1
謎という名の小石を踏んでしまった。舗装された道を歩くように、平凡な日々をおくっていた。それなのに靴底に小石の気配を感じた。その小石は平穏な日常に現れた謎だ。そして僕はその謎を辿ることになった。
僕の日常は、ほぼ二人の人間との関係により構成されている。一人は論理的な思考をする恋人・葉月二瑚。二瑚は同じ大学の同級生だ。もう一人は懐にズカズカと入り込んでくる自由気儘な友人・本間真秋だ。本人が希望したのでマシューと呼んでいる。
マシューは同い年だが大学には通っていない。彫りが深いという程でもないが顔は整っている。細身で長身の体をいつもヒラヒラした緩い服で覆っている。自分で縫製したという服は個性的だ。高校はデザイン科でパターンを引くことを覚えてからは、とにかく手当たり次第に縫製を続けたそうだ。今は知り合いである新進気鋭のデザイナーのパターンおこしを手伝っているらしい。本人いわくセンスが並外れているから、下手なパタンナーよりも依頼があるのだそうだ。けれど夜はラウンジでボーイの仕事をしている。ボーイの黒服は体に沿っているので、細くて手足が長いのが際立つ。
「ラウンジのバイトは審美眼養成のためだ。俺の顔は中央線で折ると左右がピッタリと重なる。この端整な顔立ちはボーイには最適だ」
それならもっと別の仕事がありそうなものだ。かくいう僕も同じラウンジでボーイのアルバイトをしているが、平凡な顔立ちでも何ら困ることはない。
「恋人がニコで、俺がマシュー。おまえは律義だからリギーでどうだ。異国人クラブみたいだろ」
知り合って少したってからマシューがそう言った。僕は白濱秋というれっきとした純国産だが、その呼び名を受け入れた。
「ほら、名前に二人とも秋が入っていてかぶるだろ。ニコもその方が区別しやすい。俺なりの配慮だ」
そう言われたけれど、二人が同時に僕と過ごすことはまずない。二瑚はマシューが部屋にいる時は遠慮して来ない。
「熱烈じゃないってことだ。遠慮って良さげに聞こえるけど、俺を差し置いてでもお前と一緒にいたいっていう気持ちが弱めだ」
マシューは勝手なことばかり言うが、何となく嫌いになれず僕への干渉を許している。
そう、謎の小石の話だ。
二十歳の誕生日に手紙が届いた。差出人は女だが名前に心当たりはない。住所も書いてあったが覚えのない場所だった。転送のラベルと存在感ある配達指定日の赤枠シールが貼られた封筒は何だか雑居ビルみたいだった。
僕は一人暮らしをしている。実家は郊外にあり周辺にはのどかな風景が広がっている。大学は実家から電車を乗り継いで二時間半程で、都会と呼べる規模の町にあった。通えない距離ではなかったが、往復の五時間を無駄にしたくなかった。それに生活拠点を都会に置きたいと考えて一人暮らしを頼み込んだところ、あっさりと受け入れられてマンションの一室を借りてもらった。うちは親子関係が淡白だ。けれどそれはギスギスとして冷淡なのではない。家族仲は良く、世間で行われるイベントを大抵一緒に楽しんで暮らしてきた。
一人暮らしを始めてから、何をするにも自分でこなしてきた。割と几帳面な性格なので、部屋はおおむね片付いているし、ゴミ出しのルールも遵守する。きちんと郵便局に郵便物の転送届も出した。そのお陰で、実家の住所が書かれた手紙がこうして現住所に届けられたわけだ。
ポストから手紙を取り出したところ、居合わせたマシューが覗き込みながら言った。
「さすが、リギー。ちゃんと届、出したんだ」
「おまえが出せと言ったんだろ」
「そうだっけ」
転送届を出した方がいいと言ったのはマシューだ。同窓会の通知を直接受け取れないと二度手間になるという理由だ。同窓会なら、クラスラインで済む。そもそも僕宛ての郵便物は滅多にこない。帰省した時にもらっても何の不都合もなかったけれど、言われたとおりに手続きをした。
マシューは僕の手から封筒を取り上げた。
「あーあ、折角の美しい封筒が台無しだ」
