タイピーエンとムースーロー
4
棚には青いアルバムの他、赤と緑と白のアルバムが並んでいた。
しかし何故か、日付は数年前までだった。それより新しい写真はここには並んでいないらしい。
青のアルバムの日付は赤のアルバムに続いていた。そこに収められた写真には、店員のおばさんらしき人も写っていた。今よりずっと若くてだいぶ細いけれど、人好きのする笑顔は変わっていなかった。
最初から店員だったわけではないのか、客席のテーブルに座ってビールのグラスを手にしている。そこに瓶からビールを注いでいるのは隣に座った小太りの三十男だ。にこやかな雰囲気からしてこの二人も夫婦かもしれない。
他にもう一人、見覚えのある人物がいた。右頬のあたりに大きな、ほくろだか痣だかのあるおじさんだ。歳の頃は五十代後半くらいだろうか。銀縁眼鏡で、髪はだいぶ薄くなっている。
誰だっけと考えた。写真の表情はにこやかだったが、取引先の管理職みたいな雰囲気が漂っている。営業先で会った人の顔や名前を全て覚えているわけではないけれど、どうも記憶を刺激する顔だった。
彼は壁際の席に座り、笑いをこらえたような顔でメニューの札を指さしている。手書き文字で「天津丼」とか「餃子定食」とか記された札の間、「純レバ丼」という札だ。それを注文したぞ、という写真のようだった。
彼の正体と同様、純レバ丼というのも謎だった。「レバ」というのはレバーかなと察しがつくが、「純レバ」となると何が違うのだろう。自分の名前にも純という字が付いているせいか、こういうことは妙に気になる。
黄色い表紙のメニューを開き直した。たしか「ご飯物」というページがあったはずだ。太平燕に「特製八目春雨」という説明があったように、純レバにも何か説明があるかもしれない。
今は店内の壁に木札メニューはかかっていない。きっとどこかで切り替えたのだろう。メニューが増えて木札のスペースが足らなくなったのだろうか――などと考えながらページをめくっていたら、「ニラレバ定食」というのが目についた。
ご飯物の前に定食のページが開いたのだ。こちらは純レバじゃなくてニラレバ、レバーと野菜のニラとを炒めた料理だろう。中華系の定食の定番という気がする。
ということは、純レバ丼にはニラが入っていないということだろうか。ニラと合わせたレバーではなく、純粋にレバーだけを味わえるのが純レバなのかもしれない。
と、そこで思い出してしまった。――「タラレバ」という言葉だ。
ニラとレバーの話ではない。魚のタラの話でもない。
嫌な気持ちになったのは、上司の冷たい口調を思い出したせいだった。
「――タラレバの話はやめましょう」
純奈に向けられた言葉だった。あくまで穏やかな声で、無感情に冷徹に告げられた。
きっと嫌味を言っているつもりもなかったはずだ。上司として、部下に対して言うべきことを淡々と口に出しただけだ。
「なるほど、テナント条件が変更された、という事実はあったかもしれない。貸主様の意向を把握していたら営業先でも違う対応をとれたかもしれない。変更内容さえ分かっていれば契約段階で揉めることもなかったかもしれない。しかし、そういうタラレバは机上の空論、仮定の話です。貸主様と借主様、双方のご都合を調整するのが仲介営業でしょう。事情が変わったことを云々するのは明里さんの仕事じゃないはずだ」
向井課長はそこで小さくため息をついた。無駄に彫りの深い顔なので、そういう仕草がどこか芝居がかって見えた。
純奈に言わせれば、そのテナント条件の変更が共有されなかったのが問題なのだ。そういう情報共有はこちらの組織の問題、そこを円滑にするのが管理職の仕事でしょうと言い返したくなる。その点をうやむやにしたまま「明里さんの仕事」と言われたって困ってしまう。
ただ仕事が増えるだけならいい。貸主や借主に頭を下げることだって通常業務だ。しかしことの発端、情報共有ができていないことまで純奈の責任のようにされている節があった。功を焦った純奈がきちんと確認をとらずに先走ったことにされているようなのだ。
陰口とかやっかみとか言いたくはないが、純奈の足を引っ張りたい者がいたのかもしれない。陰口の社内稟議なんてものがあるのか知らないが、組織管理の問題が回り回ってこちらの落ち度にされている。
きっと純奈だけが叱責される形で片付けばほっとする者もいるのだろう。周りの誰も口を挿まなかった。オフィスには沈黙がたちこめ、純奈は一人だけ取り残された気分になった。
