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 授業がいくつか休講になり、急に一日空きができた。思い立って一人で丹波凪子の居る施設を訪ねてみることにした。行きに乗ったバスは今日もガラガラで、どの席でも選び放題だ。僕は一人掛けの席に座って桜を探した。だけど茶色く変色した残骸をみつけただけだ。桜は時の流れを知らせてくれる。バスを降りたところで駐車場の車に目が留まった。グリーンのレクサスだ。母が「コガネムシ」と呼んでいるメタリックな緑だ。近づくと内装に見覚えがある。これは父の車だ。胸がざわついた。

 受付で伊織さんに取次ぎを頼むと、入所者の介護で外出しているという。凪子さん専任ではないのだから、そういうこともあるだろう。凪子さんへの面会を頼むと来客中だということだ。少し前に訪ねてきた人と庭に散歩に出たらしい。僕はある確信を持って凪子さんの姿を捜した。施設の庭は案外広く、植え込みで遊歩道が仕切られて見通しが悪かった。歩き回ってやっとベンチに座っているのを見つけた。その横には予想した通り父の姿があった。僕は植え込みに隠れながらベンチの後方に回り込んだ。父の声が聞こえた。

「私が人殺しだって。何を根拠にそんなことを言う」

 落ちついた声だが詰問のように聞こえる。父は二通目の手紙の内容を知らない。だとすると、一通目の「あなたの父親は人殺しです」という文面で動いたことになる。小説の一文ですませないつもりらしい。

「人殺し? それはあなたじゃない」

 凪子さんの声は明瞭だ。そしてはっきりと断言をした。

「じゃあ誰だ。どうして息子にあんな手紙を送った?」

 父の口調は強くなったが、声は低く抑えている。

「手紙? 手紙、ああ」

 いきなり声が転調した。ゆっくりと幕が下りてくる感じだ。

「忘れたのか?」

 父は既に凪子さんの病気のことを知っているようだ。

「復讐したの。白濱雅に復讐した。私、復讐したの」

 凪子さんは同じ言葉を繰り返した。それからは父の問いかけにもブツブツと呟くだけだ。

「どうして息子を巻き込むんだ。何がしたい?」

 相変わらず明確な答えはない。凪子さんはもう舞台から下りてしまった。現実を生きていないようだ。

「このまま全部忘れてくれ」

 押し殺した父の声は、哀願しているように聞こえた。

 父がその場を立ち去ってから、僕はベンチの前に立った。一人残された凪子さんは宙を見つめている。僕が視界に入っても、視線が揺らがないのが物悲しい。先日会ったことも忘れているようだ。

 僕は凪子さんの手を取って建物まで連れて行った。その時にはもう父の車はなかった。帰り道、鉛の玉を抱え込んだ気分だった。前に来た時、バスが揺れる度に二瑚と肩があたって心地よかった。その揺れさえも今は僕を痛めつける。

 

 次の夜、マシューとバイト時間が一緒になった。そしてバイト終わりに当たり前のように家までついて来た。マシューの服は漆黒で星がちりばめられていた。胸の辺りに朧げに月が浮かんでいる。合わせたのか今夜のピアスは三日月と星の形だ。体がしなる度に水面に映った影みたいに揺らいだ。

「夜、見つけたね」

「いいのがなかったから自分で染めた。予定通りリバーシブルだ」

 マシューは裾をまくって昼を覗かせた。僕は染めたというところに驚いて夜をじっと見つめた。すると今度は背中を見せて腕を大きく掲げた。背中は面倒くさかったのか真っ黒のままだ。

「どうだ。背中は漆黒の闇だ。夜のとばりは闇夜の幕開け。ちょうど腕の下からサイドへと紫が滲んでるだろ。そのあたりが夜のとばりだ」

 腕をあげると袖の下辺りに紫が見えた。紫はグラデーションで前後の黒へと変わっている。手抜きだと口にしなくて良かった。感性を疑われるところだった。

「すごい。それにヒラヒラ感も大丈夫みたいだ」

「だから言ったろ。俺のセンスは並外れてるからさ。動きに合わせたパターンが引ける」

「夜も作れる才能があるなら、デザイナーでもいけそうだ」

 得意顔になるかと思ったらそうでもなかった。その言葉にしょんぼりとしてマシューらしくない。

「痛いところを突く。俺がパタンナーに甘んじている理由はそこにある。アパレル業界には惑星や宇宙さえも創り出す奴らがごろごろいるんだ」

 上には上がいるということだ。気楽に生きていると決めつけていたけれど、マシューにも色々と葛藤があるようだ。

「ごめん」

「あやまられると余計傷つく。それに俺は別にデザイナーにはなりたかない。誰かが創り出した惑星を横取りする奴もいるし、捻り潰す奴もいる。要するにドロドロした業界だ。ピュアな俺には似合わない」