そう言われると確かにそうだ。雑居ビルのような封筒は薄いラベンダー色だ。もともとそうだったのか、経年変化なのかわからないが、それなりに綺麗な色だ。薄墨のインクで綴られた手書きの文字は整っていた。一寸の隙もなくきっちりと糊付けされていたが、封筒は薄かった。
「丹波凪子、知り合い?」
マシューが差出人を読み上げた。
「誰だろう。知らない」
「誕生日。しかも特別な二十歳の誕生日だ。恋人からプレゼントを貰えない可哀そうな男に届いた知らない女からの手紙。さて、何が書いてあるんだろう」
「二瑚は熱があって体調が悪い。だから泣く泣く約束をキャンセルしたんだ。プレゼントは用意してあるって。おまえだろ、何もくれないのは」
「誕生日会延期のお知らせを受けて、こうして飛んできたんだ。感謝しろ。それに、これ、これ」
マシューはコンビニの袋を顔の高さまで上げて揺らした。誕生日祝いにとケーキを買ってきたらしい。
部屋に入ると、すぐにマシューはソファにドカッと座り込んで、手紙をゆらゆらと振ってみせた。開けろということらしいので、受け取って鋏で封を切った。マシューはソファの片側に寄って空きをつくりトントンと叩いた。僕は手紙を手にしたままで横に座った。何だかずっと指図されている。少しむかついて顔を見たら、満面の笑みだ。その顔を見せられたら何も言えなくなった。僕は手紙を開いた。中身は便箋一枚だった。
《あなたの父親は人殺しです》
書かれていたのはそれだけだった。けれど、それまでの平凡な日々がその時にフッと消えてしまった。覗き込んできたマシューが、一瞬、表情を硬くした。けれどすぐに、いつものふざけた口ぶりで笑ってみせた。
「リギーの親父、刑務所にいるの?」
「いや、普通の会社員」
「じゃあまだ人殺しがバレてないって訳か」
軽口をたたくマシューは話を真剣に捉えていないようだ。ニタニタを顔に滲ませた。
「たぶん人殺しではない」
「断言できるのか?」
「断言はできないが、この文面に心当たりがある」
実は手紙の文面に覚えがあった。僕の母はちょっとだけ名の知れた作家だ。デビュー作は最初にあげたウェブ小説がヒットして出版に至った。その小説の中で登場人物が同じ文面の手紙をもらう場面がある。手紙を受け取った男はそれを見ても全然心当たりがないのだけれど、僕も同じように心当たりがない。
「封筒が古い。それにリギーの誕生日を狙い撃ちして到着。しかもちょうど二十歳の誕生日ときた。何だか怪しい」
マシューは疑問を謎に昇格させるように、言葉を重ねた。
「そうだろ」と念を押すと、音もなく立ち上がってニタニタを体全体に拡散させた。クネクネと踊る姿が癪に障る。高校ではダンス部だったらしい。しなやかな動きで切れがある。どうやら高校時代の三年間を有意義に過ごしたようだ。最後は上半身を反らしてポーズを決めながら流し目をよこした。
「で、心当たりって?」
「母親が作家だ。白濱雅。デビュー作の中に、この文面を受け取る場面がある」
「どこから驚こうかな。おふくろが作家? デビュー作に同じ文面? ファンレターなら手が込んでる」
そう言いながらもマシューはそれ程驚いていないようだ。
「そう、僕宛ての筈がない。そもそも僕の名前を知っているのがおかしい」
「で、親父は何屋さん?」
「医療機器の営業」
「医者の知り合いから毒薬をくすねて犯行におよんだか」
「今度、帰省した時に聞いてみる」
「え、今すぐに聞かないの? 謎をそのままにするのはリギーらしくない」
「謎って程でもないだろ。説明が面倒だし」
「確かに。関係者が両親なら二人に同時に聞いてみるのがよろしい。それでいつ帰る? その場に同席したいので、この機会にリギーの実家訪問をしよう」
「大それた展開を期待しているようだけど、どうってことない話で終わるよ。わざわざ来る必要がない。がっかりするだけだ」
