2
花見の日は晴天で暖かかった。二瑚はいつも通りの晴れやかな笑顔で僕を出迎えた。それなのに僕の顔を見た途端、顔を曇らせて心配そうに聞いた。
「今日、行くのやめようか?」
いきなりの言葉に二瑚が何かを感じ取ったのだと悟った。中止は花見なのか、丹波凪子を訪ねて行くことなのか、両方なのかは分からない。
「そんな顔してる?」
「体重が急に二倍になった人みたい」
言い得て妙だ。足が重い。濡れた靴はまだ乾いていない。だけど少なくとも謎解きは進めたい。何としても小石を取り出したい気分だ。
「いや、行く」
「お花見も丹波さんちも?」
「丹波さんちか。友達の家に行くみたいになった。どっちも行く」
「テストは簡単な問題から始めるのが定石。だから先にお花見に行こう」
二瑚はそう提案して、いつもより大きめのバッグを開けてお弁当を覗かせた。
「花見はラッキー問題だ」
早めに出発したお陰で十時前には到着したが、日曜日ということもあり桜の名所は人が多かった。川沿いに桜の木がずらりと並んでいる。それが一望できる河川敷は花見客で賑わっていた。二瑚が用意した手作りの弁当には鮭のおにぎりが入っていた。僕の大好物で一番に手を出した。好きなものは先に食べるタイプだ。だからやはり花見が先で正解だ。
「春爛漫ってこんな日のことだ。漢字で書けないけど」
桜は満開だった。少し風が吹くとヒラヒラと花びらが舞って、弁当や二瑚の頭に落ちた。
「少しは体が軽くなったでしょ。おにぎり、持ってきた甲斐があった」
まるでおにぎりで喜んでいる単純な奴みたいだけど、その通りだった。
だけどラッキー問題はいつまでも続かない。それからいよいよ後回しにした難問に取り組むことになった。花見の場所からは電車で一駅、駅からは少し歩いた。番地が近づくにつれて再び足取りは重くなった。
封筒に書かれていた丹波凪子の住所には古びた一戸建てがあった。表札には確かに丹波の名がある。横には景山という姓も連ねられていた。二世帯で住んでいるのだろうか。門柱につけられたベルは受け答えができるような型式ではなく、家の中に来客を知らせるだけのものだ。一度押してみたが本当に機能しているかどうか疑わしい。けれど程なく玄関付近で「はい」という声が聞こえ、ドアが開けられた。顔を覗かせたのは若い女だ。まだ二十代に見える。
母は五十三歳だ。丹波凪子は母と一緒に講座に通っていたのだから、年はあまり変わらないだろう。もう少し若かったとしても四十代なら、顔を出した女は丹波凪子ではない。
「丹波凪子さんはいらっしゃいますか?」
女は怪訝な顔をして、僕と三歩ぐらい後ろに立っている二瑚に目をやった。そして僕の手元に視線を移した。
「あぁ」
全てを理解したような短い応えだった。その時、僕はラベンダー色の封筒を握りしめていたのだ。
「白濱秋です。後ろは僕の彼女です。一緒に話を聞いてもいいですか」
「はい」
殆ど会話を交わすことなく、女は僕達を家の中に招き入れた。二瑚は門柱のベルを押す前に「私、どこかで時間潰してこようか」と提案した。だけど僕が「一緒にいてほしい」と頼んだのだ。通されたリビングらしい部屋は綺麗に片付いていた。
女は景山咲良と自己紹介をした。
「その手紙を投函したのは私です。凪子さんに頼まれました」
「内容を知っていますか?」
咲良さんは一呼吸おいて首を振った。
「いえ、きっちりと糊付けされていましたから」
「それで丹波凪子さんはどちらに」
「若年性アルツハイマー型認知症を患って施設に入っています」
「景山さんは丹波さんと、どういうご関係ですか?」
「凪子さんは育ての親みたいな感じです。母が弟を産んですぐに亡くなって、父の幼馴染の凪子さんが、私達姉弟の面倒をみてくれました」
連名の表札は家と同じぐらい古かった。同じ家に長年住み続けて、子どもの世話までしている。丹波凪子と景山咲良の父は別姓でも夫婦のような関係だろうか。確かめたかったが咲良さんには聞きづらい。手紙の内容を知らないというので便箋を見せた。咲良さんは僕の顔を見て恐る恐る聞いた。
「これは本当のことですか?」
僕はマシューと二瑚にした説明をもう一度繰り返した。咲良さんは小さく頷いていたが、説明を聞いても不安そうな様子だ。
「手紙がもう一通あります。手紙の返事が来た時に、また投函してほしいと言われました。だけどこうして訪ねて来られたのなら返事だと思っていいですよね。返事がなければ一年後に送るように言われています」