 何を言いたいのか分からなかった。マシューは僕が困惑しているのに気づいて、胸元を拳で軽く突いた。

「これは負け惜しみじゃない。自分が着たい服が売ってないから作る。だけど誰かに着せたい訳じゃない。リギーに俺の服を着せたくないってことだ」

「そりゃ着ないさ」

「おう、上等。おまえはきっちりとボタンがある体に添った律義服がお似合いだ」

 今夜、マシューは謎解きの話をしなかった。進展がないのだろう。僕は父が凪子さんを訪ねたことを隠した。二瑚にも内緒にするつもりだ。

 マシューは自分の家みたいにキッチンに立って、迷いもなく戸棚を開けた。

「コーヒー飲む? あれ、コーヒーメーカーがないぞ」

「ああ、ビーカーみたいなのが割れたから捨てた」

「それだけ買えばいいだろ」

「ぴったりなのがなかった。引き出しにドリッパーがある」

 マシューはプラスチックのドリッパーを取り出して、マグカップの上に載せた。

「百均のチープなやつだ。スタイリッシュ感ゼロ。それにどのカップに載せてもグラグラするぞ。リギーのカップは縦長しかない」

「ドリッパーの下の輪っかの大きさが丁度カップと同じだ。小さな輪っかのがなかった」

「さてはおまえ律義だけじゃないな。杓子定規で頭が固い」

「いきなり何」

「このコーヒーメーカーのガラスポットはぴったりでなくても入ればオッケーのタイプだ。ドリッパーの輪っかもカップより小さい必要はない。カップより大きくても穴はきっとカップに収まり、コーヒーは迷うことなくカップに落ちる。それでこの何とも嫌な感じのグラグラは解消だ。もう一つ方法がある。このドリッパーの輪っかが収まる大きめのマグカップに新調することだ。俺とニコの分で三個。俺にはとびきり洒落たやつな」

 確かにグラグラが気になって、カップの直径まで測って再びドリッパーを買いに行った。けれど見つからなかった。カップに収まる直径のものという頭しかなかったからだ。コーヒーが大好きで頻繁に飲むから、グラグラはプチストレスになっていた。

「ずいぶんと納得しきりだな。言ったことを一つ一つ検証したか。リギーの本領発揮だ」

「おまえのいう通りだ。僕は杓子定規で頭が固い」

「ずいぶんと素直だ。先にそっちに気づいてたら、異国人クラブの登録名はさしずめジョーだ。定規からとる。そこで頭が固いあなたに一つ提案。発想の転換をしてみよう」

 急に何を言い始めるのだろう。

「盗作が事実だという前提だ。おまえの母親は有名人だが、盗作がバレたら名声は地に落ちる。父親もそれに加担していて、更に余罪の可能性もある。片や景山に母親はいないが父親は罪のない一般人だ。親にするなら、さぁどっち」

 マシューは大きく腕を広げてみせた。その動きによって袖が放射線状に開いて夜が広がった。僕の心情などお構いなしだ。

「答えは決まり。断然、景山だ。ほら、取り替えでいいこともある。この場合リギーは景山なにがしで安泰だ。ま、これは景山伊織が何もしてないって前提の話でもあるけどな」

 そんなに割り切れたら苦労しない。そういえば咲良さんに弟の名前を聞かなかった。

「弟の名前を聞きそびれた」

「なにがしで十分だ。おまえの呼び名、名前からとらずに正解だ。景山なにがしになってもリギーのままでいける」

「僕が白濱秋じゃないかもと言った時、微妙な反応だっただろ」

「そうかあ? まぁそうかも。白濱秋だと思って付き合い始めたからさ」

 マシューは含みのある顔で悪戯っぽく笑った。

 