そうは言ったものの、胸の内はザワザワとしていた。状況を鑑みるとマシューに説明した通りなのだけれど、内心穏やかではなかった。父は会社勤めだが、母のマネージャーを兼務している。作家業に煩雑なスケジュールはないが、母がその手の仕事を苦手としているので引き受けているのだ。母の仕事のことになると父は神経質だ。トラブルには、それがちょっとしたことであっても毅然とした対応をとる。それだけ深く愛しているのだろう。今回も母の小説からの引用だ。悪戯や嫌がらせだとしても父の出方が気になった。
その後母の状況とか小説の内容について聞いてきたので、丁寧に答えた。それなのにマシューは素っ気なく「ふーん」と一言返して話を終えた。けれど僕の実家行きには同行すると宣言した。父への不安もあり結構強めに断わったけれど、マシューは譲らなかった。
「別にいいじゃん。後ろめたいことがある訳でもないだろ。お友達紹介します企画とかさ、作家のご自宅訪問企画とかの名目でいいだろうよ。それとも俺が行っちゃあ、まずいことでもある?」
しつこいマシューにはうんざりしたが、断固として断る理由が思い浮かばず、押し切られた。
「ニコはリギーの親に会ったことがあるのか?」
「ないよ」
「両親への挨拶、俺が先だ。クールなニコは嫉妬もしないか。言っとくけど俺の中でニコはカタカナだから。な、そんな感じだろ」
「僕の二瑚はずっと漢字のままだ」
口角を少しだけあげる二瑚の控えめな笑顔を思い浮かべた。僕はいつもそれに癒される。視線は僕のおでこ辺りに向いているような気がする。それによって目尻が下がるのが可愛かった。
「何を思い浮かべた。きしょい薄笑い。フン。ちなみにこのフンもカタカナね」
「ふん」
「はい、それひらがな」
僕達はいつも他愛もない会話をしながら時間を潰している。それが平凡な日々の時間の潰し方だったのだ。
一日あけて、二瑚と会った。二瑚は会った途端に掌を合わせて、参拝の時のように深く頭を下げた。
「ごめん。誕生日を一緒に祝えなくて」
僕はその仕草にクスッと笑って返した。
「熱は不可抗力。もういいの?」
「頭の屈伸運動で元気を表現してみた」
そう言いながらもう一度深く頭を下げてみせた。直ると僕の顔の高さと同じ位置に二瑚の顔はあった。二瑚はすらりとして背が高い。僕も平均身長より高いが、押しなべて少しヒールのある靴を履いているので同じぐらいになる。顔のパーツは小ぶりで薄めだ。それぞれ主張はないが調和がとれている。
同じ講義を受けてから大学を出た。夕方からバイトが入っていたので、せめて昼飯を一緒に食べたかった。誕生祝の食事は別の日にすると言い張るので、大学から少し離れた中華料理屋に誘った。学生の姿は少なく主婦グループと会社員で賑わっていた。席に座ってから気づいた。
「しまった。病み上がりに中華は重かった。ごめん」
「それでこその中華。脂っこい物かかってきなさい」
二瑚はそう言ったけれど、注文したのはあっさりめの点心セットだ。店のセレクトを誤った感が否めない。気が利かないという自覚はあるが、次の機会に活かされた例がない。空気の読めないついでに僕はコテコテの回鍋肉定食を頼んだ。おまけでついてきた唐揚げ二個のうち一個を勧めたが断られた。いつもなら食べている。念のために確認したのだが撃沈された。
失態で出鼻をくじかれて手紙の話ができないままだ。黙々と食べるしかなかった。二瑚はいつもよりゆっくりと食事をして最後にゴマ団子だけを残した。それからお茶を飲みながら、バッグを探った。
「お誕生日おめでとう。はい、プレゼント」
取り出したのはA4くらいの大きさのラッピングされた袋だ。
「ありがとう。開けていい?」
袋から出てきたのは革製の黒いペンケースだった。僕が使っているのはもうだいぶくたびれている。それを見ていたのだろう。
「替えようと思ってたところ。本革か。高かっただろ」
「でも、ペンケースだから」
