前作『じい散歩』は、単行本時に新聞やラジオなど15以上のメディアで紹介され、のちに文庫化されるやいなや、たった2ヶ月で累計10万部を突破。その続編『じい散歩 妻の反乱』が待望の文庫化です! 前作から注目して下さっていた文芸評論家・斎藤美奈子さんの解説で本作の読みどころをご紹介します。

 

 

じい散歩 妻の反乱

 

 

■『じい散歩 妻の反乱』藤野千夜 /斎藤美奈子 [評]

 

 知ってのとおり、日本は世界有数の老人大国だ。

 2025年の日本人の平均寿命は、女性87.3歳、男性81.4歳。全人口に占める65歳以上の割合は、29.4パーセントで過去最高(総務省)。およそ3人に1人は高齢者、ということになる。

 

 そういうわけなので、高齢者を主人公にした文学作品も増殖し、特に2010年代以降は、一気に開花した感がある。

 藤野千夜『じい散歩』は、その中でも特に異彩を放つ作品だった。

 なんたって主人公が際だって高齢である。物語のスタート時点で、夫の明石新平は89歳、妻の英子は88歳。アラフィフの息子が3人いる。

 世間一般の常識からいえば、息子たちがそれぞれに家庭をもって、新平夫妻は孫の5人や6人いても、おかしくない年頃である。ところが、この息子たちが、全員独身である上、そろって規格外ときている。

 高校中退後、家に引きこもったまま50代を迎えた長男の孝史。自分は長女だと言い張り、男性の恋人と暮らしているトランスジェンダーの次男建二。グラビアアイドルの撮影会などを主催する怪しげな会社を興して大赤字を出し、実家に舞い戻ってきた三男の雄三。

 

『じい散歩』が出版された2020年は、80代の親が50代になった引きこもりの子どもを支える「8050問題」が浮上した頃だったが、明石家にとってはどこ吹く風で、新平はいたってマイペース。そのマイペースぶりが衝撃という以上に、大きな共感を呼んだのだった。

 

 さて、本書『じい散歩 妻の反乱』はその続編である。

 物語は『じい散歩』の終盤とかぶる形でスタートする。新平は92歳、英子は91歳になった。息子たちは相変わらずだ。

 明石家にもしかし、変化はあった。2年半前に英子が倒れ、在宅介護が必要になったのだ。だが例によって長男は役に立たず、三男は金の無心しかしない。唯一頼りになりそうな自称長女の次男も、別に暮らしている以上あてにはできない。必然的に妻の世話は新平の役目となり、老老介護の日々が始まる。

 

 とは申せ、90代の夫婦である。「無理だよ、お父さん、お母さんは介護施設に任せようよ」と普通はなるのではないか。三男の雄三が思いつきで口にしたこの提案を新平は一蹴しているが、現実問題として考えれば、介護生活中に事故が起き、新平自身が要介護者になってもおかしくない。老老介護は危険がいっぱい。もっといえば、悲劇の発端にすらなり得るのだ。

 

 ではなぜ明石家は悲劇に至らず、日常を淡々と描いただけの『じい散歩 妻の反乱』という小説はかくもチャーミングなのか。

 

 理由は3つほど考えられる。

 第一には、なんといっても新平の驚異的な体力である。

 健脚にして健啖家。もっとも健康は一夜にしてならず。彼は努力を続けてきた。〈朝起きてすぐのオリジナル体操だって、前は4、50分で1セットだったのが、少しずつ、少しずつ新たな運動を追加して、今では1時間以上のコースになってつづいている〉し、〈ヨーグルトにきなこ、すりごま、干しぶどうをカフェオレボウル一杯に入れていただき、ほかには梅干し一粒、煎った米ぬかをスプーン一杯、はちみつをスプーン二杯という、毎朝定番の健康食も、さらに塩煎り大豆20粒をプラスして、パワーアップしていた〉。それに加えて90歳をすぎてからは、健康器具を使った開脚運動。あっぱれである。

 何事も深刻には考えず、すべてを肯定的に受け止める性格も、新平の健康に寄与していよう。凝った健康食を毎朝食してはいても、あれはダメこれはダメ式の食事制限は一切せず、街の洋食屋でもそば屋でも、食べたいときに食べたいものを食べ、家族には菓子の土産も買って帰る。あっぱれである。

 

 第二に、新平は多くの人に囲まれていることだ。

 健康に長生きする上で、これは重要な要素である。現代の老人問題の、コアな部分は「独居老人=単身高齢者」の孤立だからだ(今日の高齢者世帯の約5割は単身世帯、約3割は夫婦のみの世帯である)。

 

 いかに役立たずの困りものでも、明石家には二人の息子が同居しており、もうひとりの息子も、そう遠くない場所に住んでいる。三人の息子がそれぞれの家庭を持っていたら、これほど緊密な関係は保てていないだろう。加えてきょうだいが多い新平には、伯父を気にかけてくれる甥や姪もいる。

