最初から読む

 

 

 頭上からチチチチッという、舌を鳴らすような音が聞こえてくる。顔を上げると、そばにそびえ立っている大樹のはるか高い位置にある枝に、羽を広げたフクロウのようなシルエットが見えた。

 しかし、よく見るとそれは明らかにフクロウではなく、そもそも鳥ですらない。巨大なネズミのような生物。羽のように見えていたのは、体の左右についている大きな耳だった。

 洞窟を出て急な斜面を駆け降り、鬱蒼とした森に入ってからすでに二時間くらいは経っている。

 連なっている樹々が松のように葉の細い針葉樹であり、空に輝いている蒼い月がかなり明るいため、夜の森の中にもかかわらずなんとか見通すことができていた。

 ここに来るまで、何種類かの動物に遭遇した。それらは、全て見たことのない生物だった。まだ小動物のみなので、身の危険を感じることはなかったが、油断はできない。この世界の生態系がどのようなものなのか全くわからない以上、いつ巨大な肉食獣に遭遇しないとも限らないのだ。

 冬眠に入る前、病室で取り憑かれるように読んでいた小説では、異世界転生した主人公は簡単に敵をなぎ倒せるような強大な力を得ているものも少なくなかった。けれどいまのところ、特別な力を使えるような感覚はない。

 できることなら人間に、そうでなくても友好的にコミュニケーションが取れる知的種族に会いたい。そうすれば、この世界の構造、生きる術、そして、自分がこの世界に転生した理由などがわかるだろうから。

 そこまで考えたところで、思わず苦笑が漏れてしまう。

 何を真剣になっているのだろう。ここが仮想世界であることはほぼ間違いない。だとしたらゲームとして割り切ってもっと気軽に楽しんでもいいのかもしれない。

「でも、ゲームは本気でやらないと面白くないよな」

 たとえ、これが本当の体でなかったとしても、自由に動き回れることが嬉しかった。洞窟を出てから休むことなく歩き続けているが疲労は感じていなかった。それどころか体は軽く、全身に力がみなぎっている。もしかしたらこの仮想世界には、疲れや痛みなどの負の感覚はプログラムされていないのかもしれない。

 そんなことを考えていると、低い唸り声が鼓膜を揺らした。明らかな敵意を持った声。

 反射的に声のした方向に視線を向けた瞬間、全身に緊張が走る。樹々の隙間を通して、数十メートル先に小山のような巨大な影と、四つの黄色い光が佇んでいるのが見えた。

 なんだ? 目を凝らしたとき、大きな咆哮が大気を揺らし、影がこちらに向かって走り出した。その巨体に似合わぬ敏捷性で、樹々の隙間をすり抜けながら、地響きと共に影が近づいてくる。

 差し込んでくる月光が、その生物にまとわりついている影を剥ぎとる。

 背筋に冷たい震えが走り、体が硬直する。それほどに、迫ってくる獣の姿は恐ろしいものだった。

 太い四本の足で地面を駆けるそのフォルムはイノシシに似ていて、大型のSUVほどはあるその巨体は針金のような毛に覆われている。正面に大きく開いた口の上下に二対、人間の腕ほどの太さがある牙が生えている。鼻はない代わりに、四つの巨大な目がこちらを見ていた。おそらくは暗闇を見通せる能力があるのだろう。四つの瞳は怪しい光を孕みながら迫って来る。

 獣と自分の間に障害物がなくなる。再び咆哮を上げると、獣はさらにスピードを上げた。横に飛ぶ余裕すらない。とっさに足に力を入れ、その場でジャンプしてしまう。

 自分の身長より体高のある敵を飛び越えられるわけがない。撥ね飛ばされる。

 覚悟を決めて目を固く閉じるが、予想した衝撃が来ることはなかった。

 何が……? 瞼を上げて息を呑む。地上から三メートル近く離れた位置に体が浮かび上がり、その下を猛スピードで獣が通過していた。地面にふわりと着地し、自らの体を見下ろす。

 全く疲労を感じなかったので、この世界では負の感覚はプログラミングされていないと思っていた。けれど、間違っていた。この体が想像より、はるかに高い運動能力と体力を秘めているのだ。