そう言うと、残していたゴマ団子を口にいれた。二瑚が完食したのに気をよくして、手紙の話を切り出した。それに付随する説明とマシューの実家訪問の話も付け加えた。僕はペンケースを袋に戻して自分のバッグに入れ、代わりに手紙を取り出した。二瑚は手紙を読んでから元通りに仕舞って裏の差出人を見つめた。それから湯呑を両手で包みこんで暫く黙っていたが、思いついたように言った。
「この住所にこの人を訪ねてみようか」
二瑚の言葉に驚いた。そんな直接的な方法を考えなかったからだ。大胆なマシューでさえも口にしなかった。
「あ、そういう手もあるね。行けない距離でもないよね」
二瑚が少し口角をあげながら頷いた。それからスマホを手に取って何か調べ始めた。
「この住所の近くに桜の名所があるみたい。お花見がてら行ってみよう。違うか。訪問が主役だね。脇役がお花見だ」
世間ではチラホラ桜の開花の話が出回っている。そんなイベントの話にマシューが乗ってこない訳がないので、内緒にすることにした。結局、桜の開花を照らし合わせると、マシューと約束した実家行きが先になった。
実家に帰る日、マシューは南米の布で作ったという変わったデザインのシャツを着て現れた。左右で丈の長さが違うし、袖の形も違う。見ていて何だか落ちつかなかった。僕の様子をみて察したのかマシューが言った。
「これをアンバランスの中の均衡と名付けた。おまえの平衡感覚を服に合わせろ」
そう指南されて全身を捉えようと試みたら、だんだん薄目になってしまった。マシューは大笑いしている。それから僕の実家行きの心構えをするつもりなのか質問をしてきた。
「ラウンジのボーイのバイトをしていることは報告済みか?」
内緒にしている場合は、親受けの良さそうなバイトを考えてきたそうだ。
「知ってるよ。母親は面白そうだから取材させてって言ってる。ちなみに親受けのいいバイトってどんなの?」
「アパレルの展示会のディスプレイ」
「それって親受けいいの? やったことないから取材させてと言われたら困る」
「常に取材ありきか。全てを自分に繋げたい訳だ。小説の題材探しに余念のない強欲ばばあだな」
「言い過ぎ」
「そうかあ。じゃあ訂正、欲張りおばちゃんだ。何か急にほんわかしたぞ」
「それでいい」
マシューの口が悪いのはいつものことだ。それでもラウンジではスタッフから可愛がられている。それにいざ仕事となると、わきまえていて人当たりが良く、客受けがすこぶる良い。実家に着くまでは少し心配していたが、その心配をよそにツボを押さえた挨拶で如才なさを発揮した。母から機嫌よく迎え入れられ、数分後には休日で父も揃ったうちのリビングでかしこまって座っていた。
母は黒服の話を根掘り葉掘り聞いて、欲張りおばちゃんぶりを実証した。
「リギーは律義過ぎて困っています。チップを貰うたびにその客についてるキャストのお姉さんにお礼に行くんですよ。客が俺達にチップをくれるのは俺達の実力だから行かなくっていいって教えたんだけど。そんな律義さ、どちら似ですか」
両親はお互い顔を見合わせて曖昧に笑った。どうやらあまり心当たりがなさそうだ。
「そりゃ、マシューの立場がなくなるわよね。そのバイトもう長いの? 秋に色々教えてくれたんでしょ」
マシューは最初に挨拶代わりに「マシューとリギーの呼び名」のくだりを説明して、そう呼んでくださいと言った。母は「律儀はどちら似?」を意識したのか、呼び名を律義に守った。普段は全然そういう人じゃないのに、マシューの勢いにのまれたみたいだ。けれど流石に息子のことは急にリギーとは呼べないようだ。
「俺は黒服を着てまだ十ヶ月くらいですね。リギーの方が先輩です」
確かに僕はもう一年を超えているので先輩にあたる。だけどそれをスタッフ全員が認識しているかどうか怪しいものだ。マシューは最初から仕事をそつなくこなしたし、人間関係の構築も驚くべき早さだった。そして瞬く間に僕に何やらアドバイスする立場になった。
「昼間は別の仕事でしょ。疲れない?」
「いえ、両方楽しんでやってますから」
それから母はアパレル業界についても質問攻めにした。父は笑うでもなく、話を聞いていないかのように雑誌を読んでいた。僕は母の質問を止めるべく本来の目的である手紙を取りだした。