随分手の込んだ指示をだしたものだ。ただの嫌がらせにしては、度を越している。
「内容も知らずに、けっこう面倒くさいことを実行しますね」
率直に思ったことを口にした。咲良さんは自分でもそう思ったのか、こっくりと頷いた。
「弟にも律義にも程があると言われました。弟は手紙の存在を知った時から開封して中身を見てみようとか、日にちを無視してさっさと送ればいいのにとか言っていました。到着の日付が指定されていましたから」
律義という言葉が飛び出してマシューを思い浮かべた。律義な人をここにも見つけた。
それから咲良さんは一通の手紙を手にしてきた。やはりラベンダー色だ。一通目と同じように住所と名前が書かれている。これは雑居ビルではなく美しい。ここでも咲良さんは律義さを遺憾なく発揮して鋏を添えてきた。今、開封しろということだろう。けれど不意に自分の先走りに気が付いたのか、恥じいるように声を落とした。
「ごめんなさい。このまま持ち帰られますか?」
中身が気になって、すぐにでも読みたい。僕は即座に答えた。
「いや、開けます」
入っていたのは、やはり便箋一枚だけだ。
《あなたは白濱雅の子どもではありません。生まれた時に私が取り替えました。これは復讐です。》
これは小説の文面ではない。内容にも全然関係がなかった。咲良さんに手紙を見せると、驚いて口を大きく開けた。二瑚にも見せたが、流石に言葉を失っている。
「これはどういうことでしょうか?」
咲良さんがやっと絞り出した言葉だ。
「僕に分かる訳がない」
無意識に強い口調になってしまったが、自分が何に腹を立てているのか分からなかった。
「誰に確かめればいいんでしょう。凪子さんは受け答えができますか?」
二瑚が初めて口をだした。僕の様子をみて二瑚なりに助け舟をだしたつもりだろう。
「分かりません。頭がはっきりとしている時とかなりのことを忘れている時があります。二通の手紙は病気が重くなる前に渡されました。三年程前になります。だけど発症はもっと前で空想と現実が混濁していることがありました」
「じゃあきっと空想だ。空想でなければ嘘だ」
僕はきっとそう思いたいのだ。それなのに咲良さんは追い打ちをかけるように言った。
「実は一通目の指定の日に心当たりがあります。弟の誕生日です。ちょうど二十歳になりました」
絶望は突然やってくるものだ。頭の中が全然整理されていないのに、咲良さんの弟と僕が入れ替わった可能性がでてきた。
「それは僕の誕生日と同じ日だ。僕は山岡の高井産婦人科で生まれました。弟さんはどこの病院で生まれたんですか」
以前、母子手帳を見たことがある。「入院費、高かったでしょう」と冗談を言ったので記憶にある。
「私も弟も助産院で生まれました」
「助産院?」
「ええ。病院じゃなくて個人でお産を助けるところです。母は弟を産んだ時に出血が多くて、結局病院に緊急搬送されましたが亡くなりました」
「じゃあ弟さん、いや、その赤ちゃんはどうなったんですか?」
「凪子さんが預かっていました」
どうして次々と詰め寄ってくるのだ。頭の中で負の霧が立ち込めている。何とか振り払おうと考えを巡らせた。僕の血液型と両親の血液型には不合理がない。両親のどちらにも顔つきは似ていないが、全然違うという程でもない。一度親戚の誰かからお父さんに似てるねと言われたことがあった。
僕はもう入れ替わりで頭がいっぱいだった。すると二瑚が落ち着いてというように、背中に手を置いた。そして静かに切り出した。
「凪子さんの話は妄想かもしれない。けれど妄想でないという前提で考えてみましょう。誕生日が同じなら入れ替えられた可能性がある。でも、一人が病院で、もう一人が産院で生まれている。凪子さんが弟さんを連れ出すことはできても、病院で入れ替えが可能でしょうか。かなり難しいですよね。現実的ではない」
その通りだ。もともと無理な話なのだ。別の場所で生まれていることは間違いない。霧が少しだけ晴れた気がした。それなのに咲良さんは僕以上に不安そうな目をしている。重苦しい空気の中で咲良さんが遠慮がちに口を開いた。
「実は凪子さんの友達で看護師さんがいます。産婦人科で働いていると言っていました。だけど、その高井産婦人科だったかどうかは分かりません」
