胸に振り回される人生はもう終わりにしたい。推しの結婚相手のバストサイズに呪われ、夫が隠し持っていたブラジャーに心が揺らぐ──。本作は女性にとって複雑で繊細で厄介で大切な存在である胸について綴られた連作短編集。

 

 書評家・渡辺祐真さんの解説にて『胸なんて夢と希望でふくらみません』の読みどころをご紹介します。

 

 

笑って、泣いて、最後は自分を許せる。

 

胸なんて夢と希望でふくらみません

 

■『胸なんて夢と希望でふくらみません』佐々木愛  /渡辺祐真 [評]

 

「女性の『胸』をテーマにした小説の解説を、書いてもらえないでしょうか」

 こんな書き出しから始まるメールをもらった。

 正直、迷った。男性として、女性の胸について書くのは慎重にならざるを得ない。おそらく性的なシンボルとして、胸が否定的または肯定的に描かれると予想し、自分に言えることは多くないだろうなと勝手な憶測を広げていた。

 

 断るべきかと思いながらメールを読み進めてみると、その作品とは、佐々木愛の短編集『ここにあるはずだったんだけど』(文庫化に際して『胸なんて夢と希望でふくらみません』に改題)のことだと分かった。

 意外だった。佐々木愛といえば、今どき珍しいくらいに真っ直ぐな青春・恋愛小説を書ける稀有な作家だ。2016年に「ひどい句点」で第96回オール讀物新人賞を受賞。2019年に同作を収録したデビュー作『プルースト効果の実験と結果』が大きな話題を呼び、私もそのタイミングでお名前を知った。表題にもなっている「プルースト効果の実験と結果」は、地方に住む高校生カップルが東京の大学を目指して勉強に励む様子を、甘酸っぱさ以上に、青臭さやダサさを克明に描いている。初めて読んだときには、若者の恋愛離れが深刻な現代に投じられた「新しい恋愛小説」だと感嘆した。

『料理なんて愛なんて』(2021年)は、「料理は愛情」という価値観に疑問を投げかける、料理×恋愛小説。そして『じゃないほうの歌いかた』(2025年)は、様々な「じゃないほう(目立たないとか挫折とか)」を描いた作品で、青春のダサい様を徹底的にダサく、どこまでもダサダサに描き切っている。青春ってダサいから眩しいのだと、その清々しさに、自分が30代に突入したことを自覚させられた。

 

 そんな佐々木愛による「女性の胸」をテーマにした小説って、いったいどんなものだろうかと惹かれ、ともかく読んでみることにした。

 驚いた。

 女性にとって胸という部位が、こんなにも複雑で繊細で厄介で大切で邪魔な存在だったのかを思い知った。

 男性からすると、育児のための器官か性的なシンボル、さもなくば話題に上げづらいセンシティブな部位か、その程度のイメージしかなかったのだが、自分の不見識を反省した。それこそが冒頭で述べたような一人合点に通ずる偏見に他ならなかった。

 その視点から、本作の解説を綴りたいと思う。

 

 本書には、4つの短編小説が収録されている。先述の通り、いずれもが女性の胸をテーマにしているが、その描き方や扱い方はどれも異なり、豊かな読み味を湛えている。

「EあるいはF」は、まるでミステリー作品や暗号のような不可思議なタイトルだが、元グラビアアイドルのカップ数がEかFかを悩み続ける女性の物語である。

 背景は少し複雑だ。主人公は、俳優・三橋朝日の大ファンで熱心に応援していた。三橋が結婚を発表しても、心から祝福を送るほど純粋なファンだったのである。ところが、その結婚相手が元グラビアアイドルだという噂が出回ると、心情が一変する。

 他のファンたちと同様に、「なぜグラドルなんかと……」という理由から忌避感を抱くのだが、それ以上に彼女にとって大事なのは、そのグラドルがEカップなのかFカップなのか、だ。というのも、三橋の舞台あいさつでファンサをもらったとき、彼女が座った座席がF列であったことから、Fは大事なアルファベットだったのだ。

