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遠くから声が聞こえる。小鳥のさえずりのような小さく、そして優しい声。
起きて、トキ。あなたならこの世界を救える……
俺なら世界を……? 深く暗いところから、意識が、『自分』がゆっくりと上昇していく。それとともに、漆黒の視界にほんのりと明かりがともり、やがてぼんやりと人の姿が浮かび上がってきた。
息を呑むほどに美しい女性の姿が。
スラリとした長身、絹のような光沢を孕んだ黒髪、細くすっと通った鼻筋。こちらを見る二重の大きな瞳には悲しげな光が浮かび、薄く形のいい唇は嗚咽を堪えるかのように固く結ばれていた。
どこかで会ったような気がする……。けれどそれがどこだか分からない。
必死に記憶を探るが、思考に靄がかかり思い出すことができない。
やがて水面に石を投げ込んだかのように、女性の姿は揺れはじめ、光の中にかき消えてしまう。
トキ……、あなたを信じてる……
柔らかく、深い悲哀に満ちたその言葉とともに、視界が真っ白に塗りつぶされた。
次の瞬間、世界が急速に加速し、回転しはじめる。まるで竜巻に巻き込まれたかのように。
「うあああああー!」
肺の奥から勢いよく吐き出された空気が、叫び声となって大きく開いた口からこぼれる。
瞼を上げた瞬間、目に飛び込んできた光の刺激に眼球が焼けるような感覚をおぼえ、とっさに顔を手で覆おうとする。しかし、脳から筋肉へと指令を伝える神経が断線しているかのように、腕はほとんど動かなかった。
やがて目が光に順応してきたせいか、視界に像が結ばれはじめた。
ここはどこだ? 混乱しながら、眼球だけしきりに動かして自分の状況を必死に探る。
繭のような容器に、裸で横になっていることに気づく。正面には外側に向かってなだらかな曲線を描く透明なカバーが見えた。低くこもった駆動音が響き、カバーがゆっくりと開いていく。
出ろってことか? 歯を食いしばって上半身を起こそうとする。今度はなんとか脳の指令が筋肉に伝わった。しかし、体がわずかに動いただけで、全身の関節が錆びついているかのように軋む。
痛みに耐えながら必死に手を伸ばし、横たわっている容器の縁に指をかけて力を振り絞る。
容器から這い出すと、数十センチメートルの高さから、産み落とされる小馬のように落下した。ほとんど受け身を取ることなく背中を硬い床に打ち付けてしまう。
苦痛のうめき声をあげながら大の字になって見上げた天井が、淡い緑色に発光していた。
ここは……? 洞窟のように見えるけれど。混乱で息が乱れる。裸の背中から伝わってくる床の冷たさが、骨にまでしみ入ってくる。体がガタガタと細かく震えはじめた。
寒い……、痛い……。もしかしたら俺は、このまま死んでしまうのだろうか?
こんなどこだかわからない場所で、自分が誰なのかも理解しないまま。
そのとき、ついさっきまどろみの中、美しい女性にかけられた言葉が耳に蘇る。
――起きて、トキ。あなたならこの世界を救える。
トキ……、そうだ、俺は『トキ』と呼ばれていた。ごく親しい人たちから。
東都規、それが俺の名前だ! 胸の中で心臓が大きく脈打った。鼓動がどんどんと速く強くなっていった。大きく口を開くと、喘ぐように激しく呼吸をする。肺から取り込まれた酸素が、血の中に溶け込み、心臓の脈動によって体の隅々の血管まで巡っていく。鉛のように固く冷え切っていた全身の細胞が、熱を帯びていく。体中の汗腺から、熱い汗が噴き出しはじめた。
「あ、ああ、あああぁ!」
言葉にならない声をあげながら、腹筋に力を入れて素早く上半身を持ち上げた。あまりの勢いに臀部がわずかに浮く。軽く右手で床を押すと、まるでバネ仕掛けのおもちゃのように体がふわりと浮き、その場に立ち上がった。
いったいなにが起きているんだ? 混乱で荒い息をつきながら、必死に思考を巡らせる。脳細胞にも酸素が回りはじめたのか、霞がかかっていたような頭が、いまはすっきりとしていた。
「……俺は都規、東都規だ」
確認するように自らの名を口にしつつ、せわしなく視線を動かして辺りを観察する。
天井まで数メートルはある半円上の洞窟。繭のような形状のユニットが鎮座している。壁や天井が淡い緑色の光を発しているのは、どうやら光を放つ苔のようなものに覆われているからのようだ。
自分が何者かは思い出したが、未だに状況を把握できてはいない。洞窟はずっと続いているようだが、光る苔はこの周囲にしか生えておらず、奥の方は暗い闇に覆われていた。
漆黒の闇の向こう側から、うめくような声がかすかに聞こえてきた。
……風だ。洞窟の岩に風が当たっているだけだ。そう、自分に言い聞かせようとしたとき、喉の奥から小さな悲鳴が漏れる。さっき開いた透明のカバーに、手形がついていることに気づいて。
血液で描かれた手形が……。
よく見ると、洞窟の奥に向かって地面にも点々と血痕が落ちている。もしかしたらここは危険な獣の住処なのかもしれない。いつ闇の中から猛獣が襲ってくるかわからない。