僕は唖然として何も言えなかった。それでも二瑚は冷静だった。
「赤ちゃんの取り替えは重罪ですよね。凪子さんは復讐だと言っている。凪子さんが秋の両親に恨みがあったとしても、お友達は犯罪に加担するでしょうか。親しくてもそこまでは手を貸さないと思います。その方は凪子さんに何か恩があるんですか」
「友達だと聞いただけなので、もともとどんな繋がりだったのかは知りません」
「連絡先が分かれば教えてください」
「分かりません。調べてはみます……」
二瑚に問い詰められているように感じたのか、咲良さんの言葉は消え入りそうだ。二瑚も同じように感じたのか次の質問を躊躇した。僕は気になっていることを聞いてみた。
「弟さんはどうされていますか?」
まるで分身の所在を尋ねるような気持ちだった。
「家を出て働いています」
続く説明がなかったので、僕も黙っていた。
「咲良さんのお父さんはどうされていますか?」
二瑚が話を切り出した。本当は弟よりも先に聞きたかったことだ。けれど口にすると入れ替わりが現実化しそうで怖かった。母親は亡くなっている。父親はどうだろう。
「父は介護の仕事をしています。薬剤師でしたが、凪子さんを施設に入所させる時に自分も資格を取って転職しました。今は凪子さんのいる施設で働いています」
凪子さんと咲良さんの父親の関係は分からないが、親密であることに間違いない。
「もし入れ替えが成立しているとしたら」
二瑚は僕の顔を見つめて話を途中でやめた。僕は頷いて先を続けるように促した。
「赤ちゃんの入れ替えを意図的にするのなら双方の人生を狂わせることになります。白濱家の人生を狂わせることを復讐とするなら、景山家への罪悪感はないのでしょうか。凪子さんがお父さんに何か恨みがあるなら別ですが」
「そんな話は聞いたことがありません」
咲良さんは苛立ちの色を隠さず不機嫌そうに俯いた。丹波凪子との関係が窺われる。
「凪子さんのいう復讐に心当たりはありますか?」
二瑚の質問は必然だが、余りにも取り替えの話が衝撃でそれが中心になっていた。
「心当たりがありません。正直、本はあまり読まないので、白濱雅さんのお名前も知りませんでした」
普段小説に興味のない人だったらそんなものだ。母は誰もが知っているような売れっ子作家ではない。そして父は母のサポートを除けば、肩書はただの会社員だ。復讐の理由が何か皆目見当がつかない。一通目の手紙で父を人殺しだと言っている。小説の話でないのなら、はたして人殺しは誰なのか。僕の父・白濱直彦か、咲良さんの父・景山か。
僕は一歩、踏み出してみる。
「丹波凪子さんを訪ねます。お父さんもそこにいるんですね」
「はい。連絡してみます」
そう言って咲良さんは部屋を出て行った。僕達の前で連絡するのは決まりが悪いのだろう。僕は咲良さんが父親に連絡をとっている間、いたたまれなかった。今や石は一つではない。窓の外は薄暗くなって日暮れ時だ。それに気づき、時間の心配をしていると、咲良さんが申し訳なさそうに答えを持ち帰った。
「施設の面会時間はもう過ぎていて、凪子さんには会えないそうです。父は普段から施設の社員寮に泊まっていて今日も帰ってきません。出来れば日を改めて欲しいとのことです」
咲良さんの父親は景山伊織というそうだ。咲良さんがどのような説明をしたのかは分からないが、今後は直接やり取りすることに決めた。
外に出ると辺りはもう暗かった。帰り道、二瑚は何も言わなかったが、歩幅を合わせて僕と肩を並べて歩いた。その時、道路脇に立つ街灯が一つ点灯した。それにならって次々と点灯したが、行く先を照らしだす程、明るくはない。数メートル先の一灯がチカチカと点滅を繰り返していた。思い切って聞いてみた。
「ねぇ、僕が白濱秋じゃなかったらどうする?」
「どうもしない」
「そうか」
「違ってくるのは名前だけでしょ。見た目や中身は変わらないし。することや言うことが違ってくる?」
「いや、今更変わらないだろうな。だけど二瑚は白濱秋って名前にはそんなに思い入れがないってことか」
「秋、おでこに小さなホクロあるでしょ。もし秋がホクロ取ったよって言っても、まぁそれはそれでいい」
急にホクロとは何の話だ。
「どういう意味?」
「実はそのホクロ、私のお気に入りなの。なぜか目がいく。で、笑っちゃう。だけどなくても別にいいよ。名前もそれと同じってこと」
