タイピーエンとムースーロー

 

 

 

 白い暖簾に赤い文字で、「天福てんぷく飯店」。

 染め抜かれた四文字の上下には中華料理の器にあるようなうずまき模様が並んでいる。

 間口の狭い二階建てだ。しっくい壁には小さなひびが入っているけれど、暖簾のれんの布地はきれいに洗濯してある。赤い文字のところだけ少しかすれているのは年季を経ているせいだろうか。

 お洒落さとは無縁。だけど地元で長いこと親しまれている店。そんな印象を受ける。

 赤信号に立ち止まり、純奈はぼんやりとその店を眺めていた。

 勤務時間中、束の間の散歩を楽しんでいるところだった。ちょっとした裏技を使って気分転換に出てきたのだ。

 あのままオフィスにいたら、きっと何か言い返していた。言い返したら聞いてくれるような上司じゃないが、それでもついつい言いたくなる。それで余計に事態を悪化させたら笑い話にもならない。

「まずは口頭でもいいから契約相手を見つけてこい、というお言葉だったはずですが」

 そんな言葉が喉元まで出かかった。誰も庇ってくれないオフィスの中で、口に出せない反論の言葉を持て余した。

 全くの事実だし、純奈から見たら筋が通っている主張だった。だけどそんな理屈が通らないのが部下という立場であった。

「もしかして――ご自分で言ったことも覚えてらっしゃらないとか?」

「それとも責任を部下にかぶせたいってことですか?」

 そんなことを言ってやれたら、きっと気持ちよかっただろうなあと思う。頭に浮かぶ言葉を口に出せないことがストレスだった。

 新たに建設される貸しビルのテナント仲介案件だった。契約の細かい内容は後で詰めればいい、交渉担当スタッフは他にもいるのだから、まずは借手候補を見つけてこい、というのが営業部員への指示だったのだ。その目標に向けて頑張って、ちゃんと候補を見つけてきたのに、待っていたのは叱責だった。契約に至らなかったどころか、部長のところに話が違うとクレームが入ったというのだ。

 それを純奈のせいにされても心外だった。文句の一つも言ってやりたいところだが、反論したらますます事態が悪化していたことだろう。席に戻り、静かに一つ深呼吸して――ここはひとまず、場所を変えようと思い立った。

 営業先回り、ということにしてオフィスを出た。だけど、どうせ月末までに結果を出せばいい相手だ。足を運ぶのは今日でなくても構わない。そもそも急いで結果を出したって叱責してくるような上司なのだ。たまには嘘をついたって罰は当たるまい。

 まずは廊下の先の給湯室で事務職の同僚に愚痴をこぼした。しかしそれでも気は晴れず、外に出ることにした。西新宿にあるオフィスビルを出て、地下鉄駅とは反対の方向に歩いてきた。幹線道路を越えるとビル街も途切れ、周りにはだんだん住宅が増えてくる。小さな商店街を抜けていけば私鉄の駅の方に出るはずだ。その駅に用はないけれど、しばらくはただ歩いていたかった。

 日頃は通らない道を歩くというのもいいものだった。足を動かすうちに少しずつ気も晴れてくる。

 空は嫌味なくらい晴れわたっている。春先の空気はまだ冷たいけれど、かすかに花の気配を感じる。どこかに咲いている沈丁花の香りを風が溶かして運んできたのだろうか。

 それだけでも歩いてきた甲斐があった。これまで地下鉄駅とオフィスの往復しかしてこなかったことがもったいなかったと思える。

 気の向くままに角を曲がった。渡るつもりもない交差点で、赤信号で立ち止まる。――そして、その店が目に入ったのだった。

 平日のお昼前だ。飲食店はそろそろ混み始める時間帯だろう。でも多分、こういう町中華の客層は男性客が中心だ。女一人で入っても居心地はよくないかもしれない。まだお腹もそれほどすいてないし、ここは素通りしておいた方がよさそうだ。