 景山咲良が電話をしてきた。弟の写真を頼むつもりで何度か電話したので、折り返してくれたのだと思った。けれど別の話だった。あれから咲良さんは凪子さんの部屋を探ってくれたらしい。日記帳が見つかったが、鍵が掛かっている。けれど正直ホッとしているという。日記を勝手に読むことには抵抗があるらしい。凪子さんの病気はかなり進んでいるが、それでも咲良さんは何をするにも一々了解を得ているようだ。

「咲良さんの弟さんに会えますか?」

 僕は自分の用件を口にした。

「まさあきですか?」

「まさあきというのですか?」

 僕の口調が問い詰めているように聞こえたのか、咲良さんは黙った。僕はマシューの名前を頭の中でなぞっていた。

「いや、友達が同じ名前で驚いただけです。すみません」

「実はまさあきは居所が分からないのです。一年近く家にも帰っていません」

「まさあきさんはどんな漢字ですか?」

 恐る恐る聞いてみる。

「真実の真に四季の秋です」

 心なしか咲良さんの声がくぐもって聞こえる。何という皮肉な名前だろう。僕が秋で咲良さんの弟は真秋。まるで咲良さんの弟が本当の秋だと名乗っているようではないか。全く同じ漢字だが、マシューが真秋と名乗った時には考えもしなかったことだ。

「居所不明とはどういうことですか」

「仕事で海外に行ったことは分かっています。その後の足取りが捉めなくて、勤め先の人も友達も連絡が取れないと言っています。私のラインだけは既読になって一ヶ月に一度くらいは短い返信がきます。だけど正直とても心配です」

 マシューが僕の前に現れた時期を考えてみる。ずっと一緒に長い時間を過ごしてきたような気がするが、どれくらいの期間だろう。思い出した。両親に会った時に、黒服を着て十ヶ月と言っていた。マシューと出会ったのは十ヶ月前だ。

「弟さん、背が高くて痩せていますか?」

「ご存じなんですか?」

「いや、そういう訳じゃなくて。あの、写真があれば見せて下さい」

「すぐにお見せできる写真はないと思います。真秋と一緒に写真を撮った記憶がなくて。でも捜します。弟の部屋を探る方が幾分、気持ちが楽です」

 凪子さんの部屋をあさったのを負担に感じていたのだろう。試しに聞いてみた。

「本間真秋という人物に心当たりはありますか?」

「ほんま? ほんままさあき」

 咲良さんが名前を繰り返した。

「いいえ、知りません」

 少し間があったのは記憶を探っていたからだろうか。

 その日、二瑚に会った。講義が一緒になって、終わってから二人で歩き出した。

「マシューが、恋人達は隣同士で座るもんだって言ってた」

「一緒に教室に入れば座ってるでしょ。別々に来たならわざわざ捜して行くのも面倒だし、隣が空いてるとは限らない」

「確かに」

 簡単に答えがでた。全てがこうだったらいいのに。

「また中華にしよう。今日は唐揚げちょうだい」

 二瑚が提案した。体調は万全のようだ。デザートの杏仁豆腐を食べながら話をした。

「それでマシューが咲良さんの弟、景山真秋だと思っているって訳だ」

「偶然にしては出来すぎてる」

「そうね。本人に直球で聞いてみる? 今夜バイトの日でしょ」

 僕が返答に困って考え込んでいるのを見て、二瑚が選択肢を増やした。

「写真が届くのを待つ? 逆にマシューの写真を送って確認してもらう?」

 三つめの選択肢が一番よかったが、そこで僕は気づいた。

「マシューの写真がない」

「それじゃあ、待つに決まり」

「今晩のバイト、どうやって過ごそう。顔をまともに見られないかも」

「じゃあいっそのこと、一緒に写真を撮ろうと誘ってみたらどうかな」

 二瑚はポジティブだ。真剣な目をして僕の顔をのぞき込んでいる。せっかく提案してくれたけれど、何でもない顔をしてそれを実行できる自信がない。

「そうだ。気が付いたことがある。日記帳の鍵に心当たりがある。この前施設に凪子さんを訪ねた時、ペンダントをしてたの。そのペンダントトップ、小さな鍵みたいだった。大事そうに触っていたから記憶にある」

