回路と給食

 

「トイレの前でメロン食べたくないよ〜!」

 これは小学生の頃に読んだ、とある漫画のとある台詞である。なんというタイトルの漫画だったか、どういう流れでこのような台詞に至ったのか、細かいことは思い出せないが、この台詞のコマだけが、ずっと忘れられない。どうしてそんなに印象に残っているかというと、当時、この台詞について考え続けた期間がそれなりに長くあったからだ。どうやら笑いどころとして機能しているコマであり、トイレの前でメロンを食べさせられそうになった常識人からの常識的訴えであるという文脈は感じ取ったが、肝心のトイレの前でメロンを食べたくないという感覚が、あの頃の私にはさっぱりわからなかった。食卓テーブルで食べようが、玄関で食べようが、トイレの前で食べようが、メロンはメロンじゃないか。目に見えない不浄が想像によって舌に届く、その回路がまだ繋がっていなかったのだろう。「食事中にうんこの話をしてはいけない」というようなことも、マナーとして頭では理解していたが、「飯がまずくなる」と言われると、どうも腑に落ちなかった。うんこの話をしたところで、食卓にうんこが現れるわけではない。大体、いずれうんこになるものを摂取しているというのに、何をすっとぼけたことを言っているのだ、などと思っていた。

 そんな調子だったので、友達とその親たちを交えて外食したとき、肝を冷やす事態に見舞われた。運ばれてきた私の料理の上に、髪の毛が一本のっていたのである。そんなものは私にとって不快でもなんでもなく、取り除けばそれでいいという心境だったのだが、子どもというのは発見を発表したい生き物であり、それについては私も例外でなかったため、道端で猫を見つけたときと限りなく近いテンションで、「見て! 髪の毛あった!」と摘み上げて高らかに掲げてしまった。すると、どうだろう。大騒ぎである。友達のお母さんが、「大変、替えてもらおう」と店員を呼び出そうとする。必死で止めたが、「ほーちゃん、こういうときは店員さんに言えば新しいのを持ってきてくれるから大丈夫。遠慮しなくていいの」と、店の不手際の被害者として扱われるばかりであった。意図せず大事になってしまったことに、かなり焦った。料理に髪の毛って、そんなに気持ちの悪いことなのだろうか。取ってしまえばそれで済む話ではないのだろうか。私は嫌な思いなどちっともしていないのだから、謝ってもらう必要も、交換してもらう必要もない。頼むからこのまま食べさせてくれ。

 すったもんだの末、私が自分の髪の毛に違いないと血眼で主張したことにより、友達のお母さんもどうにか引き下がってくれて、ことなきを得たのであった。

 

 そんなこともあって、私は人前で食事をすることに苦手意識を持つようになった。自分にとって何でもないことが、無作法として晒されるかもしれない。特に、給食の時間は気が抜けなかった。小学生でも学年が上がるにつれ、他人の衛生観念や食事作法などを目ざとく指摘することで己の優位性を誇示する者が現れる。授業中あてられただけで泣きそうになってしまうくらいなのに、何らかのヘマで注目を浴び、汚い奴というレッテルを貼られたら、教室で生きていけない。箸の持ち方や咀嚼の仕方など、自分の一挙手一投足が気になり、牛乳を飲み切るときの「ズズッ」という音にさえ冷や汗が出た。誰かに何かを指摘される前に食べきらなければと、お喋りもそこそこに早食いしていた。

 最も憂鬱だったのは、揚げパンの日である。大前提、私のクラスでは、パンは袋から出さず、少しずつ千切って口に運ぶ風潮があった。男子の中には気にせず齧りつく者もいたが、少なくとも女子は袋のまま千切って食べる者が大多数で、とにかく悪目立ちしたくなかった私はそれに倣わねばならなかった。しかし、揚げパンの場合は事情が異なる。袋入りではなく、皿に直接盛られるからだ。油分が多く、シナモンもまぶしてあるので、触ると手が汚れてしまう。これはどうしたものかと周囲の様子を窺ったところ、なんと、先割れスプーンを駆使し、パンを一口サイズに切って食べていた。どう考えても齧りつく方がスマートだろ、と思いながらも抗う勇気がなかった。やってみると、これがなかなか骨の折れる作業である。先割れスプーンの切れ味など皆無に等しい。かなり力を込めなければ、表面がカリッとしている揚げパンを切断することはできない。加減を間違えればシナモンを盛大に撒き散らしかねないし、最悪の場合、パンが遥か彼方に吹っ飛ぶ危険もある。想像しただけで恐ろしい。とはいえ、慎重にやりすぎて食べるのが遅くなれば、食べ終わった人たちからの視線を一身に浴びることになるため、ちんたらしているわけにもいかない。落ちたら終わりの綱渡りのような緊張感を背負いながら、必死でパンを切る。当然、味わうどころではない。