 必殺の体当たりを避けられた獣は、十メートルほど先で急停止すると、猫を思わせる俊敏な動きで振り返り、こちらを睨みつける。怒りのためか、四つの瞳の輝きがさらに強くなり、牙の生えた口が大きく開かれた。しかし、もはや獣からさっきまでの圧倒的な威圧感を覚えることはなかった。

 これが仮想世界でのゲームなら、こいつは最初に遭遇するザコ敵だ。恐れる必要なんてない。

 重心を落とし、ボクサーのように両手を胸の位置に上げて構える。獣は大きく雄叫びを上げると、再び体当たりを仕掛けてくる。しかし、その直線的な動きは容易に予測できた。鋭い牙の先を向けて迫ってくる獣の突進を闘牛士のようにひらりと躱すと同時に、全力で拳を振る。

 大地を踏みしめて発生した力が、腰、肩、腕へと伝わり、上下に並んだ獣の瞳の間に炸裂した。

 頭蓋骨が砕ける感触が拳頭に伝わる。獣は眼球を破裂させながら、その巨体のバランスを崩し、突っ込んできた勢いそのままに横倒しになって地面を滑っていった。

 倒れた獣は大きく開いた口から血の泡と断末魔の絶叫を上げながら、激しく四本の足をバタつかせていたが、やがてその動きは弱くなり、ついには動かなくなった。

「やった……」

 荒い息をつきながら空を仰ぐ。木々の葉の隙間から覗く蒼い月がやけに美しかった。

 帝王学の一環として、幼い頃から空手や剣道などの武術も習っていた。しかし、本気で拳を敵に打ち込んだのはこれが初めてだった。しびれるような快感が今も拳から脳へと伝わっている。

 左手を胸元に当てると、掌に早鐘のような心臓の鼓動が伝わってきた。

 生きている! 俺はいま、間違いなく生きている!

 本物の世界では希薄になっていた『生』を、この偽物の世界では感じることができる。冬眠から覚めるまで、この世界で生きていこう。忘れかけていた生きる実感を、この世界で味わおう。

 右手を握りしめると、ぬるりとした生温かい感覚が走った。視線を落として唇が歪んでしまう。

 右手首から先が赤黒く粘性の液体にまみれていた、血液と脳漿だろう。

「ここまでリアルに再現しなくてもいいだろ……」

 思わず愚痴が漏れる。ゲームでリアリティを追求するのは当然だが、これほど不快な感覚をプログラムする必要はないじゃないか。

 とりあえず手を洗わないと……。そう思ったとき、遠くからかすかに水音が聞こえてきた。

 音が聞こえてきた方向へ慎重に進んでいく。数分歩くと延々と連なっていた森が途切れ、視界が開ける。眼前に野球場ほどの大きさの湖が広がっていた。その水面は天から注がれる月光を反射し、湖全体が淡い蒼色に輝いているかのようだった。湖の中心辺りで巨大な魚が跳ねる。魚の頭部にたてがみのように生えている半透明の背びれが、七色にきらめいた。

 コンピューターによって作られた仮想空間、偽物の世界だとしても、ここはとても美しい。

 岸に近づき、しゃがみ込んで湖にそっと手を入れる。ひんやりとした感覚が心地よかった。

 手についた獣の体液を洗い流していると、再びパチャパチャと水音が聞こえた。

 さっきの魚がまた跳ねているんだろうか? しかし、それにしては連続しすぎている。

 顔を上げ、耳を澄ます。その水音は数メートル先の岸辺にある岩の陰から聞こえてきていた。

 また敵でもいるのだろうか? そうなら、さっきの獣のように倒してしまおう。

 この世界がどのようなシステムになっているかまだ把握していないが、一般的なロールプレイングゲームなら敵を倒すごとに経験値を得て、能力が上がっていくのがセオリーだ。

 足音を殺して岩陰まで移動し、そっと顔を出す。

 その瞬間、時間が止まった気がした。

 そこにはあまりにも美しく、そして、幻想的な光景が広がっていた。

 見目麗しい少女が、一糸纏わぬその身体に蒼い月光を浴びながら、そこに佇んでいた。

 

偽世界転生 1』は全4回で連日公開予定