 はたから見ればそんなことか……と思ってしまうのだが、徐々にただのファン心理だけではない、彼女が胸に抱く複雑な思いが明らかになっていく。例えば、彼女の姉や母は胸が大きいのに、自分だけは小さい。男性誌の表紙やアニメの女性キャラの胸は大きいのに、自分は小さい。仲が良く、自信に満ち溢れていた友達は胸が大きかったのに、自分は小さく、自信もない。やがて彼女は、豊胸を考えるまでになる。

 主人公にとって、胸とはコンプレックスそのものだった。だが、もっと根源的な理由があるのではないと、自らの心や過去に向き合っていく。

 

「ブラ氏の告白」は、“ブラ氏”と通称されている、トレンチコートの下にブラジャーをつけている不審者をめぐる独白を主に紡がれる一編。

 語り手は、家事代行サービスで働く60歳くらいの女性「由美」。仕事で片付けに行った家は、豪華絢爛なブラジャーが散乱していた。「A70」と記された綺麗なブラジャーを目にし、由美は愛おしさを覚える。というのも、出産をするまで由美の胸もA70だったからだ。今ではカップ数が記されないカップ縫い付けのタンクトップばかり身につけているため、無性にブラジャーに惹かれてしまう。「ああ、この下着は、出産をしない選択をしたほうの自分の下着だ、と天からのお告げのように思ったのです」という由美の独白は、ブラジャーがただの下着以上の物であることを示している。

 そこから、由美の「ブラ氏は私ではないか」という疑念が語られていくことになるのだが、そこはぜひ実際に楽しんでいただきたい。

 解説で一言触れておきたいのは、由美が久々にブラジャーを身につけたとき、身体に走る痛みの様子だ。

 

久しぶりのワイヤーが胸の脂肪に突き刺さります。余裕を持って選んだのに胸全体が締め付けられ、はみ出た肉がボンレスハムのようになっているのが触れなくとも分かります。背中にホックがめり込みます。綿100%ではない生地は、こんなにも冷たいものだったろうか。おなかを壊しそうです。私は徐々に途方にくれていきます。

 

 男性にとって、こうした繊細で複雑な衣類は存在しない。私はブラジャーを買ったことや身につけたこと、店頭で選んだこともないので、由美が語るブラジャーの痛さや幻想など想像したこともなかった。そして、まさにこうした男性のブラジャーに対する無理解が、後半にかけて描かれることになる。

 本作は、胸を保護するブラジャーをめぐる悲しみや懐かしさ、痛さを描く、ブラジャー小説である。

 

「授乳室荒らしの夢」は、授乳室荒らしという不審者の話だ。

 郵便局員の女性・モナミは、幼い頃から目立たないことを意識して生きてきた。自分が存在していることに不安を抱き、存在感を無くそうと努めた。その努力が実ってか、身長も体重も、そして胸もあまり成長しなかったことが分かったときには、心から安堵したほどだ。

 大人になってもその引っ込み思案は変わらず、職場でも居心地の悪さを覚えていたが、ある男性客との出会いが日々に彩りを加える。その男は「応募原稿在中」と書かれた出版社宛の茶封筒の郵送をいつも依頼しにきており、どうやら小説家志望らしい。

 あるきっかけから、二人は言葉を交わすようになり、モナミは彼の小説を読ませてもらうことに。

 その小説は、決して傑作だとは思わなかったが、モナミには刺さった。いや、モナミにしか刺さらない、そう確信した。その昂りを、彼女は次のように語る。

 

初めて読んだとき、「どうしてわたしのことを、こんなにわかってくれるんだろう、この人は」と思い、二度目には「この人はたぶん、わたしたちにしかわからないわたしたちの言語で、わたしたちのことを書こうとしている」とわかり、三度目で「彼の小説のよさがわかるのは、わたしだけだ」と確信した。
わたしが彼の前でだけほんとうの自分になれるように、彼もわたしの前でだけ、ほんとうの小説家になれるのだと思った。

 

 ところが、この恍惚は何重にも裏切られることになる。

 詳しくは実際に読んでもらうこととして、一つだけ述べると、彼女自身の感受性によって裏切られる。「自分にしかわからない」という自尊心は、凡庸なものだったことがあっけなく明かされるのだ。

