4月
高幡不動駅から満員の急行電車に乗り込んだら、次の聖蹟桜ヶ丘駅で目の前に座っていたお姉さんが降りていった。
となりのおじさんとの攻防戦にめずらしく勝利して、シートに座って見下ろした多摩川には見事な桜が咲き乱れていた。
こいつは春から縁起がいいと、小宮陽葵は心が跳ねるのを自分でも感じた。そういえばしばらく悩んでいたニキビはいつの間にか消えているし、今朝は前髪のセットもあっという間に完了した。
車窓に映る自分が笑いそうになっている。今日から中学三年生になる自分だ。新年度早々こんなにいいことばかり起きるのは、昨日出たばかりのジャンヌルダンの『あの春のヒマワリ』がビックリするほど名曲だったからに違いない。
今月はなけなしのお小遣いでずっと悩んでいたワイヤレスイヤホンを買ってしまった。だから新曲は来月まで我慢しようと思っていたのに、どうしても衝動を抑えることができず、母に泣きついて来月のお小遣いを前借りした。
たとえ特典がなかったとしても、ジャンヌの曲だけはCDも購入すると決めている。昨日から何度リピートしているだろう。北村楓が耳もとでささやくように歌っている。イヤホンを買ったことにも、お小遣いの前借りにも一片の悔いもない。新しいクラスの友だちとしばらく遊びにいけなかったとしてもだ。陽葵にはジャンヌがついている。
陽葵の目下の夢は早く高校生になってジャンヌの海外公演に参戦することだ。彼らと出会う前の自分が何を楽しみにして生きていたのかさえ覚えていない。控えめにいうならジャンヌは人生の彩りであり、大げさにいえば命そのものだ。万が一でも彼らが解散なんてしたら、自分は生きていけないかもしれない。
平均年齢二十二歳というまだ若いグループにあって、今年十八歳になる北村楓はジャンヌルダンの末っ子であり、陽葵の「最推し」だ。以前はグループ全体を応援する、いわゆる「箱推し」であったけれど、気づいたときには楓の笑顔にからめ捕られていた。
『あの春のヒマワリ』はジャンヌ初の日本語タイトル曲であり、バラードである。しかも楓がはじめて作詞に挑んでいて、もっとも多くソロパートが与えられている。その声をじっくりと聴きたいという衝動から、CDそのものを後回しにしてまで新しいイヤホンを購入したのだ。
ジャンヌの音楽には、モノクロの世界に色を与える力がある。楓の声には、さらに世界を輝かせる力がある。耳にはついに手に入れた宝物のイヤホン、手には学校での使用が禁止されているスマートフォン。
少しずつ学校が近づいてきても、世界はキラキラしたままだ。たった二年前、泣きながら同じ電車に乗っていたのがウソみたいだ。
京王井の頭 線の浜田山駅から歩いて十分のところにあるプロテスタント系の私立校、稜花女学院は、中学受験をした陽葵の第一志望校だった。
とはいえ、小さい頃から引っ込み思案で、何かを主張したことのほとんどない陽葵に稜花を志望した覚えはない。気づいたときには中受専門の塾に通わされていて、稜花が自分の第一志望であるというレールに乗っていた。
両親も熟考してのことだったのだろう。それなりに勉強のできた陽葵にとって、稜花はがんばれば手の届く学校だったし、自宅から通える距離でもあった。「自由」を標榜するプロテスタント系の校風は、「従順」を掲げるカトリック系の学校より両親の主義主張に合致していた。何より母が学生時代に憧れた学校であることが大きかった。小学生だった陽葵はそのどれにもピンと来なかったが、しいて言えばブルーのタータンチェックの制服はカワイイと思った。
受験当日の二月一日の朝は人生でもっとも緊張した。ウェブで合格が発表された当日の夜はうれしさとプレッシャーから解放されたことで、自分でも想像していなかったくらいの涙があふれた。