与えられた目標めざして頑張った。なのに、そのせいで孤立している。誰も味方してくれない。
じゃあ私は、何のために頑張ってきたのだろう。――そう思うと虚しくなった。
目の前に確かな目標があれば迷わない。子供の頃から努力するのは得意だった。受験も就活も仕事もそうやって頑張ってきた。
だけどそれは、迷わずに済む道を選んできたというだけだったのかもしれない。こうして目標が定かじゃなくなると、急に足場が消えたような気分になった。
私はどこに立っていたんだろう、本当の私は何なんだろう――なんてことさえ考えたくなった。そんなことを考えている場合じゃないと思うのに、気分は勝手に落ち込んでいく。
気づいたら次のプロジェクトから外されることまで決まっていた。余計な真似はするなと無言の圧力でも受けているようだった。
誰もそのことには触れてこなかった。だけど同僚からは冷笑的な視線を向けられている気がした。席を離れ、給湯室で事務職の同僚に愚痴をこぼしたら「そういう上司対策も含めてうまくやるのが営業の実力なんじゃない?」とか「そこで文句言ってると浮いちゃうよ」などと言われてしまった。突き放されてさらに孤立感を味わった。
あるいは日頃から、部内で浮いていたのだろうか。上司に反抗的なキャラクターと見られているのだろうか――なんて考えまで頭をよぎった。
その話題を持ちかける相手もいなくなった。一人でいるとマイナス思考ばかりが広がる。何か間違えていたのかもしれない。仕事への向き合い方とか、社内の人間関係の築き方とか。
内向きの考えからは逃げ場がなかった。立ち位置を見失い、これからどうしたらいいのか分からなくなるだけだ。それで、オフィスから外に出ようと思い立ったのだった。
せっかくそれでリラックスできかけていたのだ。なのにタラレバという言葉のせいで思い出してしまった。ニラレバ定食や純レバ丼に罪はないけれど、そういう料理を頼んでいなくてよかったとさえ思った。
気分を変えよう。――客席の間を動き回り、てきぱきと働いている店員のおばさんに目を向けた。カウンターの客が会計を済ませたタイミングで声をかけた。
「あの――ちょっとうかがっていいですか?」
赤いアルバムを手に取った。純レバ丼のおじさんの写真を指さした。
「この写真の方、どなたでしたっけ? たしかお会いしたことがあるんですけど……」
なるべく無邪気な声で尋ねてみた。まさか中年男相手のストーカーと思われることもなかろうが、あまり詮索がましい態度をとるのも行儀が悪い。
幸い怪しまれずに済んだらしい。彼女はにこやかに、「あら懐かしい」と応じてくれた。
「このお店の常連さんで、スズキさんって方ですよ。ちょっと珍しい字なのよね」
「はあ……」
スズキさんと言われても思い出せなかった。むしろありふれた名前という気がするけれど、珍しい字というのはどんな字を書くのだろう。
「お勤め先が近いとかで、よく来てくれてたのよね」おばさんはカウンター席を片付けながら言った。「何年か前に定年してからはご無沙汰だけど――ああ、ちょっと前に一度いらしたかな。近くに来たついで、なんて言って」
「どちらの会社ですか?」
「ええと、たしか――東洋なんとか。東洋エステティックだったか東洋エステートだったか、そんなような名前だったかしらねえ。シャシを作ってるんだって言ってたわよ」
「――シャシ、ですか?」
「ほら、会社の歴史、みたいな」
「ああ、社史ですね」
「そうそう。そんなようなこと言ってたわ」
疑問が解けて、彼女は丼やグラスを抱えて下がっていく。残された純奈は一人でふっと息をついた。
営業先、どころではなかった。どうやらその社名は純奈の勤め先のようだ。見覚えのある人物は会社の先輩だったのだ。
もしかしたら入社試験の時に会ったのかもしれない。面接官の一人の顔に青黒い痣があり、面接中に気になったのを思い出した。
結局その面接に通って就職できたのだ。恩人と呼んでもいいかもしれない。退職しているのなら会う機会もなさそうだが、こういうお店のアルバムで再会するというのも不思議なものだった。
あらためて写真を見た。面接の時とはずいぶん印象が違う。面接官の時は真面目な顔しか見なかったが、この店のメニューを指さす写真ではちょっとおどけているようだ。
他のページや、別のアルバムにも載っているだろうか。――探してみようかと思ったところで声をかけられた。