「嘘? 全然覚えがない」

「割と何度も触ってたわよ。何の鍵だろうって思ったもん」

「そうなんだ。やっぱり僕はポンコツだな」

 へこんでいると、二瑚は少し笑いを溜めて軽く息を吐いた。

「アクセサリーに目をやる人ではないのを知っている。それでいいのだ」

 僕は照れて、空っぽの湯飲みでお茶を飲む振りをした。

 

 その夜、有難いことにラウンジは忙しかった。上客もたくさんいてチップを何回か貰った。僕はマシューと話す機会を避けようと殊更動き回って、普段より気の利くボーイになった。キャストのお姉さん達にはいつもより丁寧に「チップのお礼」をして回って時間を使った。バイト終わりには「二瑚と約束がある」と聞かれてもいないのに宣言してさっさと帰った。返事も聞かず、顔もまともに見なかったので、マシューがどんな表情だったのかも分からない。後で「夜中の一時からの約束はさすがにないだろう」と怪しまれたかもしれないと考えた。後ろめたくて実際に二瑚に連絡を入れた。

「ごめん。もう寝てた。会えない」

 そう断られたけれど家の前まで行って、無理やり顔を出してもらった。これで「二瑚との先約」をクリアできた。二瑚は睡眠中の言葉を裏付けるように、顔をだしてからドアを閉めるまでの短い間に三回あくびをした。

「律義発動。そこまでしなくてもいいと思うけど、しょうがないか。じゃあ、おやすみ」

 部屋に入れてもらえず、すぐに帰ることになったけれど満足だった。だけど少しは「それだけ?」と思う気持ちもあった。マシューが「熱烈じゃないってことだ」と二瑚を表現したけれどその通りかもしれない。

 今日は何とかやり過ごしたが、いつまでも続けられない。僕の願いが通じたのか、それから二日間はバイトの日時が重ならずマシューと顔を合わせることがなかった。その間突然訪ねてくることもなかった。三日目にはどうしても避けられず、覚悟して出勤すると、マシューはいなかった。休んだことなどないのでマネージャーに聞いてみた。

「本間は辞めた。気が利くから重宝してたんだけどな」

 キャストやボーイが辞めることは珍しくない。入れ替わりは激しくて店側も執着しない。理由を尋ねてみた。本業が忙しくなりそうだからと言ったらしい。今、この時期にというのが引っ掛かる。顔を合わせるのが気まずかったのに無性にマシューに会いたくなった。

 部屋に帰ると、ポストに何か入っていた。蛇腹に折った黒い布の真ん中を紫の布紐でキュッと縛ってある。ピエロの蝶ネクタイのような形だ。それを形作っているのは、きっと闇夜の切れ端だ。夜のとばりの紐をほどくと、白いマジックで文字が書かれていた。

「一旦消える。さらば」

 僕は一人、雑踏の中に置き去りにされた気分だ。

 電話は繋がらず、ラインは既読になるものの返信なしだ。バイト仲間にも聞いてみたが、同じ状態だった。仕事をもらっているというデザイナーの名前は聞いていたので、オフィスに電話をいれた。マシューは暫く顔を見せていないらしい。デザイナーの家に居候していたこともないそうだ。夜のバイト仲間の家に転がり込んでいると言っていたらしい。パターンは何度か頼んだが、スマホでやり取りをしていたので他の連絡方法を知らないという。その同じスマホで僕とも繋がっていた。電話したことはなかったし、今になって思えばラインも殆どしなかった。バイトで顔を合わせ、時々部屋に顔をだすことで十分繋がっていたからだ。マシューから全てをシャットアウトされた。

 雑踏の中ならまだましだった。知らない山奥に手ぶらで置いてけぼりにされた気分だ。

 僕のへこみ具合をみて二瑚が慰めの言葉をかけてきた。

「さらば、っていうのはね。また会おうというニュアンスがあるの。さよならとは違う。ほら、一旦って明言してるでしょ。だからまたひょいと現れるわよ」

 確かに「ひょいと」はマシューの得意分野だろう。だけどその時に僕達の関係性はどう変わっているだろう。謎解きに何の手がかりも見いだせず、最終到達点も藪の中だ。

 

(つづく)