 特権的なものは何もない、自分らしさを主張する権利もない。その絶望から、「ただそこにいるだけ」というささやかで最低限の権利を手にしたいという思いが沸々と膨らむ。そんな劣等感と飢餓感によって彼女がたどり着いたのは、授乳室だった。

 赤ん坊を持たない彼女にとって、授乳室とは「存在する権利のない場所」だ。だから、授乳室にいることは、ただそこにいる訓練になると考えたのである。

 

 この作品は、女性の胸に関連する社会的な眼差しと空間を描いている。

 母親であること、子供がいることといった社会的な属性が、胸には紐づいている。胸は赤子に栄養を与えるための育児器官であり、胸を用いるための空間(授乳室)が存在している。

 こうした胸と授乳室をめぐる居心地の悪さや周囲のまなざしは、男性には分からない。父親になる、子供といるということはあっても、それが身体に刻まれることはないからだ。

 本作で描かれるのは、授乳室という場所ではあるが、それは妊娠や出産をめぐる女性の在り方、「子供を産め」という社会の圧力にも通ずるところがあるだろう。

 

 最後となる「胸は育たない」は、最も佐々木愛らしい小説だ。

 主人公の女性は、吹奏楽部でオーボエを吹いている高校二年生。彼女が好きな小田くんは、一学年上の綾子先輩と付き合っていた。綾子先輩は誰もが認める優等生で、演奏技術も高く、そして胸が大きい。

 一方で主人公は胸が小さい。やがて胸のサイズは、綾子先輩や周囲に比べて自分が劣っている証のように感じられるようになる。運動部の女子マネージャーも、絵本に登場する人魚姫も、憧れの女性はみんな胸が大きいような気がしてくる。そして、小田くんと付き合えないこと、綾子先輩への劣等感、演奏技術の低さが、全て胸に集約されてしまう。いわば、彼女の自己評価が、胸に具現化されるのだ。

 よく表れているのは、彼女が胸の小ささを悩み、タンスに仕舞われた母親の下着を身につけるシーン。母親の胸は今では大きいが、昔は小さかったと気づき、少し自分を慰める。

 

わたしはその一枚を小さな胸に抱いて、静かに歓喜した。そうか、わたしの母は昔、たぶんわたしが生まれるよりも前の頃には「A」だったのだ。でも今は違う。わたしだって今は平たく板のようだけれど、これからもっと色んなものを見たり知ったり、誰かを好きになったり、いつか子どもを産んだりしているうちに、育つかもしれない。

 

 10代の頃の悩みは、努力ではどうしようもできないものが多い。

 胸や身長、顔といった「身体」、頭の良さや運動神経といった「才能」、そして「家庭環境」など、子供には努力や社会経験の時間が少ないために、家庭環境や遺伝子が大人に比べてより大きな影響を与える(と、少なくとも子供達は思ってしまう)。

 

 この物語は、胸を通して、思春期に感じる不合理や劣等感、そしてそれをバネに変えるだけの爆発力を描くのである。

 

 以上、胸にまつわる色々に着目して、4つの小説を紹介してきた。

 もちろん本作に描かれた色々は人それぞれだろうし、そのまま現実ということもないだろう。だがこうして並べてみると、女性の胸をめぐる扱いや自己認識は本当に複雑なことが分かる。

 確かに男性器の場合だって、サイズや形状で悩むことがある。だが、あくまで個人的なものか、せいぜいパートナーとの間のもので、それが女性の胸のように可視化されることはない。それに、専用の下着も、それを育児に用いることも、そのための部屋もない。人生の節目節目で抱く孤独や不安、懐かしさ、後悔といったものに、紐づけることもない(そして、本作を支えているのは、そうした性別や世代を超えて共感されうる普遍的な感情であることを強調しておきたい)。

 

 本作を通して、胸について考え方を改めることができた。女性の胸には、これだけ複雑で豊かな生活と社会があったのだ。

 神秘やエロだけで語ってきてすみません。