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「人がようさんおるね」

 エイが言うと、父は小さく苦笑した。

「前はもっと客がおったんや。お、ちょっとここで待っててくれ」

 そう言って馬見所の奥へと向かう父に、いろいろな人が次々と声をかけてくる。父が立ち止まると、周りを囲む人の輪がどんどん大きくなり、背の高い白人までやって来て、笑顔で握手をしている。

 父が大股でこちらに戻ってくる。すれ違いながら父に声をかける人たちはみな、父に会えたことを喜んでいるのがわかった。エイは、そんな父と一緒にいることを誇らしく感じた。

「お父ん、人気あんねんな」

 地元でも大きな会社を経営する有力者として知られているが、ここでの迎えられ方は、どこか違うような気がした。

 エイの言葉に照れたように笑っていた父が、馬場に顔を向けた。

「ほら、馬が出てきたぞ」

 近所で見かける馬より細身で毛並みのいい馬が、次々と馬場に入ってくる。

 父が一頭の馬を指さした。

「前から二頭目がわしの馬や」

「お父んの馬?」

「そう、馬主になったんや。あの馬の騎手が着ている、白に黄色の線が入っとんのが、わしの勝負服でな。騎手は、その馬の馬主の勝負服を着てレースに出るという決まりなんや」

 父がこんなに喋るのは珍しい。いつもと違う父を見ているだけで、競馬場というところが父にとって特別な場所であることがわかった。

 馬たちが、「バリヤー」と呼ばれる発馬用のロープの後ろで横に並びはじめた。

 係員が旗を振った。それを合図にバリヤーが撥ね上がり、馬たちが一斉に走り出した。

 馬たちが土煙を上げ、目の前を右から左へと駆け抜けていく。幾重にも重なって音量を増した蹄の音がエイの鼓動と共鳴する。周囲の人々の歓声が少しずつ大きくなり、馬見所の床を震わせる。足の裏に感じる振動に平衡感覚を奪われ、エイは危うくよろめきそうになり、両足を少しひろげて踏ん張った。

 野球場の向こう側まで走っていった馬たちが、またこちらへと近づいてくる。色とりどりの勝負服を着た騎手たちが馬上で踊るように鞭を振るい、手綱をしごく。その叱咤に応え、馬たちは全身を弾ませ、しなやかな四肢を伸ばす。

 馬群がエイの眼前に迫ってくる。速度が上がると歓声がさらに大きくなり、耳をつんざくほどになる。舞い上がった土煙で視界がかすみ、エイの頭のなかは蹄音と歓声に支配される。土煙が風に流され、馬場と、その向こうできらめく海がまたはっきり見えるようになると、波が引くように歓声が小さくなった。蹄音が遠ざかるにつれて、耳の奥で痛いほど響いていた鼓動も小さくなり、やがて聞こえなくなった。

「これが競馬だ。すごいやろ」

 という父の声が遠くから響くように感じた。気がついたら、エイは父の上着の袖を握りしめていた。

 神社の祭礼で見た駒競べとは頭数が違うし、速さも、迫力も段違いで、ただただ圧倒された。

 いくらか気持ちが落ち着いて、これが順位を競うものであることなどを冷めた頭で理解できるようになったとき、大事なことを思い出した。

「お父んの馬は?」

「あかんかった。後ろのほうや」

 父がため息をついた。

「あれが一等賞の馬やね」

 馬見所の正面で、騎手を乗せた馬の曳き手綱を背広姿の男が持ち、横に立つソフト帽を被った初老の男や、作業着姿の男たちが嬉しそうに笑っている。

 父も、彼らを見ながら笑っていた。

「負けると悔しいし、勝つと嬉しい。そんな当たり前のことを、楽しみながら、とことん味わえるのが競馬の醍醐味なんや」

「ふうん」

 エイは、自分なら負けて楽しく感じることは絶対にないと思ったが、口には出さなかった。

 父に話しかけてくる人たちの相手をしている間に、さらに二つのレースが行われた。

 ──この馬が勝つんやないか。

 と、エイが目をつけた馬の番号を、走る前に父に伝えたら、二回とも当たった。なんとなく元気そうに見えた馬を選んだのだった。一回目は笑っていただけの父も、二回目は「お前は天才や」と目を丸くした。