僕と向き合っている時、目の位置が同じくらいなのに視線が少し上に向いているような気がしていた。僕は額のホクロを撫でながら歩いた。少しだけ気持ちが楽になった気がしたのだ。チカチカの電灯は後ろに遠ざかっていった。
次の日、景山伊織と連絡をとった。思ったより冷静でいられた。約束を取り付けたのは一週間後だった。電話で色々聞きたかったけれどやめた。中途半端な情報で更に小石をため込むことをしたくなかったからだ。
バイトに行くと、先に入っていたマシューがBGMに合わせてリズムをとるようなステップで近づいて来た。そしてピタリと動きを静止させてから、少し俯き加減に体を折った。長身のマシューが僕と顔の高さを合わせるとそんな恰好になる。ラウンジの喧噪が盛況さを物語っている。マシューは少しだけ声を張って僕に耳打ちした。
「おい、新情報がある。おまえの親父のことだ」
マシューの話は初耳だった。父は六年前に警察の事情聴取を受けたことがあるというのだ。僕は十四歳だったが、そんな記憶はない。
「そんな話聞いたことがない」
「そりゃ子どもにわざわざ知らせる話でもないだろ。知らなくても不思議ではない」
「それでどんな事件だ」
その時、客からのコールが響いてマシューがいち早く応えた。
「仕事が終わってからのお楽しみ」
マシューは背中を向けながら「後でな」と言って、後ろ手を振った。そして大きくステップを踏むようにホールに出ていった。手先の動きまでしなやかで流れるようだ。気になることが多すぎて仕事は上の空で、僕は幾つかミスして怒られた。マシューが飛んできてフォローしてくれた。仕事が終わるまで時間が長く感じられたけれど、こんな日に限って次から次へと客が来て残業する羽目になった。
バイトが終わった時には大きなため息が出た。疲労が半端ではない。本当はこのまま帰って、すぐに眠りたかった。けれどマシューが「話の続きはリギーの部屋で」と囁いてきた。帰り道、マシューは人一倍動き回ったのにもかかわらず足取りは軽やかで、建物を出た途端、動きを我慢していたみたいに大きく跳ねてみせた。そして流行りの歌を口ずさみながら踊りだした。マントみたいな私服に着替えてからは体のシルエットは曖昧になって、動く度に大きな鳥が羽ばたいているようだった。僕の部屋に着いてからは、服のヒラヒラをぶら下がった蝙蝠みたいに体に巻き付けてソファに座った。
マシューは作り話でもするように、平坦な口調で事件の概要を話して聞かせた。
ある男が自宅のあるマンションの五階から転落死した。転落したのは自宅ではない、当時、空き家だった別の部屋からだ。夜中に一階の植え込みの間に落ちて、丸一日見つからなかった。家族は眠っていて男が外出したのに気づかず、朝になって姿が見えないのを訝しがった。用事があって早朝に出かけたのだろうと考えたが、男は夜になっても帰らなかった。次の朝、三階の住人が窓からふと階下を覗き込んだ。そして男の死体を見つけた。
「てな話だ」
「それで父はどこに登場する?」
「その男が最後に会ったのが白濱直彦。おまえの親父だ」
「でも結局は関係なかったってことだろ」
「確かに無罪放免だ。現場には行ったようだけどな。ちなみに死亡推定時刻のアリバイは白濱雅が証明している。でも、家族だからノーカン」
頭にくる言い方だ。つい語気を荒らげる。
「どこで聞いた話だ?」
「知り合いのデザイナーの兄貴が記者だ。いいだろ」
マシューはなぜか自慢げに笑ってみせた。父の名前をだして関係している事件はないか調べてもらおうとしたらしい。けれど調べるまでもなく、その記者は事件のことを覚えていた。作家・白濱雅の夫が事情聴取。記事では名前が伏せられた。
「白濱雅。一応その界隈では有名人だろ。夫も捜しやすくて助かった」
「その男と父はどういう知り合い?」
「その男は白濱雅、丹波凪子と同じ小説講座に通っていた。関係はそれだけだ。だけど六年前に突然おまえの親父に連絡をとった。金を貸せと言ったらしい」
父はその男から母の小説のことで話があると言われて会いに行った。けれど用件が借金の申し出だったために断った。男が転落死したのがその後だったらしい。ずいぶん昔に受講した講座が同じというだけの知り合いを頼って金を借りたいというのだから、金銭的によほど困窮していたのだろう。自殺の可能性も考えられたが、結局、事故ということで終結したらしい。