 信号が青に変わった。店の前を通り過ぎれば、その先に小さな公園があったはずだ。あのあたりまで歩こうかなと足を進めた。

 店の引き戸が開いたのはその時だ。

「毎度ありがとうございましたー」 

 響いたのは女性の声だった。だけど出てきたのはサラリーマン風の二人連れだ。

「――じゃあ次も、午前のうちに来てみるよ」

「開店って十一時半だっけ?」

 中年男が二人して、店内を振り返って声をかけている。店との名残りを惜しんででもいるみたいな姿だった。純奈は彼らを避けて歩道の脇に寄った。

「一応、十一時からやってますよー」

 答えたのは割烹着姿の中年女性だった。頭には赤いチェック柄のバンダナを巻いている。

 ふっくらした丸顔に気取りはない。お客への親しみのこもった、気さくな笑みが浮かんでいる。

「開店直後はすいてますから、その頃に来てもらえたらこっちも助かるわー」

「オフピーク通勤ってやつだね」

 お客の相槌に、おばさん店員の笑い声が応える。笑いながらお辞儀して、お客の代わりに戸を閉めようとしかけた。

 だけど、その戸を閉める手が止まった。彼女の方も純奈に気づいたのだ。

「はい、いらっしゃい?」

 語尾が軽く、疑問形みたいな響きになった。――目が合ったので、純奈のことを来店客だと思ったらしい。

 純奈も思わず立ち止まっていた。こうなると何か答えなきゃならない。

 ちょっとだけ迷ったが、思い切って尋ねてみた。

「あの、女一人でも……大丈夫ですか?」

「もちろん!」

 答えはすぐに返ってきた。純奈を招き入れるように引き戸に身を寄せ、退店の二人組には無言で会釈する。その間にもお喋りは止まらなかった。

「あたしも、今日は女一人でフロア係やってるの。よかったら寄ってってくださいな。こんな見かけの店ですけど、料理は美味しいのよー」

「あ、それじゃあ……」

「もう春だし、女の子には春雨料理なんておすすめねー。カロリーも低くて美容にいいから。ああでも、あたしの体型で言っても説得力ないかな」

 自分で言って自分で笑っている。その笑顔に吸い込まれるように、純奈は暖簾をくぐっていた。

「はい、いらっしゃいませー」

 あらためて声をかけられた。店に一歩入った途端、ふわりと独特の温かさに包まれた。

 香辛料や肉や野菜、それからゴマ油あたりが溶け合った香りだろうか。麺を茹でたらしい湯気が様々な香りをひとまとめにしている。

 その空気を吸い込んだ途端、ふっと肩の力が抜ける気がした。

 

 

 間口が狭くて奥行きは広い店だった。

 奥に伸びたカウンターが客席と厨房を分けている。カウンターが六席、左側にテーブルが三卓、どちらも満席だ。カウンターは細長いL字型になっていて、右側にもスツールが二席とテーブル卓がある。

 純奈が通されたのはそのテーブルだった。入口脇の本棚とカウンター席との間に強引に設けたような席だ。他のテーブルは四人分の椅子があるのに、ここは二脚しかなくて、壁際に並んでいる。――さっき出て行った二人連れはこの席を使っていたらしい。おじさんが二人、仲良く隣り合って食事している光景を想像するとなんだか微笑ほほえましかった。

 彼らの使った食器を、おばさん店員が手早く片付けた。食器を運ぶお盆には台拭きと除菌スプレーも載っていて、卓上はあっという間にきれいになっていく。

 もしかすると普段は客席以外に使われるテーブルなのかもしれない。だから通路側に椅子を置いていないのかもしれないし、食材などが配達されたらこのテーブルに置くのかもしれない。あるいはもともとここがレジの場所だったのだろうか。レジスターの機械はカウンターの角に小さいのが置かれているけれど、出入口の近くで会計する方が自然な気もする。

 何はともあれ、今のランチタイムはその二人掛けテーブルが開放されていて、純奈の席となった。孤食という言葉が脳裏をよぎったが、一卓を独占できて贅沢とも思える。

 予想通り店内にいる大半は男性客だ。こうして独立した席に一人で座れたことにほっとした。まさかここで相席を頼まれはしないだろうし、今は一人でいる方が気が楽だった。

 テーブルには朱色のテーブルクロスが敷かれている。その上に透明のビニールクロスがかかっていて、きれいに拭かれたばかりだ。店内には古ぼけた雰囲気もあるけれど、卓上には清潔感が漂っている。

