タイピーエンとムースーロー

 

 

 

 

 三月には部内の送別会が開かれるのが恒例となっている。新年度を前に異動が決まり、去るものと残る者に分かれるせいだ。

 人事の根拠になるのは成果だ。たとえ自分で納得していなくても、仕事の結果は数値で表される。その数値で判断を下す人がいて、働く場所やら内容やらが変わってくる。それを否応なく思い出させてくれるのが、人事異動というやつだった。

 幸い純奈は今の部署に残れた。冷遇されかけているとはいえ、とりあえずは現状維持だ。安堵と不満とを同時に味わった。地方支社に転勤となる同僚に複雑な思いを抱きつつ、表面だけは和やかな飲み会に参加した。同僚や上司とそつなく言葉を交わすことができた。

 だけど、内心の鬱屈のせいだろうか。少々飲み過ぎた。――翌日は夕方以降の予定が空き、また天福飯店に行くのにちょうどよくなったのに、胃が少しばかり重たく感じられるのは困ったものだった。

 二度目の訪店では純レバ丼というのに挑戦しようかとも考えていたのだ。しかしこの胃袋では、肉料理とか丼とかは避けたかった。意地でも天福飯店には行くとしても、もっとまろやかなものの方がいい。何か軽めのメニューで早めの晩ごはんということにしようと思った。

 定時退社して、まっすぐ店に向かった。この時間ならすいているかと思ったら、店内は何やら賑わっていた。団体客の予約が入っているというのだ。

 入って左側のテーブルが並べ直してあった。三卓つなげて十人くらいで囲める宴会席となっていたのだ。そこにはグラスや箸や小皿が並んでいるだけで人はまだ来ていなかったが、カウンター席には常連らしき人たちも座っていた。一人客が何人か、間を空けながら座っている。

 おかげで純奈はこの前と同じ席に座ることができた。そしてエプロン姿の若い女性店員が、お冷やではなくお茶を出してくれた。

「ちょと今、団体さんの料理にかかってまして」

 子供っぽい声で言い訳するように言われた。見ると、厨房では店主が忙しそうに中華包丁を動かしている。宴会の準備に忙しく、すぐには調理にかかれないから、その間はお茶を飲んでいてください、というサービスのようだった。

 今日の純奈にはお茶の方がありがたかった。お茶が出たおかげで、夜の部はアルコール類を頼まなきゃいけないようなお店じゃないことも分かった。簡単な食事だけでも構わないと言ってもらった気がした。

 カウンターの常連客の中には瓶ビールを飲んでいる人もいる。だけど今夜の純奈は一人で手酌酒という気分になれない。まずはメニューを開いてみたが、注文は自然と決まっていた。

「――太平燕、おねがいします」

 春雨なら胃にも優しそうだ。美味しいことはこの前でよく分かっている。厨房から聞こえるリズミカルな包丁の音を聞いているうちに、あの味を思い出していた。

「はい、少しお時間いただくかと思います」

 若い店員は伝票に太平燕の注文を書き込み、一礼して下がっていく。この前の割烹着のおばさんは夜は働いてないのかなと思ったが――カウンターの奥の方、厨房への入口のあたりにいる姿がちらりと見えた。

 その背中に何故だかほっとした。小さな湯のみを口に運んで一口飲んでみた。

 いい香りの中国茶だった。プーアル茶だとは思うが、独特の刺激がない。ずいぶんまろやかな味わいだった。お茶には詳しくないけれど、長いこと熟成されたものかもしれない。疲れた胃腸にもよさそうだった。