「誕生日にこれが届いた」
雑居ビルの封筒をテーブルの上に出すと、まず母が覗き込んだ。そして手に取り裏返した。差出人の名前を見た途端に明らかに驚いた様子だ。小さく息を吸い込んで、そのまま呼吸を忘れたみたいだった。その異変は僕を不安にした。
「知り合い?」
父が雑誌から封筒へと視線を移した。
「丹波凪子」
僕が差出人の名前を口にすると、今度は父が少し表情を硬くして封筒を取り上げた。明らかに二人とも丹波凪子なる女を知っているようだ。父は眉根を寄せて封筒から便箋を取りだした。勿論、内容は一目で読み取れる。便箋は机に置かれ、母もそれを見た。
「何、これ。いたずら?」
母の声は曇っている。父の顔は険しさを増して怒っているように見える。
「知り合いなの? これ、あの小説の一文だよね」
動揺を隠せなかったことで、観念したのか母はその言葉に頷いた。
「昔の知り合い。でも、もう何十年も会ってないの。どういうつもりだろ。それにどうして秋宛てなの」
母はデビュー前に小説講座を受講していた。丹波凪子は母と同じ講座に通っていたそうだ。母はその頃にはもう父と結婚していて講座終了後にデビューをはたした。父は講座への送り迎えをした時に丹波凪子と顔を合わせたことがあったという。結局、僕宛てに手紙が届いた理由も、文面が母のデビュー作から切り取られていたのも謎のままだ。二人は丹波凪子がこんなことをする意味が分からないと言った。
手紙が回収されそうになったので、急いでバッグに仕舞った。まだこの手紙には二瑚と一緒に旅をする役目が残っている。父が「捨てろ」と言った。命令するのは珍しいことだ。
マシューは気まずかったのか、手紙を取り出してからは何も言わずに傍観者の立場を保っていた。けれど帰り際に唐突に父に向かって問いかけた。
「お父さん、人殺しですか?」
僕も母もマシューの言葉に呆気にとられた。けれど父は随分失礼な質問を浴びせられたのにも拘わらず、怒り出すこともなく僕が想像できる全ての反応をとらなかった。ただ黙ったまま目を見開いた。
「誰を殺しました?」
容赦のない連射だ。マシューの無礼は珍しくないが、それはあくまで僕限定で許されることだ。これはいくら何でも目に余る。今日の好印象は一瞬で帳消しになった。僕はマシューの腕を取り、無理やり連れだした。ドアを閉める前に見た父の顔は途方に暮れているように見えた。
「ダメだった?」
「だからあれは小説の中の一文だ。実際に父には関係ない」
「だって心当たりありそうだったじゃん」
僕は言い訳ができなくて黙るしかなかった。父の様子は確かにおかしかったのだ。帰り道、マシューはその話題には触れず、いつものユラユラを取り戻した。
「続きはまた今度」
別れ際、マシューはそう言って背中を向けた。その背中を目で追いながら、憂鬱に雁字搦めにされた。靴底に感じた小石は確実に中まで入り込んだ。逆さにして振っても転がり出ずに、居座って何とも嫌な気分だ。
母に電話しようとしたがやめた。状況を把握するのが恐ろしいのと、マシューの言動を繕えるかどうか自信がなかったからだ。父の顔を見るのが精一杯で母がどんな顔をしていたのかも思い出せなかった。けれど手紙を前にして二人とも狼狽していた。そして父は母に関係するという点においてセオリー通りのピリついた感じだった。
《あなたの父親は人殺しです》
これは小説の一文だ。父は一笑に付すべきだった。
僕が連絡しなければ、二人のどちらかがしてくるだろうと思った。戦々恐々として待ったが、反応はなかった。楽観的な見方をすれば二人にとってそれは大したことではなく、気にも留めていないということだろう。けれど心当たりがあって説明が難しくて連絡しようがないのなら、深刻な話になる。数日たっても連絡はなく、判断材料がないことが不安を煽った。石の入りこんだ靴は濡れて重さを増し、歩くのを邪魔し始めた。