、私はここで」
わざわざ見送ってくれなくても、という仕草をしてみせた。忙しい時間帯だ。あまり手間をかけても申し訳ない。
「ほんとに美味しかったから、また来ますね。なるべく早めの時間に」
最後に言い添えた。最初に入れ違ったお客たちの話を思い出したのだ。
「ありがとう。お待ちしてまーす」
笑顔で送り出された。――厨房に目をやると、店主もこちらに一礼してくれていた。
店を出た。またどこかに歩いて行こうかと考え、思い直した。
来た道を引き返した。天福飯店のおかげで気分転換はできたのだ。逃げていないでオフィスに戻ろう、と決めることができた。
7
翌日は早めに出社した。始業時間の前に資料室を訪ねてみようかと思いついたのだ。
部屋の鍵はかかっていなかった。天井の灯りもちゃんと点いた。午前の光が当たらない部屋のようで、照明なしでは怖くて入る気になれなかったかもしれない。
資料室と呼ばれてはいても実情は物置である。常駐スタッフもいない。社史編纂室という部署がリーマンショックの頃に廃止され、空き部屋には他の部署で邪魔になった物が置かれるようになったらしいのだ。古い事務机の上に業界誌の束が積まれているあたりは一応資料室らしくも見えるが、旧式のプリンターやノートPCなどは何のための物か分からない。蛍光灯や電球の詰まった段ボール箱には埃が積もり、備品だかゴミだか判然としない有り様だった。
和室だったら六畳から八畳くらいの広さだろうか。壁沿いにスチール製の本棚があり、分厚い布張りの本が並んでいる。きっとそれが昔の社史だろう。純奈も実物を見るのは初めてだった。
今は社史といっても会社の公式サイトのコンテンツの一部となっている。一応年ごとに更新されているらしいが、その編集も外注に出されているという話だ。純奈だって就活の時の資料で見たのが最後だ。入社してからは全く見たことがない。
もちろん古い書物としての社史なんて手に取るのは初めてだ。別に悪いことをしているわけでもないのだが、変な緊張を覚えずにはいられなかった。
天福飯店の赤いアルバムの日付と同じ年次のものを探した。棚から一冊抜き出して、脇の事務机に置く。立派な装丁の表紙を開くと埃っぽいにおいが漂った。
社長の挨拶とか数値データとか、業績の記録とかのページは全てすっ飛ばした。社史を作っていたのなら、後ろの方に編集スタッフの名前が出ているんじゃないかと思っていた。雑誌なら編集後記とか、単行本なら後書きとか奥付のあるあたりだ。
珍しい字のスズキさん――天福飯店で仕入れた手がかりはそこまでだ。珍しいというなら、一般的な「鈴木」という字ではないのだろう。彼が社史に携わっていたのなら、どんな字のスズキさんなのか分かるかもしれない。
知ってどうするわけでもない。たった一度、面接で顔を合わせただけのおじさんだ。何を話したかも思い出せない。どんな字を書くか分かったところで手紙を出したりする用もなさそうだ。
ただ妙な好奇心が膨らんでいた。たぶん天福飯店で食べた太平燕が美味しかったからだろう。それまで知らなかった名前の料理に出会えて、たくさんの人とつながっている気分になれた。そこで見つけた小さな謎を解くことができたら、会社で過ごす間にも味方がいるように思えるかもしれない。
ほんの気まぐれの思いつきだった。だけど、そのために一人こうして資料室に入ってみるのは意外なくらいに胸が躍る経験だった。重要機密を狙う産業スパイはこんな気分なのかもしれない、などと考え、一人でそっと微笑んだ。
謎はほどなく解けた。――奥付欄に「編纂室」という項目があったのだ。そこに並んだ中に、須々木正明という名前があった。
なるほどと納得した。こうして字面を見てみればよくある名前にも思える。スズキといえば鈴木だと、いつの間にか思い込んでいただけだ。佐々木と代々木とか、同じ字を重ねる名前は珍しくないのだ。スズキのズの字に濁点がついているのに気をとられてその可能性を考えつかなかった。
右頬に痣のある銀縁眼鏡のおじさんは、須々木正明さんだった。そうやって名前がついてみるとあらためて親しみが涌いてきた。須々木正明さんは天福飯店の常連のスズキさんで、純レバ丼を頼んだ時に記念写真を撮られたらしい。その時カメラを構えていたのは誰だろう。
社史編纂室というのは人員整理をしたい時に使う窓際部署だったという噂を聞いたことがあった。須々木さんは定年まで勤めたらしいから、閑職に回されても家族のために頑張ったのだろうか。この、狭くて日当たりの悪い部屋で働くのはどんな気持ちだったのだろう。
きっと家庭ではいいお父さんだったんだろうなと想像してみた。特に根拠はない。勝手にそう思っただけだ。そんな空想をしてみるのが楽しかった。
と、そこで思い出した。――就活の面接、集団面接の時のことだ。
その時に須々木さんと言葉を交わした。たしか、「あなたの長所を教えてください」とかいう質問だった。
純奈は「努力に向かって我を忘れて猛進するところです」などと答えた。その後で短所を聞かれたら「時々周りが見えていないので、周囲への配慮を忘れないようにしたいです」という答えも用意してあった。
その時、面接官の一人がぽつりと呟いた。それが顔に痣のある人物、須々木さんだった気がする。
「我を忘れちゃうと、後々きついよ」
圧迫面接のように追い込んできたいわけでもなさそうだった。普通に会話していて、思わず漏れた言葉のようだ。純奈に向かって個人的にかけてくれた言葉にも思えた。
それで咄嗟にどう反応していいか戸惑った。口ごもる純奈に、須々木さんは「まあ、忘れたらまた見つけりゃいいか」と付け足した。それで空気が和んで、純奈も笑みを浮かべることができた。
他の試験官は取り合わず、そのまま話題が移っていったような覚えがある。――もしも今、あの面接の場に戻れるとしたら、須々木さんに質問を返してみたいと思った。
もちろん就活の面接でそんな真似をするわけにもいかなかった。だけど、もし彼と打ち解けて話すことができていたら、きっと何か教えてもらえただろう。「我を忘れるとどんな風にきついんですか?」とか「また見つけるって、どうやればいいんですか?」とか、須々木さんの意見を聞いてみたかった。
昼休みや仕事終わり、会社から離れた天福飯店まで歩く時、彼はどんなことを思っていたのだろう。会社員として充実した日々ばかりではなかったはずだ。
だけどきっと、天福飯店には上司も同僚もいなくて、ただ常連のスズキさんとして美味しい料理を食べることができた。そんな店内で知り合っていたら、もっといろんな話ができただろうか。
今の自分なら、彼があの店まで通っていた気持ちも分かる。純奈自身もまた行きたくなってきた。
次に行くときは昼前の時間に行ってみるつもりだった。だけど夕方から夜の時間帯に行くのはどうだろう。また違った雰囲気が味わえるのかもしれない。
社史を閉じ、棚に戻した。部屋の明かりを消して廊下に出る。
エレベーターに向かいながら、次は何を頼もうかなと考えていた。
(つづく)