「一人で過って転落というのも信じがたい話だが、警察の見解はそうだということだ」
「じゃあ解決済みじゃないか。終わりだ」
「おいおい、もうちょい考察しようぜ。男は自宅と同じ階の別の部屋から落ちた。たまたま空き部屋で、管理人が鍵をかけ忘れていたそうだ。男はその部屋に白濱直彦を呼んだ。秘密の話をするためだ」
「秘密の話って何? それで父が突き落としたって言いたいのか」
マシューは僕の顔を見ずに、独り言のように呟いた。
「それくらいの付き合いで、呼ばれたからってわざわざ男のマンションまで出向くか。明らかにおかしい」
「いい加減にしろ。怪しいなら警察が調べてる。それでヒットしたなら父は刑務所の中だ。だけど今頃、家のリビングでごろごろしてるぞ」
腹が立って、マシューの胸の辺りを押した。マシューは気をそがれたように声のトーンを落とした。
「秘密はさ。調べなきゃ秘密のままだ」
「黙れ。おまえ、何か悪意がある。それに踏み込みすぎだ」
僕は文句をまくしたてた。それなのにマシューは悪びれた様子もなく、呑気な質問を返してきた。
「ニコからの誕プレ、何だった?」
完全に肩透かしを食らって呆れてしまった。けれど習性とは恐ろしく律義に答えていた。
「ペンケース」
ぶっきら棒なのは、まだ怒りが収まっていないことを表したつもりだ。
「だけ?」
「本革製だ。そこそこ高い」
「けど、ペンケースだろ」
二瑚と言っていることが被った。
「ダメか?」
「目に入らないような持ち物を贈るのはどうでもいいからだ。テキトーでいいという心理の表れだ。パンツを贈るのと同じだな」
「ペンケースは目に入る。同じ講義を受ける時、二瑚はたまに隣に座る。だから見える」
僕は意地になって反論した。
「たまにか。彼女ならいつも隣が常識だ」
「そりゃ、友達とも座るから」
マシューはフンと鼻を鳴らした。それから急に立ち上がった。
「ははーん」
部屋にある棚に目を留めたようだ。そして手を後ろに組んでハシビロコウみたいなゆっくりとした動きで棚の前に移動した。その後片翼だけを大きく広げるようにして棚を指さした。マントみたいな服は、たやすく鳥になれる。
「もしかして、これが前のペンケースじゃないだろうな」
そこには革のペンケースを貰う前に使っていたバス型の布製ペンケースが置いてあった。筆記用具を新しい方に移した後、捨てる切っ掛けを逃して飾り物のようになっていた。
「当たり」
「大学行ってないから知らないけど、これが平均的な大学生のペンケースか。いや、違うな。キャメルのバスは不気味さマックスだ」
「買った時は黄色だった。長年使ってるとこうなる。高校、いや、中学だっけ?」
「俺に聞くな。危ない。もうちょいで触るところだった。汚ね。キャメル剥奪。おまえはラクダ色だ」
「キャメルってラクダのことだろ。同じだ」
「呼び方でお洒落度合いが変わるんだよ。即刻捨てろ。ニコに見つかる前に捨てろ。そりゃ、ペンケース贈るわ。一択だ」
大騒ぎされて地味に傷ついた。すっかりマシューのペースだ。手紙の件も他人事なのをいいことに言いたい放題だ。方向性が歪曲されているのは気になるが、二通目の話を切り出した。
「実は手紙の住所に行ってきた」
マシューは目を丸くした。予想していなかったようだ。
「一人で?」
「いや、二瑚と」
「だろうな。驚いた。ニコの提案だな。それで?」
経緯を説明して二通目の手紙を見せた。マシューは暫く絶句していた。
「この短い文章の中に驚愕ポイントが満載だ。丹波凪子、さすがに小説講座に通ってただけある。一通目を超える二通目。軽く凌駕してきた。どれがホントでどれが嘘だ。全部ホントだとしたら、とびきり厄介だ。リギー、気を確かに持て」
茶化しているような言い方だがマシューなりに気を遣っているのだろう。いつもと違って眼差しは真剣で、何か思いを巡らせているように思えた。
「今度、丹波凪子と景山伊織に会うから、ある程度事情が分かるだろう」
そう言うと「俺も同行する」と言いそうな気がしたが、あらかじめ二瑚と一緒に行くと話したせいかその言葉はなかった。代わりに意外な言葉が返ってきた。
「おまえ、白濱秋じゃないのか」
そんなところに絡められたのかと驚いた。僕自身も一度は揺らいだが二瑚の言葉で地に足がついた。