落ち着け。まずは何が起きているか考えるんだ。ジリジリと後ずさりながら、必死に深呼吸を繰り返す。そのとき、背後から光が差し込んだ。反射的に振り返ると、数百メートル離れた位置に洞窟の入り口らしき場所があり、そこから蒼い光が差し込んでいた。
考える前に身を翻して地面を蹴っていた。裸足の足の裏から強い反動が返ってきて体が一気に加速する。予想外のスピードに思わず前のめりに倒れ込み、慌てて両手をついて、顔から地面に突っ込むことを避ける。まるで、初めて自分の体を動かしたかのように、動きがうまく制御できない。想像よりもはるかに筋肉の出力が上がっている。
ベッドの上で力なく横たわり、天井を見上げている記憶が脳裏をよぎった。
初めて体を動かすんじゃない。久しぶりに体を動かすんだ。病に冒されていた体を。
脳の奥底から記憶が湧き上がってくる。しかし、それを吟味することよりも、体を動かすことができる悦びが勝った。衝動のままに再び足で地面を蹴って走り出す。今度はバランスを崩さぬよう前傾し正面を見据える。
体がぐんぐんと加速していく。遠くに見えていた洞窟の入り口が瞬く間に近づいてきた。慌てて急ブレーキをかけ、洞窟の入り口の手前で立ち止まった彼は、思わず息を呑み、言葉を失う。
それほどに洞窟の外に広がっている光景は壮大だった。
切り立った山の中腹にある洞窟にいるのだろう。眼下には見渡す限り広がる草原と深い森、そしてそこに点在する湖が、月光に照らされ淡い蒼色に輝いている。
目を凝らすと、地平線を縁取るように山脈が連なり、その奥にかすかに都市のようなものが見えた。その中心にはルビーのように赤くきらめく塔がそびえ立っている。
「何なんだよ、ここは……」半開きの口からかすれ声が漏れる。
体を動かせる悦びで忘れていた不安が、再び胸に満ちてくる。
落ち着け。最後に覚えていることを思い出すんだ。彼はゆっくりと目を閉じた。
俺はあのユニットに入った。使い物にならなくなった体を治すために。
雫……。瞼の裏に悲しげに微笑む少女の顔が映し出される。
俺はAZUMAコーポレーション第一研究所の地下にある部屋で冬眠状態に入っていたはずだ。
なのに、ここはどこなんだ? なぜこんな洞窟で目を覚ましたんだ?
コールドスリープユニットをこの洞窟まで移動させた? 論理的にはそれ以外考えられない。けれど一体なぜそんなことをしたのだろう?
目を開けると、再び眼下に広がる壮大な景色を眺める。人員も十分な施設もないこの場所で、安全にコールドスリープなんかできるわけがない。下手をすれば命に関わることに……。
そこまで考えたところで、全身がビクリと大きく震えた。
体が自由に動くことで、治ったと思っていた。コールドスリープ中に治療を受け、全てがうまくいったと。けれど、本当にそうなんだろうか?
体が動かなくなってから読んだ、様々な異世界転生小説のストーリーが頭を駆け巡る。
異世界転生ものの基本的な雛形は、トラックに轢かれるなどして命を落とした者が、気づいたら異世界で生まれ変わっていたというものだ。もしかしたら、俺はコールドスリープに失敗し、命を落として異世界に転生してしまったのではないだろうか。
そこまで考えたところで激しく首を振って、頭の中に浮かんだ想像をかき消す。
死んだら違う世界で生き返るなんて、妄想だ。フィクションの中の出来事にすぎない。
だとしたら、いまの状況をどう考えればいいのだろうか?
コールドスリープに入る前は神経が断線したかのように脳の命令が伝わらなかった体が、いまは自由に動いている。それどころか、絹のように体が軽く、空すら飛べそうな気がする。
死んでいないなら、病気が治ったのは間違いない。なのにどうしてこんなところで冬眠から覚めてしまったのだろう。ふと、いたずらっぽく笑う兄の顔が脳裏をかすめた。いたずら好きの兄なら、自分を驚かせるために手の込んだサプライズを仕掛けてもおかしくない。
ということは、俺を覚醒させる前に、兄さんはコールドスリープユニットをわざわざこの洞窟まで運び込んで、目覚めたときにまるで異世界に転生したかのように思い込ませようと……。
そこまで考えたところで思考が止まる。山の稜線から並んで昇ってくる、大小二つの月を見て。
小さい月はやや楕円形で、血液のように深紅で、どこか禍々しく見える。それに対し、赤い月の数倍の大きさはあるもう一つの月は、深い蒼色に輝いており、地上に柔らかい光を注いでいた。
呆然と二つの月を眺めながら、必死にいま見ている光景を脳の中で咀嚼していく。
これで、どこかの洞窟に移送されたという可能性はなくなった。
ここは地球ではない。いや、そもそも自分が元いた世界でもないはずだ。
二〇七五年の時点では、火星に数百人の志望者が送り込まれ、コロニーを建設してその中で生活をはじめたにすぎない。いくらコールドスリープで何年か冬眠状態になっていたとしても、こうして普通に人間が生命活動を維持できる星に移動できるほどになっているわけがない。
本当に俺は異世界に転生してしまったのだろうか……?
