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第1章

資料のジャングル

 

 明治時代以降130年余りの雑誌を所蔵している、雑誌の図書館・大宅壮一文庫。膨大な雑誌がある資料の密林に、まずは足を踏み入れた。

 ここで、意外な事実が判明する。思いのほか『水曜スペシャル』について書かれた記事が少なかったのだ。しかし時系列で読んでいくとやはり時代の息づかいや微妙な変化も感じることができた。

 まず1976(昭和51)年『週刊文春』4月15日号で初めて水スペは姿をあらわす。新番組紹介コーナーで見出しは「一万人を集めて湖にドボーン」。

《目下各テレビ局は激烈なスペシャル番組合戦を展開している。そこへこの四月二十一日(水)からNET系の『水曜スペシャル』がなぐり込みをかける》

 ところが、番組内容は局内でも秘密であり、宣伝担当は「こんな番組は初めて」と嘆く。文春が入手した企画書には「海賊に密着したり、一万人を集めて同時に湖に飛び込ませ、どの程度水位が上がるか?」と書かれていた。「バカバカしくておもしろいが、果たして実現可能かしらと首をかしげたくなる」と文春は心配する。記事の最後は柳本猛プロデューサー(当時)の言葉。

「とにかく後発なので正攻法よりもゲリラ作戦で立ち向かう。水曜日には何かが起きると期待してください」

 この時点で水スペの方向性がすでに匂わされていることがわかる。後発というのは日本テレビ『木曜スペシャル』がすでにあるからだろう。

 その2カ月後にさっそく『水曜スペシャル』は話題をふりまく。

《テレビ催眠術で一家3人が頭痛と吐き気に襲われひと騒動!》(『週刊平凡』6月10日号)

 1976年5月末に放送された「天功! 世界初大実験」。引田天功がゲストに催眠術をかける放送を見ていた愛知県の一家3人が番組終了後に頭痛と吐き気を催し救急車で運ばれた。原因はテレビの催眠術のせいではないか? と当事者は主張する。

 これに対し番組の堀内ディレクターは「日ごろから自己暗示にかかりやすい人は、あまり肩をはらず、リラックスして楽しんでいただきたいですね。あれはあくまでもショーなんですから」と記事中でアドバイスしている。ショーだからという番組側に対し、全力で真面目にテレビを見る視聴者という対比である。視聴者にはメタとしてのツッコミ目線などない。テレビに対する絶大な信頼がみえる。

 そして遂に週刊誌に「川口浩探検隊」が出現するのは1984年(昭和59年)。『週刊明星』5月10日号。

《“これが僕のライフワークです”とひたすら探検に命をかける男・川口浩隊長『水曜スペシャル』魔境洞窟、怪奇、衝撃、異常現象、魔神、恐怖、死闘、魔獣、巨大宮殿》という特集。

『週刊明星』の記事の趣旨は「これまでのユニークな番組タイトル」であった。注目すべきは各タイトルを書き出したあとの一言コメント。たとえば「幻の黄金宮を追え!! 地下20階6万人の大市街カッパドキア2000年の衝撃」回には「金ピカの黄金宮殿がカッパモドキを見たように衝撃的だった!!」。

「密林の王者は実在した!!」回には「ターザンもどきトニーに謎の生い立ちの衝撃!!」、「恐怖!! 双頭の巨大怪蛇ゴーグ!」回には「捕獲できずゴックンとナマツバを飲んだもの!」と、ここでもタイトル引っかけた軽妙コメント。

「見ない見ないといいながら、内心、その一声、あの一瞬を待ち望む隠れ川口隊長ファンは多いのです。今後もカゲキな冒険たのんます」という一行もある。この表現で当時の水スペを包む空気がわかる。そして、その文体に当時の“軽チャー”なノリも感じさせる。

 この記事が出た1984年の時代背景を考えると、テレビ界は「楽しくなければテレビじゃない」を掲げたフジテレビが快進撃の時期。『週刊明星』の記事も80年代中盤の変わり目の匂いが感じ取れる。

 そして、パロディソング『ゆけ!ゆけ!川口浩!!』を嘉門達夫(2017年に嘉門タツオに改名)がリリースしたのは、この記事が出た1カ月後。1984年6月のことだった。