 そのテーブルの上に、店員のおばさんが一冊のアルバムを置いてくれた。

「はい、これがメニューでーす」

 脇の本棚から取り出されたので、一瞬何かの本かと思ってしまった。大きさもちょうど単行本くらいだ。表紙は黄色いプラスチックだが、開いてみるとアルバムの台紙に料理名の一覧が貼り付けてある。

 最初のページに貼られた紙にはランチメニューが印刷されていた。ラーメンとか炒飯とか野菜炒め定食とかで、餃子とのセットにもできるらしい。カウンター席に置かれたメニュースタンドにはこのメニューが差し込まれているようだ。

 アルバムのページをめくった。さっき勧められた春雨料理というのが気になる。どんなのがあるのだろうと探すうち、「麺料理」というページが目に入った。ラーメンには醤油味と塩味、焼きそばには生麺と揚げ麺があって、海鮮や五目などの具が選べるようになっている。その下が春雨料理で、これも五目と海鮮とを選べる。流行はやりの麻辣マーラー味などはないようだ。

 よく見ると一番下の段も春雨だった。「太平燕(特製八目春雨)」と書いてある。小さく「タイピーエン」というふりがなも記されていた。

 太平燕という字面から、春の雨の中でも平和に飛ぶ燕を連想した。そういえば学生の頃、太平くんという名の男と付き合っていたっけなあとも思い出した。

 五目じゃなくて八目というのも気になった。五目よりも材料が三つ多いのだろうか。特製というからには、材料の品数以外にも何か特別なのだろうか。

「はい、何にいたしましょう?」

 店員のおばさんが声をかけてきた。お盆の上にお冷やのグラスが載っている。

「じゃあ……この、特製八目春雨をお願いします」

 ついカッコの中を読んでしまった。ふりがながあるくらいだ、太平燕と書いてタイピーエンと読むのだろうが、それを口に出すのは専門用語みたいで恥ずかしかった。

「かしこまりましたー」

 おばさん店員はちょっと下がって腰をかがめ、カウンターの内側を覗き込む格好になった。厨房と客席の間の仕切りにビニールシートが下がっていて、それを避けないと声が通りにくいようだ。

「タイピーエン一丁おねがいしまーす!」

「あいよー、タイピー一丁!」

 返事はすぐに返ってきた。厨房に立つ調理服姿の細身の男だ。年齢は四十代から五十代というところだろうか。店員のおばさんより少し年嵩のようだから夫婦かもしれない。

 流しのところにはもっと若い男もいた。小柄で浅黒く、調理服の下はハーフパンツにサンダルという格好だ。注文の声には反応せずに皿洗いに励んでいる。

 厨房の油のせいか経年劣化のせいか、仕切りのビニールは琥珀色に変色していて、厨房の彼らの姿は軽くぼやけて見える。店主らしき人物の方がカウンターに面したコンロでリズミカルに中華鍋を振っているのは分かったが、何を炒めているのか、どんな顔をしているのかまでは分からなかった。

 だけど彼がこっちを向いたのは伝わってきた。軽く頭が動いたのは、注文客に向かって会釈を送ってくれたのだろう。

 その口元に一瞬、笑みが浮かんだようだ。――はっきりとは見えなかったが、そんな気がした。

 

 

 カウンターに注文が通ったと思ったら、店員のおばさんがくるりと振り向いた。軽く声をひそめて告げてきた。 

「お昼どきは混んでるから、ちょっと時間かかっちゃうかもしれない。そこの本でも読んで待っててね」

 本棚を指して笑いかけてくる。純奈も微笑んでうなずいた。

 特に急いでいるわけじゃない。気分転換したくてオフィスを出てきたくらいだ。少しくらい待ったって構わなかった。

 とはいえ、本棚に読みたい本はなさそうだった。ぎっしり詰まっている大半は漫画週刊誌とか青年漫画の単行本のようなのだ。こういう店だから『ラーメン再遊記』というのが並ぶのは納得だが、時代劇らしい『鬼平犯科帳』というのは客層に合わせたのだろうか。『寄席芸人伝』というのも文庫本でずらりと揃っている。

 ふと、その文庫本の後ろに目がいった。本棚の隅に、少し背の高いカラフルな背表紙が並んでいる。周りの本をどかしてみると、手元のメニューと同じサイズで色違いのアルバムだと分かった。