 帰る前に、父が馬を預けている厩舎に寄っていくことになった。

 厩舎のある場所への出入口には、門番のような係員が立っていた。

 その先には長屋のような同じつくりの厩舎が並び、窓から馬が顔を出している。脇を通る馬道で、男たちが馬を曳いて歩いている。

 馬見所からそう離れていないのに、静かで、寝藁の匂いが漂っている。

 父が「安川」という表札のかかった厩舎の扉を叩いて訪いを入れると、兄の八郎よりいくつか年上に見える男が出てきた。

「あ、熊谷さん、よくいらっしゃいました。どうぞ、お入りください」

 如才ない口調で茂八とエイを招き入れた男の額には汗が浮かび、上着もズボンも汚れていた。厩舎で作業をしていたのか。

 事務所のような部屋の長椅子に、エイは、茂八と並んで腰掛けた。

「娘のエイだ」

 父が言うと、男は、

「はじめまして。調教師の安川です。いつもお父さまからお話をうかがっております」

 と笑顔を見せた。よそ行きの話し方のせいか、関西の人間なのか、それとも関東の人間なのか、言葉からはよくわからなかった。

「安川君は調教師であると同時に騎手でもあって、さっきも私の馬に乗っていたんだ」

 父までいつもと違う話し方になっていて、エイは笑いをこらえるのに苦労した。

 安川の妻が、茶と羊羹を持ってきた。うつむき加減のまま誰とも目を合わせず、「失礼します」と小さな声で言い、下がっていった。

 それからしばらく、父と安川が、父の馬について、また、鳴尾競馬場を含む全国の競馬場の現状などについて語り合った。最初のうちは、競馬の世界がどういうものかわかるよう、エイに聞かせることを意識していたようだが、話しているうちに二人とも熱くなり、エイがここにいることなど忘れてしまったようだ。

 二人の話から、十年ほど前に「馬券」というものが売られた時期があり、全国の競馬場がとても賑わっていたことがわかった。ところが、主催者が不正をしたり、借金で家を傾ける人が現れたりと社会問題になり、馬券は政府によって禁止されたという。

 馬券禁止によって競馬関係者は資金繰りに困るようになった。鳴尾競馬場の内馬場に野球場をつくったのも、収入が減ったぶんを少しでも補おうとしたからだという。どうやら、父は、苦しむ関係者を助けてやってくれと知り合いに頼まれ、馬主になったようだ。

 父は、安川と「馬券復活運動」について話しはじめた。安川が学習帳のようなノートを棚から抜き、頁をたぐっている。

「全国の生産者から貴族院と衆議院に競馬法制定の請願書が提出されたようです」

「軍部への働きかけは、やはり、安田代議士がしているのか」

「はい。さらに、広沢代議士とともに司法省への根回しもしていると聞いています」

 安田代議士というのは安田伊左衛門、広沢代議士は広沢弁二という人らしい。

 安川のノートには新聞の切り抜きなどが貼られ、空いたところに細かな字がびっしり書かれている。それをエイが覗いていると、

「お嬢さん、ぜひこれを読んでください」

 と、安川がノートをひらいて差し出した。

 そこには、明治三十九(一九〇六)年十一月二十五日付の『読売新聞』の記事が貼られている。

「東京競馬会 初日の景況」という見出しで、本文は三段にわたっている。

〈加納子爵の会長たる東京競馬会にては今回新たに設けたる府下荏原郡池上村の競馬場に於いて(略)〉

 という書き出しで、

〈折柄の小春日和とて当日午前十時頃より大森停車場付近は汽車と電車に運ばれて来る無数の観覧者にて雑踏を極めたる(略)〉

〈参観者多く馬見所は一号、二号共充満したり〉

 などと記され、五百円を損したと話している外国人美女のことや、四人で三千円を出し合って千二百円の大儲けをした人たちの話などが載っている。たくさんの人が集まり、熱気と活気にあふれ、賑やかで、楽しそうな情景が浮かび、ざわめきまで聞こえるような気がした。

 安川の厩舎を出る前に、父が持つ馬の様子を見ていくことになった。エイたちが厩舎内の通路に立つと、何頭かが馬房から顔を突き出した。そのうちの一頭の前に父が立ち、エイを手招いた。

 馬がエイを見つめている。

「さっき走ったお父んの馬やね」

「よくわかったな」

「疲れた顔しとるから」

 そう答えたエイの胸元に、馬が顔を寄せた。下から手を差し出すと、そっと鼻先を押しあててきた。やわらかくて、あたたかい。大きな体から、ゆるやかな温風が流れてくるように感じられた。

 こんなに穏やかな生き物が、あんなに速く走る力を持っているのが不思議だった。

 気づいたら、父が隣の馬房の馬を撫でている。その馬も父の馬なのか、と思っていると、さらに隣の馬も声をかけながら撫ではじめた。

「お父んの馬、何頭いるん?」

「今のところ三頭だ」

 その言い方からすると、もっと増やすつもりなのだろうか。

 帰り際、父は安川に封筒をわたした。金が入っているようだ。

 ──熊谷の旦那は金離れがいい。

 父はよくそう言われている。

 金に頭を下げる人と、熊谷茂八という男に頭を下げる人を、父はきちんと見分けている、と思った。

 エイは、お金持ちになりたいとか、偉くなりたいと思ったことはないが、父のような大人になりたいと、小さいころから思っていた。

 ただ、女の自分にそうした道があるのかどうかはわからなかった。

 父と一緒に鳴尾競馬場の門を出た。

 振り返ると、傾きかけた陽を浴びた馬見所が、海のほうへと動き出していくかに見えた。

「お父ん、競馬場って、船みたいやね」

「船か。そうやな。まさに、荒波に乗り出していく船そのものや」

 もうすぐひと雨来るのか、雲が厚みを増し、風がしっとりしてきた。

 エイが十八歳になった、大正五(一九一六)年の春のことだった。

 

 

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