 私は自分が情けなかった。本当は、誰に何を言われてもガハハと笑って済ませられるような、がさつな人間になりたかった。いや、皿に髪の毛がのっていても気にしない感性なのだから、十分がさつではあるのだが、それを自分のキャラクターとして押し切るだけの度胸が、当時の私にはなかった。繊細なのか鈍感なのかよくわからない子供である。

 

 そんなある日、ちょっとした転機が訪れた。給食のデザートにゼリーが出た日のことである。底の方に小さくて黒い粒々したものが入った、見慣れないゼリーだった。今となってはその正体は定かでなく、当時まだ知名度の低かったタピオカ、もしくは、チアシードだったのではと推測されるのだが、これが大混乱をもたらした。

「ゼリーにカエルの卵が入ってるぞ〜!」

 ある男子が、大声で騒ぎ立てたのである。その途端、教室はパニックに陥った。悲鳴をあげてゼリーを放り出す者、わざとらしく「オエ〜!」と吐く真似をして煽る者、中には泣き出す者までいた。

 しかし、そんな地獄絵図と化した教室で一人、微動だにしない者がいた。私である。確かにその黒い粒々はカエルの卵に非常によく似た形状ではあった。が、事実として、カエルの卵なわけがない。わかっていても気持ちが悪い、という話なのかもしれないが、前述のように私はそのあたりのことに関する回路が断絶しており、気持ち悪いという感覚がさっぱりわからない。皆がゼリーを返却しようと給食ワゴンに殺到している。それを見て、心底アホらしいと思った。と同時に、これはチャンスかもしれないと思った。今までの私なら周囲に合わせてゼリーを残していたであろう。しかしただ一つ、こんな私でも自信を持ってはっきり言える食の作法があった。食べ物は残すより残さない方がいい。

「ほーちゃんがカエルの卵食べてる!」

 私はゼリーを食った。これ見よがしに、むしゃむしゃ食った。ざわつくクラスメイトたち。

「え、別にこれ普通に食べられるよ。おいしい、おいしい」

 平然とそう言ってのける。実際、粒々とした食感がとてもおいしかった。すると、周りの子達が「すごい!」「私のも食べていいよ!」と、ゼリーを手にわらわらと集まってきた。これまでの給食時間は何事もなく食べ切ることに必死で、おかわりに名乗りをあげるなど夢のまた夢であった。その鬱憤を晴らすが如く、私はゼリーを次から次へと平らげていった。高揚していた。私の「がさつ」が輝いている。カエルの卵を貪り食いながら、私は自分に感動していた。

 

 それ以降、給食時間の緊張は少しずつ和らいでいったように思う。現在の私が、牡蠣や白子、なまこ、ホヤなどの、人によって好みが分かれるクセのある食べ物ほど好きだったり、異国の珍しい食材や料理に前のめりだったりするのは、あの日、カエルの卵を食べて注目された快感が忘れられないからなのかもしれない。

 大人になるにつれ、いつしか回路が繋がったのだろう。今ではもう、トイレの前でメロンを食べたくはない。使い古しの歯ブラシで排水溝を掃除するのも抵抗があるくらいだ。でも髪の毛に関しては、上にふわっとのっているだけなら避けてしまえばどうでもいいやと未だに思っている節がある。揚げパンを見つけると、あの頃の仇とばかりについ買ってしまう。もちろん思い切り齧りついて食べるし、人目があろうとなかろうと、指についたシナモンまで舐める。私はそういう人間だ、悪いか、と、今はガハハと笑って言える。