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「あっ!」

 そのまま逃げてしまうのだろう、と真琴はコーギーを見送ろうとする。

 しかし、コーギーは真琴の視界から消える前に、ピタリと止まって振り返った。

「えっ、なに? 私と遊びたいの? 追いかけてほしいの?」

 真琴の足は、吸い寄せられるようにコーギーに歩み寄る。

 コーギーは、つぶらな瞳で真琴を見つめ、ふっくらとしたおしりをぷりぷりと動かすだけだった。

「その美味しそうなおしりでどうしようっていうの? そんなに見せつけられたら、かじりつきたくなるじゃない……!」

 真琴のお腹が鳴る。空腹もそろそろ限界だ。

 ランチタイムはコンビニで買ったカルボナーラパスタを食べたのだが、もうとっくに消化されているはずだ。

 コーギーは再び走り出す。今度は、さっきよりも少し緩やかな小走りだった。

 真琴は、コーギーのおいしそうなおしりに導かれるままに、ふらふらと追いかけてしまう。

 空腹と疲労のあまり、頭が働かない。

 自分が追いかけているのがコーギーなのか、大きなパンなのかわからない。

 ふかふかのパンにかじりついて空腹を満たしたいのか、モコモコのおしりをモフモフと撫でて癒やされたいのか、真琴にはもう、判別がつかなかった。

 目の前のコーギーが本物かもわからない。

 限界の真琴が見た幻覚の類かもしれない。

 だが、真琴はひたすらコーギーを追いかけ、ビルの角を曲がったその時、ふわりと心地よいコーヒーの香りがした。

「いらっしゃいませ」

 爽やかな青年の声がする。

 そこには、エプロン姿の青年が立っていた。首にはおしゃれなスカーフを巻いている。

「えっ……?」

 コーギーにつつまれた、いや、狐につままれた心地になる。

 青年の背後には、クリーム色のキッチンカーが停まっていた。

 キッチンカーの前には、折り畳み式の椅子とテーブルが置かれている。コーヒーの香りはキッチンカーの中から漂っていた。

 コーギーの姿はない。

 だが、コーヒーの香りに包まれるように、焼きたてのパンの香りがする。

「『プラネタリウムベーカリー』?」

 真琴は、キッチンカーに記された店名を読む。ほうき星をともなった、ポップなロゴだ。

「よろしかったら、ご休憩はいかがですか?」

 エプロン姿の青年が問う。

 年齢は真琴と同じくらいか、少し上だろうか。

 すらりと背筋を伸ばした、凜々しい顔立ちで目元が爽やかな青年だ。

 よく見ると、黒髪に少しだけ茶色い髪が混じっている。メッシュを入れているのだろうか。オシャレだと真琴は思った。

 目の前の青年に微笑まれ、真琴はまごまごしてしまう。

 こんなキッチンカー、あっただろうか。

 オフィス街に来るキッチンカーは多いが、基本的にはランチタイムに来るし、広場に出店する。

 しかし、『プラネタリウムベーカリー』を名乗るこのキッチンカーは、人通りがある広場ではなく、人の往来があまりないビルの脇に停めてある。

 そもそも、大半のオフィスは終業時間が過ぎている時間帯だ。

 ここは住宅街や繁華街でもない、オフィス街である。キッチンカーを出すには妙なタイミングだと真琴は思った。

 訝しさが胸を過る。

 しかし次の瞬間、ぐぅぅとお腹が大きな音を立てた。

「ひゃっ!」

 真琴は慌てて押さえるが、エプロンの青年に聞かれてしまったようだ。

 彼は微笑ましげな顔をする。

「席が空いているのでどうぞ。ここで召し上がっていきますか?」

「はい……」

 青年が椅子を引くので、真琴はつい腰かけてしまう。

 歩くパン、いや、コーギーはどこに行ったのか。

 このキッチンカーは、どうしてこんなところに店を出しているのか。

 そもそも、営業許可は取っているのだろうか。

 様々な疑問が駆け巡るものの、今の真琴にはどうでもよかった。

 都会のオフィス街に首輪をしていないコーギーが歩いているのも、変な場所と変な時間帯にキッチンカーが停まっているのも、疲労と空腹が見せた夢かもしれない。

 そもそも、あれこれ考えられるだけの元気がもうない。

 真琴は椅子に座った瞬間、己の充電が切れたことを自覚した。

 もう、立つ気力すらない。

 真琴の選択肢は二つ。なにかを食べて元気を回復させるか、そのまま寝てしまうかのどちらかである。

「……お腹すいた」

 真琴の口から、か細い声が漏れた。