「はい、特製春雨ことタイピーエン、お待たせしましたー」
ふわりといい香りが漂った。野菜炒めとゴマ油の香気の中に、魚介とか豚骨とか、食欲を刺激する味わいの気配が溶けこんでいる。
手にしたアルバムを閉じた。何はともあれ、あたたかいうちに食べたい料理だ。
そうやって食欲が涌いてくることにほっとした。
5
意外なことに、太平燕はスープ春雨の料理だった。
無意識に春雨を炒めた料理かと思い込んでいたのだ。春雨料理と聞いた後、アルバムのメニューでは焼きそばの下に載っていたからだろう。
白い丼がテーブルに置かれた途端、ふわりと湯気に包まれた。それだけで嬉しくなるし、丼の中も壮観だった。
まずは具の頂上に載った玉子に目を奪われた。半分に切ったゆで玉子だ。黄身は鮮やかに黄色いけれど、外側の白身には茶色い縞模様ができているところを見ると、茹でてから揚げたものを切ったようだ。
その周りにはエビやイカやナルトが散らばっている。「特製八目」と書いてあったとはいえ、思いもかけない取り合わせだった。
具の中心は長ネギやタケノコ、白菜やインゲンやニンジンやキクラゲといった野菜類だ。そこに豚コマや魚介類を加えて炒め、とろみをつけてある。それがスープ春雨の上にかかっているので、彩り豊かで具沢山に見える。
レンゲを手に取り、まずはスープをすくってみた。白濁スープかと思ったが、湯気を払うと澄んでいる。口にしたら意外なくらいあっさりしていて、豚骨や鶏ガラを合わせた塩スープだと分かった。
箸を伸ばし、具をかきわけて春雨を掴んだ。こちらも白く透きとおった麺だから、具の彩りの中に透明な光沢がよく映えた。
それこそスマホで撮影したいような眺めだ。でも今は味わう方が先決だ。ほどよく具と絡んだ春雨に息を吹きかけ、そっと口に運んでみた。
「!」
最初にスープを飲んだおかげで味の方向は分かっているつもりだった。なのに食感が加わったらまるで印象が変わった。
やわらかいのにコシもある春雨にネギやモヤシのシャキシャキ感が重なった。噛みしめたらイカの歯ごたえが待っていた。スープだけ飲んだ時よりずっと奥深い味わいが広がった。
これはスープ料理で正解だったかもしれない。炒めた春雨よりも意外性を味わえた。春雨には小麦の麺ほどの旨味はないようだけど、そのあっさり感がちょうどいい。春雨が周りの具の味わいを引き立ててくれるのだ。
スープの麺料理で比べるなら、ラーメンやパスタよりずっと軽い食べ応えだ。だけど満足感は変わらない。具の多様さでいったらこっちの方が上かもしれない。麺が主役ではなく、具とのコンビネーションを楽しむ料理なのだろう。
この調子でエビや豚肉も春雨と一緒に食べてみたくなった。キクラゲや白菜のような野菜の歯ごたえだって楽しみになってくる。つい箸で具だけをつまんだものの、春雨と食べた方がいいと考え直した。
それにこの先、揚げ玉子が待っている。それをいつ味わおうかと考えてしまった。ラーメンでは煮玉子の黄身で味変を楽しむなどというけれど、春雨ではもっと劇的に味が変わりそうな気もした。
入口が開き、新規のお客が入ってきた。店員のおばさんが席に案内するのを目で追いかけた。声をかけるチャンスをうかがった。
「――美味しいですね!」
ちらりと目が合った時、すかさず告げた。得意げな笑みを返してもらった。
「でしょう?」
ほんの一言ずつのやりとりが妙に嬉しかった。最初は孤食なんて言葉が頭をよぎったけれど、寂しさなんて感じなくていい店なんだなと分かった。
この席の椅子が店の内側に向いている理由まで分かるような気がした。きっとさっきのおじさん二人も、二人だけで並んでいるなんて意識せず、店内を見渡しながら食事していたのだろう。そういう楽しみ方もあっていいのだと教えてくれる席だった。
太平燕の丼に向かった。――大口を開けて春雨をすすったら、他のお客から見られるかもしれない。でも多分、誰もそんなこと気にかけないだろう。こっちも平気で、それぞれの料理や食べっぷりを見てもいいような気がした。
揚げ玉子をレンゲにのせて、そっと箸を入れてみた。まずは白身を一口大にして春雨と絡める。口に入れると、かすかに揚げ物の甘い香りが漂った。春雨の食感の奥にやわらかな歯応えを感じられた。
レンゲの中で黄身を崩した。その黄色を春雨にまぶし、スープや野菜と一緒に口に運ぶ。黄身のまろやかさに包まれて、また新たな味わいが広がった。
(つづく)