「あら、いらっしゃい。また来てくれたのねー」

 声をかけられ、顔を上げたら割烹着のおばさんと目が合った。お盆に小鉢を並べ、宴会席に運んできたところだった。

「夜の部は、いつもはもうちょっと落ち着いてるんですけどね。今日は近くの商工会の集まりなのよ」

「商工会、ですか」

「うん。夕方まで会議があって、その打ち上げで軽く夕食会、ってことらしいわ。大騒ぎの飲み会みたいにはならないから安心してね」

 それだけ地元客に愛された店なのだろう。――いい機会だと思い、純奈は調査結果を話してみることにした。

「前回来た時、こちらの常連だった須々木さんの話が出ましたけど――」

「ああ、はいはい」

「実はあの方、私の勤めてる会社のOBだったんです」

「あらあら、そうだったの」

「珍しい字のスズキさんって聞いて、気になって調べてみたんです。こう、『須』っていう字が重なる三文字なんですね」

 指で空中に「須」と書いてみせた。おばさん店員は懐かしそうに目を細める。

「そうそう。それでよく、ムースーローみたいな苗字よねー、なんて言ってたの」

「……ムースーロー?」

「そういう中華料理があるのよ。こう、『木』に、『須』に、『肉』って書いて――」

 今度は彼女の方が宙に字を書く。須々木さんとは木と須が共通する料理名というわけだ。

「木須肉」と書いて「ムースーロー」。純奈は知らない料理だったが、この店の人気メニューの一つだということだった。

「須々木さんも、定年が近づいた頃は毎日のように来店しててね、うちのメニューは一通り食べてくれたの。ムースーローもよく頼んでたわよ」

「自分の名前と似てたら気になっちゃいますよね」

 その気持ちは純奈にもよく分かった。純レバ丼が気になった理由の一つは、「純」の字が共通していた親近感だ。また胃腸が元気な時に食べに来たい。

「須々木さん、退職してからは滅多に来なくなったけど、今もお店宛てに年賀状をくれるのよ。奥さんとツーショットの、旅行の記念写真なんか印刷しちゃって」

「いいですね。そういうの」

「一度お店に来た時に、夫婦仲がいいんですねーってからかってやったの。そしたら、若い頃は仕事仕事で家のことも構わなかったから、定年後はツケのたまった女房孝行ですよって笑ってたわ」

 そこまで話したあたりで入り口の戸が開いた。顔なじみらしい団体客がぞろぞろと入ってきて、店員さんたちは接客にかかる。――純奈はプーアル茶を一口飲んで、本棚に手を伸ばした。

 この前も見たアルバムを、今度は透明ケースごと引っ張り出した。そんなに通っていたのなら、須々木さんの写真は他にもあるかもしれない。あらためて眺めてみたくなっていた。

 

 

 商工会の宴会は和やかに始まった。部内送別会とは違って、みんな寛いでいるようなのが羨ましい。

 最初に誰かが挨拶して一同で乾杯して――その後は他のお客と一緒だった。いろいろな料理が運ばれ、談笑の声が賑やかになる。純奈はその音をBGMに緑色のアルバムを眺めた。

 須々木さんの写った写真は何枚か見つかった。この前見たのと同じポーズで、「木須肉」というメニュー札を指さしている写真もある。やはり笑いをこらえるような、照れ隠しみたいな表情で写っていた。

 その笑顔にほっとした。きっと、奥さんと一緒に写っているという年賀状の写真でも、彼はこういう顔をしているのだろう。

 送別会の時、純奈は何人かに須々木さんの名前を出してみた。上司や古参社員の中には彼のことを覚えている人もいるんじゃないかと思ったのだ。社外の友人が彼の親戚らしいと作り話をしてみたら、思い出話を聞かせてくれる人もいた。

 そうして集めた情報によれば、かつて鈴木さんは営業部のやり手だったらしい。ところがある時、酒の席でトラブルを起こした。些細な喧嘩だったが、揉めた相手が会社に怒鳴り込んできて、ちょっとした騒ぎになった。それで出世コースからは外れてしまったんじゃないかということだった。

 短気な人だったとか、普段は温厚なのにいざとなると喧嘩っ早かったという話もあった。噂だから、どこまで本当かは分からない。だけどそういう社員がいたって不思議はない気もした。

 言葉では簡単に「出世コース」なんていうけれど、そういう道筋が決まっているわけじゃない。曖昧で不確かなものだ。人それぞれいろんな理由でつまずいたり外れたりする。地方に飛ばされたり、閑職に追いやられたりする。

 須々木さんにもそんな紆余曲折があったのだろう。その彼が天福飯店の常連となり、定年後は奥さんと旅行を楽しんでいる。何よりじゃないかと思えた。そっちの方がずっと確かなことだ。

 そんな話を、こうして天福飯店から教えてもらえた。そのことにほっとした。出世コースなんて曖昧なものよりも、須々木さんの噂話の方に人間味を感じる。信用できそうに感じる。

 緑色のアルバムを閉じ、白いアルバムを手に取った。このアルバムの背表紙には日付が書かれていなかった。

 五冊あるアルバムセットのうち、黄色はメニュー帳として使われ、赤青緑の三冊は店のアルバムとして写真が貼られていた。だけど残る一冊、白いアルバムはメニューでもアルバムでもなかった。そこには写真以外のものが収められていた。

 箸袋である。「天福飯店」と記され、住所や電話番号が印刷されたものだ。

 それが何枚も何枚も貼られているのだ。見るとどの箸袋に書き込みがしてある。細い余白に書かれたものもあれば、無地の裏面に書かれたものもあった。

『ごちそうさまでした。また来ます』

『実は大将の作るスブタのファンです』

『天福のギョーザ、今日も美味かった!』

 一種の寄せ書きみたいになっているようだった。筆跡はいろいろだったし、署名があるものもあればメッセージだけのものもある。料理の感想だけじゃなく、挨拶とか雑談みたいなものまであった。