入学してしばらくは慣れない満員電車にもめげず、意気揚々と通学していた。けれど、それは一ヶ月ともたなかった。最初に面食らったのは、教室で我が物顔をしている附属小あがりの子たちの存在感の大きさだった。
一学年が百六十人ほどの稜花女学院は、約百二十名の外部からの受験組と、四十名の内部進学組にわけられる。
もちろん附属の稜花小学校から上がってくる子たちがいるのは前もって知っていたし、ネットの書き込みなどで内部組が目立つといった情報も得ていた。
それでも、割合にすれば三対一で外部組の方が多い。A~E組の五クラス編成であることを考えれば、一クラスに八人ほどしか内部生はいない。入学して、たとえば部活でも始まってしまえばそんなグループなどうやむやになるだろうとたかをくくっていたけれど、彼女たちは何かを誇示するように内部組で固まり続けた。
不運だったのは、陽葵のクラスにとくに目立つ内部生が集まっていたことだ。もちろんそれはあとになって知ったことだし、本当の意味で目を惹く子は二、三人しかいなかったが、陽葵は次第に内部生そのものにアレルギーを持つようになっていった。
決定づけたのは、リーダー格の宮古沙羅にはじめて話しかけられたことだった。
「小宮さんってどこから来てるの?」
五月のある日、沙羅はいきなり陽葵に声をかけてきた。内部組の中でもずば抜けて目立つ存在である彼女が自分の名前を知っていることに戸惑いつつ、陽葵は「高幡不動だよ。京王線の」と素直に応じた。
一瞬、時間が止まったようだった。直後に吹き出した沙羅の表情がいまだに脳裏にこびりついて離れない。
「何それ? 寺? 超おもろい。東京なの? ああ、でも、そうなんだ。だから小宮さんってそういう感じなんだね」
決して意地悪を言うふうでもなく、沙羅はさらりと口にした。陽葵もまた怒るでもなく、沙羅と一緒に大笑いした。「だから」どういう感じだというのだろう? そんな疑問がじわじわと湧いてきたのは直後の授業中のことだった。何より楽しくもないのに一緒になって笑ってしまった自分自身に、陽葵はひどく傷ついた。
陽葵の元気がないことに母はすぐに気づいたようだ。そんなときに限って、父は「学校はどうだ? 友だちはもうできたか?」などと尋ねてきた。小学校の友人は当然みんな地元に住んでいて、自分の街がどうこうなんて考えたこともなかった。中学に入ってからは「あの子は目黒 」「あの子は吉祥寺」といった声が意識しなくても耳に入ってきて、それに反比例するように地元の広い空を見上げる機会が少なくなった。
それこそ沙羅の家は渋谷にあるらしく、祖母、母ともに稜花の出身、お父さんは知っている子は知っている有名なイラストレーターであるそうだ。それを人づてに聞いたときは素直に「すごいね」と応じられたはずなのに、あのやり取りがあってからは何を感じればいいかよくわからなくなった。
教室の中で内部の子たちが固まっているのが苦痛で仕方がなかった。みんなが自分の話をしているわけではないと理解していても、沙羅の小馬鹿にしたような笑い声が聞こえるたびに身体が硬直する感覚に襲われた。
あの頃は学校に向かう電車に乗るのもつらかった。稜花の制服が見当たらない地元駅では問題ないのに、少しずつ生徒が増えていき、京王線から井の頭線に乗り換える明大前駅が近づいてくると呼吸が荒くなった。そんな陽葵を救ってくれたのがジャンヌルダンだったのだ。
電車がその明大前に到着し、陽葵はゆっくりと席を立った。以前は一応ここでイヤホンを外していたが、今日からもう三年生だ。高校生がいるとはいえ、とりあえずうるさく言う先輩はいない。
いいことは続いた。京王線のホームから井の頭線のホームに降りたところに、赤城千佳が立っていたのだ。