〈90歳を過ぎて、まだ親の役目をするとは思わなかった〉という新平の嘆きはもっともで、同居する二人の息子はもうちょっと母親の介護を分担しろよとは思うが、半面、新平の環境はそう悪くないのである。

 

 第三のポイントはやはり「散歩」だ。

『じい散歩』正編における新平は、毎日のように椎名町の自宅から池袋界隈まで歩き、コーヒーを飲んだり洋食を食べたり建築物を眺めたりし、帰りにはかつて新平が経営する明石建設の事務所があった場所のアパートに立ち寄って、エロ本の鑑賞という趣味にひたるのが日課だった。

 妻を自宅で介護する現在の新平にそうした時間の余裕はない。にもかかわらず、彼の行動範囲は、むしろ広がっているようにさえ見える。

 ある日は電車で江古田に行き、浅間神社の富士塚を偵察する(第一話「妻の好物」)。ある日は高田馬場からバスで早稲田まで行き、大学付近をぶらついた後、近隣の喫茶店でコーヒーを飲み、馬場に戻ってランチをする(第二話「妻の笑顔(一)」~第三話「妻の笑顔(二)」)。またある日は、くだんのアパートに行った後、池袋の老舗洋食店で名物のランチを食べ、寄席で落語を楽しむ(第七話「妻のいない旅(一)」)。別の日には、建二が住む中板橋まで赴き、神社に寄った後、駅前商店街のケーキ店で建二を呼び出し、二人して惣菜屋であれこれ買い物をする(第八話「妻の心配」)。かと思えば雑司ヶ谷霊園で墓を見物し、ベンチでパンとドーナツを食べ、大鳥神社に参拝する(第九話「妻の眠る場所」)。あるいは、なじみの造園業者に教わった練馬のカフェでパスタを食し、翌週は西武線都立家政のカフェに赴く(第十話「妻といっしょに」)。

 

 こんな調子で詳細に記された散歩の数々。

 あらためて、じい「散歩」という表題の意味を考えてみよう。本書にとって、散歩はただの飾りじゃないのだ。

 新平が常々口にしているように、散歩は足腰の健康の源である。でも、それだけではない。散歩は彼を外の世界に連れ出し、新たな発見をもたらす。散歩は彼に精神的なゆとりを与える。散歩は一人だけの時間である。歩きながら彼は人生を振り返り、過去の出来事を思い出し、妻や息子に思いをいたす。構成上、この小説は散歩の時間によって成り立っているといってもよい。読者にとっては、散歩の時間こそが新平の人生の機微にふれる時間なのだ。

 

 さらに散歩は時にグッドアイディアをもたらす。

 終盤、カフェを教えてくれた造園業者に〈英子も連れてくなら、練馬だな。車椅子でも行きやすそうだ〉〈だって家の中ばっかだと、季節もわかんないよ〉と新平は伝える。その後のコロナ禍によって、このカフェ行きは実現しなかったものの、カフェに行く予行演習にと英子の車椅子を押す新平と息子三人がそろって散歩に出かける〈東京の、春みたいな日差しのお正月〉の逸話は、作中もっとも心温まるエピソードといっていいだろう。

 

 かくて時代は平成と令和をまたぎ、物語はアパートの整理や三男の借金騒動や墓問題などをからめつつ、新平96歳の2022年まで続く。

 大正の末に生まれ、青春時代に戦争を体験し、戦後は小さいながらも建設会社を経営してきた新平。しかも息子は一人も会社を継がなかった。この世代の「昭和の男」なら、もっと頑迷でもおかしくない。だが新平は考える。

〈好き勝手をする三人の息子を見てため息をついた日がなかったとは言わないけれど、でも自由でなくてどうする、ともよく思った。/自分たちは、不自由な時代をたっぷり生きてきたのだ。/あれは全然よくなかった。だから自分の責任が取れる範囲で、みんなが好きに生きたらいいと思っていた〉

 

 稀有な老人文学であるだけでなく、正編と続編、2冊の『じい散歩』は、このように自由な生き方を認める多様性の時代の物語なのだ。

 認知症の英子は、この小説の中ではいつもニコニコ笑って家族の会話を聞いている存在で、一見すると影が薄い。だが、各話のタイトルにすべて「妻の」が冠されているように、新平の思い出はほとんどすべて英子につながっている。そして最後に明かされる「妻の反乱」の意味。

 

「反乱」は土地の権利書と遺言状の文面にあった。

 英子を代弁するのは建二である。新平の献身的な介護を誰かが褒めても〈でもさあ、ママだって、本当はもうちょっと元気なときに、よくされたかったと思うよ〉と「もっともだ!」な茶々を入れる建二は、権利書に関しても、もっともな意見をいう。〈お父さんにとられたくなくて、隠したの、絶対。あの遺言が、いい証拠じゃない。いい? 家もアパートも全部お父さんに、なんて、ママが自分から書くわけないんだから〉

 誰が見ても「妻思いのよくできた夫」である新平も、英子の身になれば、やはり「昭和の男」だった。誰も貶めず、誰も美化しない。ラストで突然浮揚する妻の存在感。それがこの小説をいっそう強固で魅力的なものにしている。