「白濱秋じゃなくても姿かたちが変わる訳でもないし、言うことやすることが変わる訳でもない。だから今までと同じだ」
僕は二瑚の受け売りを我知り顔で口にした。マシューはその刹那、顔を少し歪めた。けれどすぐに能天気な笑いを取り戻して、それを後押しするように踊ってみせた。マントは空気を揺らしてマシューの僅かな異変を風塵とした。
3
景山伊織には丹波凪子の入所する施設まで来てほしいと言われている。約束の日、僕達は施設の最寄り駅で待ち合わせた。駅はいくつかの路線の乗り換え拠点で混雑していて、キョロキョロしていると誰かとぶつかりそうだ。あまり動き回ると柱の陰で行き違いになるかもしれない。南改札とまで指定したのに予想を超えた人だかりに、場所をミスったと思った。すると二瑚が先に着いていて居場所をラインしてきた。最初は何事かと驚いた。それが長文だったからだ。普段はかなり素っ気ない。それは待ち合わせ場所の指示だった。
まず、南改札を出て右方向に歩き道路に出る。
前方に横断歩道あり。その手前左に消火栓のポールあり。
それを握って待つ。赤いポールを目指して来るべし。
その通りにすると雑踏の隙間に赤い消火栓の標識を片手で掴みながら立っている二瑚が見えた。神妙な面持ちなのが可笑しい。
「ナビの上級者だ」
近づいて褒めたら、少し嬉しそうだった。
駅から施設までの交通手段はバスだ。乗客は少なく、並んで座った。施設は小高い山の上にあって、バスは緩やかな坂道を登って行く。車がすれ違うのもやっとの細い道で斜面側には桜が植えられていた。枝が道側にも伸びて、花が満開ならさぞかし綺麗だっただろう。けれど桜はピークを過ぎていた。この一週間で雨を挟んで一気に散ったようだ。一枚一枚、散り続ける花びらが道に桜色の縁取りを作っていた。バスが大きく揺れる度に二瑚と肩が触れ合った。僕達はお互い、相手側に少しだけ体を傾けていた。窓側の二瑚は散り続ける桜を眺めながら外に目を向けていた。車窓を見つめる横顔に声をかけた。
「僕が白濱秋じゃない場合、マシューは今まで通りとはいかないようだ」
ずっと抱えていたマシューへの不信を口にした。
「そう」
二瑚は僕の方を見たけれど、別段おかしなことでもないでしょという顔をした。マシューの特性のせいなのか、それが一般的なのかは分からない。聞こうとしたらバスが施設に着いた。乗っていた時間は十五分ぐらいだ。殆ど話もせずに桜だけを見ていた気がした。
施設の敷地はゆったりとしていて、高台にあるため眺めが良かった。エントランスを入るとすぐに広いホールがあった。職員は水色の制服を着ている。車椅子に乗った人やゆっくりと散歩する人たちの姿が見えた。どういう施設か詳しく知らないが、認知症の人だけではないようだ。平均年齢は高そうなので、五十代だという丹波凪子は若い方だろう。入居者も職員も不躾に視線を向けてくる。監視されているようで居心地が悪かった。
呼び出しをかけてもらったが、景山伊織の体格や人相を知らない。近づいて来る水色の制服を着た人の名札を目で追いながら待った。すると遠くから僕達を目指して一直線に歩いてくる人物がいた。直感的にそれが景山伊織だと思った。
景山伊織は五十代半ばだと聞いていたが、大柄で年齢より若く見えた。娘の咲良さんは日本人形のような顔立ちだが、父親は彫りが深く二人はあまり似ていない。丹波凪子の話を信じるのなら、伊織さんが僕の父である可能性がある。けれど僕には似ていない。
施設内の談話室に通されて挨拶をした。何から質問すればいいのか分からなかった。自己紹介だけすませて黙っていると、伊織さんが口火を切った。
「手紙のことを聞きました。咲良に預けてそんな指示をしているとは知りませんでした」
「凪子さんは若年性アルツハイマーだとお聞きしました。手紙は全部妄想ですよね」
僕の第一声は、願望からくる決めつけだ。
「はい。全部妄想です」
呆気ない答えに、そう願っていたことも忘れる程だった。二瑚の顔を見るとやはり唖然としている。何か隠しているのではないかという疑いさえ抱いた。そのまま伊織さんが黙り込むので、丹波凪子に話を聞いてみるしかない。病気がどれだけ進行しているかも確かめたい。
「凪子さんに会えますか」
「まともに受け答えができるかどうか分かりません。それでもよろしいですか」