千佳は一年生のときのクラスメイトで、当時は一番親しかった。何よりも陽葵にジャンヌを教えてくれた子で、クラスが離れた二年生になってから少し距離は遠ざかったが、廊下で顔を合わせれば笑顔で手を振り合った。
「ああ、陽葵ー! おはよう! 春休み終わっちゃったねぇ。ダルいよねぇ」と、千佳はまったくダルくなさそうな笑みを浮かべた。
「うん、おはようー。三年生になってもよろしくねー」
同じように笑顔で挨拶を交わしながら、陽葵の胸は高鳴った。千佳の向こうどなりに薬師寺杏がいたからだ。顔の広い千佳とはいえ、杏ともつながっているのは意外だった。同じクラスになったことはないだろうし、千佳は軟式テニス部で、杏は軽音楽部と聞いている。
杏は入学式から誰よりも目を惹く子だった。当時からすでに百六十センチを超えていて、制服の着こなしもあか抜けていた。お人形のようという形容がしらじらしいほど顔が小さく、肌の色なんて真っ白だ。大学生に告白されたとか、高校生の恋人がいるとか、いろいろなウワサが飛び交っている。
やはり内部生でありながら、杏には誰かとつるんでいる様子がほとんどない。いつも気怠そうに机に突っ伏し、たまに起きているときは必ずといっていいほど本を開いている。
そんな杏に憧れている子は多かった。陽葵もいつか話をしてみたいと思いながら、今日まで言葉を交わしたことはない。
その杏がすぐそばにいる。おそるおそる横顔を覗き込んだら、どういうわけか杏の方が陽葵を凝視し、大きく目を開いていた。
「え、何……?」
思わずうわずった声を上げてしまう。その陽葵にぐいっと近寄って、杏は思ってもみないことを尋ねてきた。
「それって、ミライテクニカのフルワイヤレスイヤホン?」
「え? ああ、これ? うん。そうだけど……」
「臨場感がすごいってネットで見た」
「なんかそうみたいだね」と、本当は両親が呆れるほどネットのレビューを読み込んでいたくせに、なぜかそのことを隠してしまう。
杏の白い顔が朝日に照らされて輝いている。
「私、一回試してみたいって思ってたんだよね。ごめん、ちょっと聴かせてくれない?」
「う、うん。べつにいいけど」
少しだけ潔癖の気のある陽葵にとって、本音をいえば誰かとイヤホンを共有することはしたくなかった。
とはいえ、杏が相手なら話はべつだ。いや、たとえ誰に頼まれたところで自分は断ることなどできないだろう。
陽葵が渡したイヤホンを耳に入れた瞬間、杏は大げさに仰け反った。
「ぐはぁ、すごい! 北村楓が目の前にいる!」
条件反射的に鼻先がギュッとなった。自分の好きなものが、好きな誰かに受け入れられるのがこんなにうれしいのはなぜだろう。
杏の反応を見て、千佳も表情を明るくさせた。
「マジー? そんなにすごいの? ちょっと私にも聴かせてよ!」
なかばひったくるように杏からイヤホンを受け取ると、千佳はさらに大げさな仕草を作ってみせた。
「ぎょえー、楓がいる! 私のとなりに楓がいる!」
わざとらしく周囲を見渡す千佳に笑っていたら、再び杏と目が合った。普段クールな杏の見せる笑顔も最高に愛らしい。
「あの、薬師寺さんは何を聴いてるの?」
「うん?」
「それ」と、打ち解けたつもりはなかったけれど、陽葵は気安い調子で問いかけた。触れたら折れそうなほど細い杏の首に、ドイツ製の無骨なヘッドホンがかかっている。
「ああ、これ? これは、そうだね──」と、なぜか照れくさそうに言い淀んで、杏は仕方ないというふうに首をひねった。
「まぁ、愛宕山?」 この子と同じクラスになれたらいいなと、瞬時に思った。
「落語の?」と尋ね返したら、杏のつぶらな目がさらに大きく見開かれた。
『春までのセンセイ』は全3回で連日公開予定