「すいません……」
「いいんです。気にしないで」
店主は膝を折って顔を覗き込み、真琴が落ち着くようにと背中を撫でてくれた。
その手のひらがあまりにも優しく、そして温かかったため、真琴は声をあげて泣いてしまう。
いつの間にか、真琴は店主に事情を話していた。
会社で残業をしてクタクタだったこと。
しかし、残業は自分が蒔いた種だったこと。上司や先輩に迷惑をかけてしまったこと。みんな怒らず、『気にしないで』と言うこと。
「いっそのこと怒られたほうが、気が楽なのかもしれません……。怒られて、罰を受けて、そうすれば、スッキリするのかも……。でも……」
そうはならなかった。
皆、真琴に優しかった。だからこそ、いたたまれなかった。
「ごめんなさい。初対面の、しかもお店のかたにこんなことを話して……」
真琴はすっかり萎れていた。
美味しいシナモンロールが半分残っているというのに、店主に聞かれてもいない事情をぶちまけてしまったことへの後悔と罪悪感で、胸がいっぱいだった。
しかし、店主は嫌な顔一つしなかった。
真っ直ぐな眼差しで真琴を見つめ、静かに頷いた。
「……大変でしたね」
向けられたのは、労わりの言葉だった。真琴は慌てて首を横に振る。
「とんでもない! 大変なのは上司や先輩です!」
「たしかに、皆さん大変だったかもしれません。でも、それは覚悟のうえなんじゃないですか?」
「へ?」
真琴はきょとんとしてしまう。
店主は真琴の目を見つめたまま、静かに続けた。
「誰だって、なにをするにしたって、最初から上手くできるはずがない。彼らはそれを理解しているから、お客さまへ熱心に指導して、フォローするんです」
「それは……」
真琴はもごもごと口ごもるが、店主は続けた。
「彼らもきっと、昔はそうだったんです。誰にでも、新人の時代はあるでしょう?」
頼りになる上司や先輩も、ミスをしてしょんぼりしたことがあったのだろうか。
真琴には想像がつかなかったが、店主の言い分はもっともだ。
「店主さんも……そういう時はあったんですか……?」
「ありましたよ」
店主は、迷うことなく頷いた。
「俺は、食事や飲み物を運ぶのが苦手だったんです。コーヒーをひっくり返すなんて日常茶飯事でしたからね」
「ええっ、そうは見えない……!」
「練習しましたから」
店主は微笑む。その笑みには、力強さがあった。
なんでもそつなくこなせそうな店主がコーヒーをひっくり返す姿なんて、想像ができない。
だが、この人にも新人時代があったのだろうと真琴は納得した。
その時に努力を積み重ねて、今のそつがない雰囲気になったのかもしれない。
「私も、ちょっとはマシになれるでしょうか……?」
「諦めずに努力をすれば、きっと。人によって、かかる時間は違うと思いますが」
大事なのは、諦めないことだという。
「反省をするのは大事です。でも、自分を責めすぎてはいけないと思うんですよね。自分で自分を叱ると、色々なことが考えられなくなってしまうと聞いたことがありますよ」
「私、ずっと自分で自分を叱ってた……」
真琴は、心当たりしかなかった。
そんな真琴に、店主は優しく微笑む。
「それじゃあ、自分を叱る前に美味しいものでも食べましょう。お腹いっぱいになって元気になれば、翌日もきっと頑張れるはずですから」
「はい!」
真琴は大きく頷く。
目の前が一気に開けたような気がした。
そんな真琴の視界に、ふと入り込んだものがある。それは、先ほどまで追いかけていた存在だ。
「パンだ! じゃなくて、コーギーだ!」
「ああ。俺の相棒です」
店主がそう言うと、コーギーは短い脚でちょこちょことやってきて、店主の隣に座った。
「犬は大丈夫ですか?」
「ええ。むしろ好きです。飼ってたわけではないんですけどね」
散歩をしている犬を見ると、つい顔がほころんでしまう。
真琴の「好き」という言葉に反応してか、コーギーはピンと耳を立てて近づいてきた。
真琴の足元までやってくると、寄り添うように寝そべる。
「可愛い……!」
「パンを食べ終わったら、撫でてやってください」
「いいんですか?」
「もちろん」
店主は微笑み、コーギーは口角を吊り上げて笑顔で頷く。
「このコーギー、人の言葉がわかるんですか……?」
「彼はコムギっていうんです。難しい単語じゃなければわかりますよ」
「へぇぇ! コムギくん、賢いんだね!」
真琴が褒めると、コムギは顔を上げて目をキラキラさせる。その誇らしげな様子に、真琴は思わず笑ってしまった。
コムギという名前は、言い得て妙だ。コムギの身体は美しい小麦色で、パンの化身のようだった。
「そういえば、コムギくんは首輪をつけないんですか?」
真琴の問いに、店主は少し困ったように笑った。