それから伊織さんは凪子さんを部屋に連れてきた。凪子さんは痩せていて小柄だ。若くも見えるし、年老いても見える。きっと若い頃は美しい人だったのだろう。にこやかに笑いながら近づいてくる姿は普通の人と変わりがない。けれど僕が「白濱です」と自己紹介した途端に恐ろしい形相に変わった。
「白濱雅が私の小説を盗んだのよ」
僕に詰め寄ってくる姿は尋常ではなかった。伊織さんがすぐに感情が高ぶって震えている凪子さんを腕の中に引き寄せた。けれど凪子さんは言葉をとめない。
「だから復讐したの。他人の子どもを育てさせてやった」
常軌を逸しているようだが、手紙の内容とは合っている。
「僕は白濱雅の息子の秋です」
もう一度自己紹介をしたのは、自分の出生を確認する意識が働いたからだ。
「違うわ。あなたは雅の子じゃないの。私が取り替えたから」
急に普通の口調になって、さっきまで興奮していたのが嘘のようだ。この感情の起伏の激しさはやはり普通の状態でないことを物語っている。
「誰と取り替えたというのですか? じゃあ僕は誰の子だ」
凪子さんは答えずに目を伏せた。電池が切れてきたみたいに動きが緩慢になった。伊織さんは黙ったままで凪子さんの手を引いて椅子に座らせた。そして大きな体で椅子ごと抱くようにして肩に手を回した。伊織さんの表情は険しいが大きな感情の変化は見られない。
「取り替えは不可能です」
僕は精一杯の反論を示した。
「取り替えたの。菊丸さん、私に借りがあるから、頼みは断われないもの」
呪文のように呟いた。菊丸さんとは誰のことだろう。赤ちゃんの取り替えに加担する程の借りとは何だろう。咲良さんが手紙を預かったのは三年前だというが、それ以前に書かれた可能性もある。そして二十年前はまだ病気を発症していない。その時の記憶は書き換えられるものだろうか。伊織さんの冷静な態度は僕を落ち着かせるには十分だが、普段の様子を知らない。もともと喜怒哀楽をあまり顔に出さない人かもしれない。
「どうなの? 白濱雅、どんな顔をしてた?」
今度は嬉しそうに聞いてきた。僕は二通目の手紙のことを両親に知らせていない。その質問には答えようがないのだ。
「ねぇ、どうなの」
凪子さんは不意に立ちあがって僕の腕を掴んだ。力が強いのに驚いた。指先が服の上からでも腕にくい込んで痛かった。細い体のどこにこんな力が残されているのだろう。僕はのけぞって腕を振りほどいた。伊織さんが割って入り、凪子さんの視界をさえぎった。
「もういいだろう。部屋に戻ろう」
大きな伊織さんと小さな凪子さんの後ろ姿は親子のようだった。僕達はその場所で伊織さんの帰りを待った。宥めるのに時間がかかっているのか、いつまで経っても伊織さんは戻ってこなかった。施設の人に呼び出してもらったが「今日はお引き取り下さい」という伝言とともに突き放された。
真相は分からず、母の盗作疑惑まで飛び出した。謎解きに行き詰って立ち尽くすばかりだ。茫然として帰りのバスを待っていると、二瑚が提案してくれた。
「咲良さんの弟さんの顔がみたい。写真でもいいでしょ。秋と並べてどっちが白濱か見極めるの。咲良さんに頼もう。それと咲良さんの言っていた看護師さんも捜さなきゃ。凪子さん、菊丸さんって名前をだしたよね。それがその看護師さんじゃないかな」
具体的な案を出してくれて助かった。それから高井産婦人科に電話してみた。二十年前に菊丸さんという看護師さんは確かにいたようだ。長年勤めたが二年前に辞めている。高井産婦人科には菊丸さんと連絡が取れたら、電話をしてほしいと伝言を頼んだ。
帰りのバスも並んで座った。囁くみたいに二瑚が言った。
「二人の関係がどうも掴めない。夫婦みたいとか友人とかで簡単に片付けられる間柄じゃなさそう。だけど愛のありようは色々あって分類ができないから仕方ないよね。秋の愛や私の愛も誰とも重ならないのと同じだもの」
「ああ、二人の関係は確かに不思議な感じだ」
愛の在り方にまで波及するとは思わなかった。僕の謎は日常に転がり込んだままだけれど、二瑚が傍にいてくれれば何とかやり過ごせるような気がした。これが僕の愛だとすると何ともささやかだ。でも少しだけ口にしてみる。
「ありがとう。傍にいてくれて」
二瑚は僕の肩にそっと頭を乗せた。それが答えのようだ。
「ポンコツでごめん」
僕の言葉に二瑚が顔をあげた。そして向き直ると、視線を合わせた。
「秋はきっと律義に愛を全うする。そういうところが大好き」