 どうやら1984(昭和59)年は水スペにとって重要な年であるらしい。探検隊の衣装を着た嘉門達夫は水スペのパロディソングをさっそうと歌った。

「川口浩が洞くつに入るカメラマンと照明さんの後に入る」「何かで磨いたようなピカピカの白骨」「こんな大発見をしながら学会には発表しない」

 番組を知っている視聴者なら思い当たる「あるある」ネタ。なんとなく感じていたことをツッコんでくれる。視聴者と同じ目線でテレビの中にいる人がテレビをネタにする。今にして思えばこの曲は、お笑い史的にも重要である。

 しかし、当時の私の胸中は複雑だった。中学2年生だった私はクラスの友人が「ゆけ!ゆけ!川口浩!!」と歌うのをみて、顔は笑いながらも微妙な気持ちだった。いや、正直に言うと少しカチンときていた。

「川口隊長、原始猿人バーゴン捕獲」の放送を見て、なぜこの歴史的発見を新聞は報じないのかと不思議に思い、図書館に出かけて各紙を調べた私からすれば探検隊をネタとしてすべて受け止めるのはまだ早かった。「あれ?」という疑問点が浮かんでも、番組自体はまだ私を惹きつけていたのだ。水スペを依然として全力で見ていた。なので、あっさりネタとして消化して楽しんでいる友人たちには複雑な思いがあったのである。

 一方で「水スペを茶化すとしたらそこ? もっとツッコミどころがあるだろう」と嘉門達夫に対して謎の上から目線でみている自分もいた。まさに中2で罹った中2病だ。

 今から思えば、あるあるネタというのは共感の最大公約数を求めなくてはいけないわけで、とくにまだこの時代なら直球表現のほうがいいに決まっている。マニアックすぎるツッコミや番組の描写を嘉門は避けたのだろう。とにもかくにも「大好きな水スペが笑われている」という事実には素直になれなかった。

 しかし嘉門達夫の曲のヒットにより“水スペはネタとして処理する”ことで世の中は合意に達したのだ。それが1984年なのである。私のように川口浩探検隊を全力でみている少年はもうこの時点で少数派になった。

 1984年のバラエティ番組に目を向ければ、バラエティはドリフターズの『8時だョ! 全員集合』の最後が噂されており、実際に翌1985年秋にその歴史を閉じた。視聴率100%男と呼ばれた萩本欽一のアットホームな笑いも同じ。欽ちゃんは1985年の3月にすべての番組を降板した。つくりあげた王道の笑いよりも、破壊的でときにはメタな手法で笑いとばしてゆく『オレたちひょうきん族』のような笑いが時代のトップになった。「川口浩探検隊」がネタの標的になるのも当然だったのかもしれない。

 1984年ごろから潮目が変わったことがわかってくる。ジョージ・オーウェルは近未来小説『1984年』を書いた。そして村上春樹は『1Q84』を書き、現実とは微妙に異なっていく不可思議な1984年を“1Q84年”と名付けたが、1984年は水曜スペシャルにとっても現実が微妙に変わっていく、まさに“1Q84”であったのである。

 そしてこの年1984年の夏、『水曜スペシャル』は週刊誌をにぎわす。水スペには探検シリーズ以外にも人気企画があった。たとえば超能力モノである。これがちょっとした騒ぎになったのだ。

「インチキ超能力捜査官『ワトソン』を登場させたテレビ番組の『舞台裏』」(『週刊新潮』1984年8月9日号)

 特集のリード(説明文)がすごい。

《今時、テレビの“超能力番組”をインチキだというのは、プロレスが八百長かどうかを論じるのと同じくらいヤボなことなんだそうである》

 プロレスも全力で見ていた私にすれば目がくらくらする“大人の目線”である。やはり“1984”で潮目が変わったのだろうか。

 この回の水スペは、アメリカの超能力者ジム・ワトソン氏が富士山麓の樹海に横たわる遺体のありかや、行方不明者の居場所などを透視するというもので、「前編」が1984年7月18日、「後編」が7月25日に放送された。

《とにかく、七月十八日に前篇が放送された直後は、夏休みを目前に控えた子供たちやその母親たちの間でちょっとしたセンセーションが巻き起こったのである》と記事は始まる。

 

『ヤラセと情熱 ―水曜スペシャル川口浩探検隊の「真実」―』は全3回で連日公開予定