 とにかく今は、なにかを食べたい。

 キッチンカーのほうを見やると、パンがずらりと並んでいた。真琴はまるで宝箱の中を覗いている心地になり、生唾を飲み込んだ。

 よく見れば、ぽつぽつと売り切れのパンもあり、自分のような残業帰りのビジネスパーソンが買っていったのだなと想像できた。

 種類はそれなりにあるのだが、今の真琴には、どのパンにしようか迷うことを楽しむ余裕はない。というか、椅子から立ち上がる気力すらなかった。

 真琴がぼんやりと眺めていると、青年がすすめてきた。

「イートインメニューには、『店主のおまかせセット』もありますよ」

「じゃあ、それで」

 真琴は即答した。

「お任せください」

 青年はにこやかに微笑み、キッチンカーへと向かう。彼が店主なのだろう。

 若いのにすごいな。自分とは大違いだな。

 そう思いながら、真琴はキッチンカーのそばに立てられたメニューボードを見やる。

 きっちりとした文字でイートインのメニューが綴られており、その周りに、子どもの落書きみたいな可愛らしいパンと星がたくさん描かれている。

 メニューを書いた人物と、イラストを描いた人物は違うのだろう。

 メニューを書いた人は、あの青年店主だろうか。真面目でしっかり者というのが文字から伝わってくる。

 イラストを描いた人物はどこにいるのだろう。見回してみるが、店主以外は見当たらない。

 きっと元気な人なんだろうな、と真琴は思う。イラストはメニューボードからはみ出さんばかりに描いてあって、元気に溢れていたから。

 店主が教えてくれた『店主のおまかせセット』は、ドリンク一杯とパン一個のセットメニューだった。

 価格は良心的で、真琴は贅沢をしているという罪悪感が芽生えない。

 ドリンクとパンは店主が選んでくれるらしく、客によって出すものが違うとのことだった。

「珍しいな……。日によって違うのは見たことがあるけど」

「お客さま、コーヒーはデカフェでいいですか?」

「あ、はい!」

 キッチンカーの中から店主の声がして、真琴が慌てて答える。

 コーヒーは飲みたかったものの、カフェインで眠れなくなったらどうしようと心配していたところだ。

 店主のお察し能力がすごい、と真琴は感心する。

 しばらくして、店主はトレイを片手にやってきた。

 コーヒーの香りに混じって、ふんわりと優しいシナモンの香りがする。

「お待たせしました。カフェインレスコーヒーとシナモンロールのセットです」

 テーブルの上に置かれたのは、白いマグカップに淹れられたコーヒーと、丸いシナモンロールだった。

 ふんだんに使われたシナモンが、柴犬の尻尾のように渦を描いている。どうやら焼きたてのようで、近くにあるだけで温かい空気が伝わってきた。

「美味しそう……!」

「どうぞ。召し上がってください」

 店主に言われ、真琴はマグカップとシナモンロールを同時に手にした。

「いただきます!」

 コーヒーを一口含むと、ほろ苦くも心地よい風味が口の中に広がる。

 ほっと一息吐いた真琴は、潤った口の中にシナモンロールを頬張った。

 もふっと柔らかい感触がする。温かさと柔らかさと、シナモンの優しさが、口の中で弾けて鼻から抜けた。

「お、美味しい……!」

 真琴の目が覚める。

 ぼんやりとした頭が鮮明になり、みるみるうちに気力が湧いてくる。

「シナモンは血行促進に効果的ですからね。お疲れの身体によく効くと思いますよ」

 店主の言葉に、真琴は何度も頷きながらシナモンロールを口に運ぶ。

 自分が求めていたものはこれだ。真琴はそう確信し、夢中になって食べていた。

 だが、半分くらい食べたところで、ふと手が止まる。

 今日一日の出来事が、フラッシュバックしてしまったのだ。

「どうしました?」

 店主は心配そうに尋ねる。

「あ、いえ、とっても美味しいです。でも……」

 コーヒーやシナモンロールのせいじゃない。そう伝えようとした瞬間、真琴の頬に涙が伝った。

「お客さま……!」

「ごめんなさい、私……」

 コーヒーやシナモンロールのせいじゃなくて、悪いのは私。

 遅くまで残業してしまったのも、上司や先輩のせいじゃなくて、私が悪い。

 自己嫌悪で胸が押し潰されそうになり、真琴はポロポロと涙を流していた。店主に迷惑をかけてはいけないと思うものの、涙が止まらなかった。

 

『プラネタリウムベーカリー』は全3回で連日公開予定