愛の在り方の話を繋いできた。律義に取り扱い説明書があるとしたら、結構いい使用方法として掲載される筈だ。
その夜マシューがやって来た。二瑚は部屋に寄ったが泊まらずに帰って行った。二瑚が帰るのを見計らったように絶妙なタイミングでピンポンが鳴った。どこかで見張っていたかのようだ。今日は青空を思わせるような鮮やかなブルーの服だ。女のドレスのように袖も裾も広がっていて、白い鳥が胸の真ん中で羽ばたいている。それに合わせたのか鳥の羽根みたいなピアスをつけていた。
「待ちきれなくて来た。どうだった?」
「夜には不似合いな服だ」
「だろ。昼間向きだ。だから夜空みたいな布を探している。リバーシブルにする予定だ。一枚で昼と夜ができる。そうなると、一日中お似合いだ」
「いいな」
「分厚くなるからヒラヒラ感が鈍るけど、そこは何とかする。で、どうだった?」
「丹波凪子は普通じゃないし、景山伊織は無口だ。収穫は殆どなし。だけど復讐の意味は分かった」
マシューは口元で祈るように閉じた手を、指先だけ開いて頬に添えた。興味津々のポーズだと言っていたことがある。
「いったい何をされた」
「母が丹波凪子の小説を盗んだそうだ」
「ふーん。それだけか。それで復讐に取り替えっこをする。そして二十年も我慢してその事実を暴露。執念深い」
「あんまり驚かないな。作家にとって盗作は致命傷だぞ」
「実は知ってた」
僕の方が驚いた。
「どういうこと?」
「例の記者からの追加情報だ。白濱雅にデビュー作の盗作疑惑があったって話。ウェブでヒットして出版の話が具体化した頃、抗議の電話がはいったそうだ」
「でも違ってたのか。出版されている訳だし」
「ああ。盗作でないと証言したのが、この前話した転落死の男だ」
「繋がった。それで恩を売った過去を持ち出して、借金を頼んだって訳か」
一つ謎が解けたが、靴から砂を一粒取り出したところで気持ち悪さは変わらない。
「ああ、小説講座で知り合った男と雅、凪子の三人はプロットを出し合って話し合ったことがあるそうだ。その時に雅がデビュー作のプロットを熱弁していたのを男が覚えていた。だけど、ここは検討の余地あり」
「ん? 辻褄は合ってると思うけど」
「偽証してたらどうだ。実は凪子のプロットだと知っていたが、雅のもので間違いないと言った。なぜ偽証したかは謎だけど十何年も経って金の無心をするくらいだから、それくらいの理由があってもいい」
「無理やり迷路を増設するなよ。今でも迷子で出口を捜すのに泣きそうなのに。偽証するのもおかしいし、六年前という時期も微妙だろ」
「まぁ、そう言うな。迷路は複雑な方が面白いだろ。シャイニングみたいにこの迷路を上から見てみたいよ。迷ってる俺達はきっと愚かにみえるだろうな」
マシューは自分の言葉に酔いしれたようにしんみりとして、何度か小さく頷いた。その度に耳にぶら下がった羽根がゆらゆらと揺れた。
「弟の顔がみたい。咲良さんに写真を頼むつもりだ」
「どっちが白濱家の顔か検証するつもりだろ。それもニコの提案だ」
「僕は景山伊織と咲良さんには似てないって」
「冷静だもんな、あいつ。ニコなら迷路を上から眺めそうだ。俯瞰の神と呼ぶか」
「それと一つ思いついた。二瑚は僕の額のホクロがお気に入りだそうだ。これね」
僕は自分の額を指さした。
「フン。それが何だ」
「ホクロが割と多いんだ。小さいのならたくさんある。うちの母もだ。これって遺伝じゃないかな」
「ほー。そういや、おふくろさん、手の甲にホクロがあったな」
「そう。目立つところはそこ」
「お茶出してもらった時、マジマジ見た。マジックついてますって言いそうになったぞ。寸止めしたけど」
「どう、この情報。白濱家に寄っただろう」
マシューは腕組みをして首をコキコキと鳴らした。
「ホクロ族か。決定打ではないが、まあまあだな」
僕はその思いつきに満足していた。見た限り咲良さんにも伊織さんにもホクロはなかった。安心できる要素だ。
「この後どうする?」
「俺はもう少し調べる。気になるもん」
マシューは相変わらず首振りを続けながら指も鳴らしていた。
「いや、今日、泊まってくかってこと」
「何だ、そっちかよ。もちろん泊まる。リギーの退屈な服を着て不本意な一夜を過ごす。だから貸して」
マシューの「調べる」については詳しく聞かなかった。