 もともと表紙が色違いのアルバムが五冊でセットになっていたものらしい。このテーブルに出してもらったのはそのうちの一冊、黄色の表紙のものだ。五冊並んで透明ケースに入っていたようで、今は少し隙間ができている。

 五冊セットということは、色違いのアルバムは他のテーブル用のメニューだろうか。それとも今見た他にもたくさんの料理があるのだろうか。

 そう思ったら他のアルバムも見てみたくなった。ランチタイムとディナータイムでメニュー内容が変わる店もある。中華系の店でも日本酒やビールのメニューが豊富なところもある。メニューからこの店の夜の営業形態が垣間見えるかもしれない。

 手元の黄色いアルバムを棚の隅に戻した。代わりに青い表紙のアルバムを引っ張り出す。

 するとこちらはメニューではなかった。本来のアルバムとしての使われ方で、写真が貼ってあったのだ。

 反射的に閉じていた。勝手に見たらまずい気がしたのだ。――しかし考えてみれば、棚の本をすすめてきたのは店員のおばさんだ。こうして無造作に置かれているなら、見てはいけないということもないだろう。

 それに、さっきちらりと見えた写真にはこの店内が写っていた。お店の記念写真とかイベントごとで集まった常連客の姿とかを保存するアルバムかもしれない。もう一度、そっと表紙を開いてみた。

 最初のページには一枚だけ、少し大きめの写真が貼られていた。お店の外で撮った記念写真のようだ。

 暖簾のかかった入口のところに、二人の人物が写っている。

 一人は厨房の店主だろう。調理服姿で精悍な顔つき、二十代から三十代くらいだろうか。写真の古さや満足げな笑顔からして、このお店を開いた時の記念写真のようだ。

 だけど、その隣の割烹着姿の女性――彼女は誰だろう。二人で寄り添う姿はどう見たって夫婦のようだけれど、店員のおばさんとは違う人だ。すらりと背の高い、細面の美人である。

 ページをめくった。今度は店内の写真がたくさんある。真新しい厨房やそれぞれの席の写真、メニューの文面の写真などもある。料理の価格はどれも今より安い。

 やはり二人は夫婦のようだ。調理服の店主が厨房で、割烹着の奥さんが客席の間で働いている姿も撮られていた。常連客らしき人たちと並んだ集合写真とか、一昔前の芸能人と一緒に撮った記念写真というのもあった。

 よく見れば青い背表紙に日付が書き込まれていた。始まりは二十数年前、まだ二十世紀の頃だ。そこから何年かぶんの写真がこの青いアルバムに収められている。続きの写真は他の色のアルバムに収められているのだろうか。

 青の次は何色だろう、と棚に目をやった。――厨房で炎が立ったのはその時だ。

 ごおっと短い音がして、思わず振り向いた。店主の振るう中華鍋から火柱が立っている。油の飛沫ひまつにコンロの強火が引火したらしい。

 しかし、そのくらいはいつもの光景なのだろう。店内の誰も気に留めてはいなかった。店主は平然とお玉を動かし続けている。店員の青年は皿洗いを続け、おばさんは常連客と談笑している。驚いているのなんて純奈だけのようだ。

 一瞬の後には消えた短い炎だったが、なかなかの迫力だった。厨房と客席の間に仕切りがあるのはその熱気を遮る意味もあるのかもしれない。そりゃあ透明なビニールが黄ばんでしまうのも無理はない。

 せっかくなら写真を撮っておけばよかったと思いついた。手品師がステージで見せるような炎だったのだ。SNSにでも載せればさぞや映えたことだろう。

 そこでふと気づいた。――さっきから、しばらくスマホを触っていない。

 ちゃんと持ってきてはいる。会社を出る時に上着のポケットに入れたのだ。だけど今の今まで忘れていた。

 いつもなら店に入るなり席に着くなりした直後にいじっていただろう。特に用がなくてもスマホに触れ、小さな画面に見入るのが習慣になっている。だけどこの店に入って以来、他のことが気になってスマホどころではなかった。部長の叱責も頭から消えていた。

 くすりと笑った。この店のおかげで、しっかり気分転換ができていたようだ。

 それを厨房の炎が教えてくれた。その火で作った料理なら、きっと美味しいんだろうなと思える。なんだか急にお腹が減ってきた。

 

(つづく)