そんなことありえない。けれど、それ以外にいまの状況を説明できない。
もしこれが本当に異世界転生だとしたら……。
小走りにコールドスリープユニットのそばまで戻ると、這うようにしながらその周囲を調べる。
コールドスリープユニットの陰に、折りたたまれた布製の服と靴、ブレスレットのようなものが置かれていた。
「やっぱり……」
異世界転生ものの小説では、転生した際にすでに衣服を身につけた状態のもの、新生児として生まれるもの、そして何も身につけない裸で転生するものなど、様々なパターンがあった。そして裸で転生した場合の多くは、転生場所の近くに衣服や必要な道具などが置かれているのだ。
やっぱり俺は本当に異世界に来たっていうのか……?
せわしなく服を着るとユニットに手で触れる。冬眠状態になる際に自分が入ったのと同じ機器。
やはり俺は死んだのではなく、冬眠状態から目覚めただけだと考えるべきだ。ただ、空に輝いている二つの月から、ここが自分が元々生きていた世界ではないということも間違いない。
そこまで考えたところで「あっ!」という声が口から漏れる。
冬眠状態に入る前、冗談交じりに兄と交わした会話が耳に蘇った。
――うちが開発しているフルダイブVRを、冬眠中のお前の頭につけといてやろうか。脳に直接作用して仮想世界に入り込んでゲームができる。寝ている間ずっと楽しめるぞ。
「フルダイブVRだ!」思わず上げた声が洞窟の壁に反響する。
これがフルダイブVRによって作られた仮想世界だとしたら全てに説明がつく。俺が冬眠中にフルダイブVR装置が完成し、それを俺の脳に接続したのだ。これは異世界ではなく、VR装置が微弱電流と磁気によって俺の脳内に生み出した存在しない偽物の世界。
つまり俺は『偽世界転生』をしたんだ。
状況が理解できたことで、安堵と失望が同時に胸に湧き上がってくる。
冬眠に失敗して命を落としてしまったという可能性はなくなった。しかし一方で、現実ではまだあの忌まわしい疾患が癒えることなく、機械の中で眠り続けているということだ。
「しかたないか……」彼は大きく息をつく。
せっかく兄が気を利かせて、この偽物の世界に『転生』させてくれたのだ。体が治るまでの暇つぶしとして、この世界を堪能するのも悪くない。
洞窟の外に広がる広い平原、そしてはるか向こうに見える中世ヨーロッパ風の街を見ると、これは剣と魔法の世界を楽しむロールプレイングゲームのようなものなのだろう。
「とすると、このブレスレットは最初に身につけるべき重要なアイテムといったところか」
白銀色のブレスレットを拾い上げると、それをまじまじと観察する。ルーン文字に近い複雑な文様が刻まれ、水晶のような透明な石が四つ嵌め込まれていた。そっと左手をブレスレットの中に通してみる。その瞬間、まるで吸い付くようにブレスレットが締まり、手首に巻き付いた。
「うおっ!?」慌てて手首から外そうとするが、ブレスレットは微動だにしなかった。
取り外すことを諦めて、軽く左手を振ってみる。違和感はなかった。それどころかつまみ上げたときに感じたずっしりとした重さすら、全く気にならない。元々体の一部だったかのような感覚。
仮想世界だから重さも感じなくなったのかもな。つまり、この世界にいる間は常につけておくべき重要なアイテムなんだ。無理やり自分を納得させると、次に取るべき行動を考えながら再びコールドスリープユニットを見つめる。
そこについている血の手形に、さっきまでは恐怖を覚えていた。しかしいまは、それもこの仮想世界でのイベントの手がかりでしかないのだろうと、ほとんど何の感情も抱かなくなっていた。
「さて、どうしようか?」
洞窟の奥に行くべきだろうか? もしかしたらそこから何かイベントが始まるかもしれない。
けれど、これまで多くのロールプレイングゲームをやってきた経験からすると、ゲームスタート地点の洞窟の奥にはいきなりラスボスクラスの敵が潜んでいることも少なくなかった。その可能性がある以上、まずはここから出て、あの広々とした平野部を探索し、この偽物の世界について詳しく知るべきだ。心を決めた彼は、洞窟の出口に向かって走り始める。
これが偽の世界だと分かっていても、久しぶりに味わう、足が力強く地面を蹴り体が加速していく感覚が心地よかった。
『偽世界転生 1』は全4回で連日公開予定