黒木くろきさん、ちょっと痩せた? なんか最近きれいになったよね』

『祝・楽天優勝! みんなで応援できて最高でした』

 きっと食事をした後で、お店への一言を書いていったものなのだろう。それがお客の間で習慣になり、お店側はこうしてアルバムに保存しているらしい。それぞれの手書き文字から和やかな雰囲気が伝わってくるようだった。

 ページをめくっていくと『須々木』という署名も見つかった。丁寧な小さい字でメッセージが綴られている。

『木須肉定食、美味かった。おかみさんおすすめの逸品、頼んでよかったです』

 どうやら最初は店側からすすめられたらしい。木須肉はそれから須々木さんの好物になったようだ。

『不勉強ながら、この年まで知らなかった木須肉。キクラゲがいいですね。豚肉に比べたら脇役だけど、この脇役なしじゃ面白くない』

『キクラゲは不思議ですね。マツタケのように香りが強いわけでも、シイタケのように味が濃いわけでもない。しかし独特の歯ごたえが、ふわふわの卵とあいまって、ふわっとくにゃっと楽しめる。最高です』

 その後も、『今日も木須肉』とか『今日は豚肉より肉厚のキクラゲに遭遇!』などと書いてあった。そんな感想を読んでいるうちに純奈としても気になってくる。

『近ごろ仕事が暇なので、昼休みにウォーキングと食事を楽しんでいます。昼食は時間に追われる中の栄養補給でしかなかったのが、こうして天福に辿り着き、木須肉定食から食事の楽しみを教わった気分です』

 最初は箸袋の表側に書かれていたのが、後になるにつれて裏側に長く書き込まれるようになっていった。しまいには袋を開いて内側にびっしり書いてあった。

『三十八年に及んだサラリーマン生活でしたが、今日でとうとう定年退職となりました。その終盤、天福飯店に通えたことは小生にとっても得難い経験となりました。美味しい料理、というだけじゃない。日々この店に通ったおかげで、退職後のセカンドライフに向けて大切なことをたくさん教わった気がします。木須肉はいわばその象徴、こうしてサラリーマン最後の日にも食べられて、いい記念となりました』

 そこまで読んだあたりで、我慢ができなくなった。店員さんに声をかけていた。

「あの――さっきの注文、まだ料理にかかってなかったら、変更していいですか?」

「はいはい、ちょっと確認しますね」

 応じてくれたのは宴会席の近くにいたおばさん店員だった。――割烹着姿の彼女の名前は、たぶん黒木さんだろう。誰かが箸袋にメッセージを残した相手は彼女のような気がする。

「いま、箸袋の寄せ書きを見てたんです」アルバムを持ち上げて見せた。「須々木さんの感想を読んでたら、木須肉を食べたくなっちゃって」

 彼女はちょっと目を見開き、すぐににっこりと笑った。そして厨房を覗いたと思ったら、大きくひとつうなずいてくれた。

「大丈夫みたいよ。その話、マスターに伝えたらきっと喜んでくれるだろうし」

「じゃ、お願いします。木須肉定食、ごはん少な目で」 

「はい、木須肉定食一丁!」

 厨房には「タイピー取り消しでムースーローおねがいしまーす」と声をかけ、カウンターの端に行って伝票を書き換える。てきぱき動く彼女を見ていると、純奈の胃袋も元気になってくるようだった。

「すいません、お手数かけちゃって」

「いえいえ。木須肉も美味しいから、楽しみにしててね。太平燕はまた次に頼むといいわよ」

 その言葉に嬉しくなった。次回もまた来ていいんだと認めてもらえた気がしてくる。

 箸袋の寄せ書きのおかげもあるかもしれない。いろんな人が残した言葉が、今の自分を受け入れてくれているように思える。かつてのお客たちと語り合えたような気がしてくる。

 須々木さんが教わった「大切なこと」というのが何なのか、純奈にはよく分からない。でもきっと、彼は今も自分なりの幸せを見つけていることだろう。自分を見失うことがあったって、ちゃんと見つけ直しているはずだ。

 きっと純奈にも自分を見つけ直す時がきている。須々木さんが何かを見つけたように、次の目標を見定めようと決めた。この春に新たなスタートを切ることがきたら、新しい自分を作っていけそうな気がした。

 アルバムを閉じた。目を閉じ、小さくひとつ頭を下げた。

 初めて食べる木須肉はどんな味がするのだろう。――しっかりと味わって、その感想を箸袋に書いていこうと思った。

 

 

(了)