「相棒ですからね。つけませんよ」
そういうものなのかな、と真琴は思うが、コムギは本当に人語がわかっているようだし、リードもいらないのだろうと納得した。
コムギがプラネタリウムベーカリーの犬ならば、意図して真琴を連れてきたのかもしれない。人間の客引きよりも優秀だ、と真琴は感心する。
そんなコムギのつぶらな瞳は、純真無垢な輝きを放っている。双眸の煌めきは、まるで星空のようだ。
真琴はそう思いながら、頭上を見上げる。
「あれ……?」
「どうしました?」
「都会なのに、星が見えるんですね」
ほんのわずかだが、暗闇と思っていた空に星がちりばめられていた。
真琴の呟きにも近い言葉に、店主は頷く。
「街が明るくて見えづらいかもしれませんが、そこに星があると信じて目を凝らせば、意外と見えるものです」
一等星がようやく見えるくらいだろうか。それでも、真っ暗な空から星が見守ってくれていると思うと、真琴は心強かった。
プラネタリウムベーカリーという店名の意味がわかった。
星空の下のパン屋さんだからだ。もっとも、星空はスクリーンに映し出されたものではなくて、本物だが。
真琴は、一人頷く。
「私、頑張れそうな気がします」
「それは良かった」
店主は嬉しそうに微笑んだ。まるで、自分事のようだった。
優しい人なんだな、と真琴は思う。
「少しずつ休みながら、自分のペースで頑張りましょう。もし、お客さまが一人前になったら、先輩や上司がしているように振る舞えばいいんです」
「そうですね……!」
真琴の先輩や上司も、新人の頃は思うように動けず、彼らの先輩や上司のお世話になったのだろう。
だからこそ、真琴の失敗に寛容で、親切にしてくれるのだ。
失敗にくよくよしている場合ではない。早く一人前になって、次の新人を教える立場にならなくては。
真琴は残ったシナモンロールを頬張る。
少しだけ涙の味がしたが、シナモンの優しい香りが涙を包み込み、悲しみに満ちていた真琴の心を癒やしていった。
翌日、真琴は晴れやかな気分で出勤した。
プラネタリウムベーカリーでシナモンロールを食べ、コムギを撫でまわし、元気を充電して帰ったためだ。
朝食には、プラネタリウムベーカリーで買ったミルクパンを食べた。
一晩置いたせいで少し硬くなっていたけど、電子レンジで軽く温めると、ふっくらと柔らかいパンに戻ってくれた。
「今日は調子が良さそうだね」
出勤した真琴を見て、先輩は言った。
「はい! 朝食もちゃんと食べましたし。今日はミスをしません!」
意気込む真琴に、先輩は苦笑する。
「そんなに肩ひじ張らなくていいよ。リラックスしてたほうがいいこともあるしね」
「そうですね……!」
先輩の言うことはもっともだと思いつつ、真琴は席に着いた。
ブラインドのすき間から射す朝日が心地よい。昨日までは、また失敗したらどうしよう、という不安があったのだが、今朝は嘘のように消えていた。
失敗しないようにしたいけど、慣れない仕事だから失敗するかもしれない。
でも、頼もしい先輩や上司がいる。だから、大丈夫。
もし失敗したとしても、次は同じ失敗を繰り返さないようにすればいい。
真琴はそう考えるようになっていた。
これも、プラネタリウムベーカリーのお陰だ。
店主が親身になって話を聞いてくれたから、暗雲が立ち込めていた真琴の心にも朝日が射したのだ。
そして、プラネタリウムベーカリーに導いてくれたコムギのお陰でもある。
店主とコムギにお礼を言いたい、と真琴は思った。
ランチタイムに会えるだろうか。それとも、夜にならないとやって来ないのだろうか。
先輩ならばなにか知っているかもしれないと思い、真琴は話を振ってみた。
「そうだ、先輩。この辺りに素敵なキッチンカーが停まってたんですよ」
「へぇ。どんな?」
「プラネタリウムベーカリーっていうパン屋さんです」
「移動式ベーカリーさんか。いいねぇ。でも、そんな店見かけたことないけど……」
先輩は首を傾げる。
真琴は昨日の出来事を先輩に話したのだが、ますます怪訝な顔をされるだけだった。
「第一、その時間帯にキッチンカーは来ないよ。客は誰もいないしね。それに、キッチンカーは開けた場所か通り沿いに停まるはずだから、ビルの陰には店を開かないよ」
プラネタリウムベーカリーがあった場所はやけに閑散としていたし、真琴もコムギに案内されなかったらわからなかった。
やはり、真琴の違和感は間違いではなかったのだ。
「でも、あなたが嘘を言ってるとも思えないんだよね」
先輩は不思議そうな顔をしている。
きっと、真琴も同じような表情になっていたことだろう。
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