第一章 永田町の蜃気楼
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窓から皇居が見渡せる高層ビルの一室では、今しがたまで夕刊部隊の社員たちがきびきびと動き回っていた。それが午後一時半、夕刊が降版すると潮が引いたように人が減った。
国枝裕子は社員が赤ペンで修正を入れたゲラで散らかった机を片付けていた。
日西新聞に中途入社した裕子は、一年間の支局勤務を経て、今日七月十八日、東京本社の政治部に配属となった。
本社勤務初日のため、就活生のような白シャツにグレーのパンツを穿いてきた裕子は、自己紹介させられると思って簡単な挨拶を準備してきた。
だが会社に到着した時は、社内は夕刊の準備で目が回る忙しさで、編集局のトップである服部編集局長に連れられ、原稿を見ては直しを入れる政治部デスクと、あとは内勤作業をしていた記者数人に挨拶しただけ。その中には、今年の十二月までは三十二歳の裕子より年下の記者も何人かいた。
数人規模の支局と違って、百人以上の社員が動き回る本社編集局の光景はなにもかもが新鮮だった。
裕子が去年五月まで勤務していた大手出版社の週刊誌編集部も、締め切り前はバタバタしていた。それでも発売の三日前が締め切りの週刊誌と、締め切りの数時間後には購読者のもとに届けられる新聞とは、切迫感が異なる。
一度、輪転機を回せば、止めて刷り直すのに何百万円ものコストがかかる。ミスは命取りになるにもかかわらず、締め切り直前に入ってきた記事を、デスクと整理部員が軽く言葉を交わしただけで、一度組み終えたゲラに挿入し、たった数分間で組み直された紙面を目にした時には、感動すら覚えた。
「国枝さん、来たぞ」
壁際に並ぶ幹部席の真ん中にある編集局長席から服部に呼ばれた。
後ろでまとめている髪が緩んでいたことが気になっていた裕子は、バレッタを外して髪を強く引っ張り、留め直してから立ち上がる。
編集局に入ってきた初老の男が、両手をポケットに突っ込み、肩をそびやかすようにして窓側の席へと歩いていく。
男はグレーのスラックスのポケットから取り出したスマホと財布を机の上に置き、「よっこらしょ」と独り言ちてから腰掛ける。
窓際を照らす強い陽光を浴びた男の姿が白く煙って、一瞬消えた。
そう見えたのは男の髪の毛、そして口の周りの無精髭までが、見事なまでに白かったからだ。白というより透明に近い。
ふさふさしたその白髪を真ん中分けにし、縁が厚い黒いボストン型眼鏡をかけている。新聞記者というよりは、教壇に立つ大学教授といった雰囲気だった。
「キザさん、すみません、呼び出して」
小柄な服部局長が声をかけると、初老の記者は振り向いた。背は一六三センチの裕子より少し高いくらいだったから一七〇センチくらいか。初老記者は学者風の風貌に似合わない野蛮な声を出した。
「別に構わねえよ。上司の指示ならどこへでも出向くのが一兵卒の仕事なんだから」
眼鏡の奥の目はくりくりして、いささか垂れていた。その垂れ目が人を食ったように、にたついている。
木澤行成──日西新聞政治部に所属しているが、定年は過ぎ、年齢は六十九歳。今は上席編集委員として年契約で働いている。編集委員という名の専門職は各部に数人ずついるが、「上席」とつくのは木澤一人だけだ。
日西新聞に与党・民自党に深く入り込んでいる個性的な名物記者がいることは、裕子の前職の週刊トップでも有名だった。
そこで木澤が目を眇め、服部の背後に立つ裕子を見入った。
「それが、例の仕事をする記者か。まさか女とは思わなかったな。まだ若えじゃねえか」
裕子の体を値踏みするように視線が上下する。その視線は取材先や飲み会などで覚える男性特有の卑俗なそれとは異なる。だが目には蔑みが宿っているように感じた。
「彼女は三十代ですからキャリアは充分ですよ。国枝さん、自己紹介しなさい」
「はい。本日より政治部に配属になりました国枝裕子です。前は奈良支局にいました。政治取材はほとんど経験がないので、よろしくお願いします」
「素人をつけるのかよ。うちは人材難だな」
「キザさんが書ける人間にしろよと条件をつけたからじゃないですか。彼女はうちに来るまでは週刊トップにいました。原稿のキレは奈良支局長からもお墨付きです」
「なんだ、トップ屋上がりか」
死語となった週刊誌記者の呼び名を言った。もっともトップ屋とはスクープ記者の別称で、週刊トップでは昭和の大事件を回顧するような読み物企画を担当していた裕子とは畑違いだが。
「海老沢一徳の連載を始めて、その後は本にまとめるんです。下手に肌感覚で時代を知ってるベテランより、なにも知らない記者の方が、色眼鏡で見ないからいいでしょう。当時のことは全部、キザさんがそばで目撃してるわけだし。あっ、国枝さんは海老沢内閣が発足した頃はいくつだ? 海老沢総理がふるさと政策を打ち出した頃だよ」
服部に振られた。
「平成二年生まれなので、海老沢内閣が発足した三年後です」
「そりゃ、知るわけねえな」
木澤が声に出して笑った。
支局での修業を終えた裕子が東京本社政治部で与えられた仕事が、日西新聞がここ数年力を入れている政治史企画で、昭和の終わりから平成にかけて日本の政治に影響力を持ち続けた海老沢一徳元総理についての連載だった。ただ政客・海老沢一徳の足跡を辿るということは、同時に上席編集委員・木澤行成の記者録の意味合いも兼ねる。
海老沢政権の頃は日西新聞ではなく、新聞社やテレビ・ラジオ局に記事を配信する通信社の記者だった木澤は、海老沢以外にも多くの大物政治家に食い込んだ。
その結果、今も政治の潮目が変わるたびに、とっておきの情報を日西新聞にもたらす。服部局長は当初、自身の見聞を踏まえながら木澤の視点で書いてくれないかと打診したそうだが、「記者が自分のことを書くなんて、そんなこっ恥ずかしいことできるか」と断られたらしい。
「そういうことで彼女が原稿を書くので、いろいろ教えてあげてください。こき使ってくれて結構ですから」
「こき使うもなにも、俺なんか戦力外だろ」
「なに言ってんですか。うちみたいな弱小新聞が戦っていけるのはキザさんがいるからですよ。荘口政権の支持率も下がって、そろそろキザさん頼みになります。キザさんだって使える人間が多い方がやりやすいでしょうし」
「俺も来年は七十だ。いつ編集委員の契約を切られるか分からねえし、局長たっての頼みなら、最後の仕事だと思って協力するけどな」
「なにが最後ですか。七十でやめる気なんてさらさらないくせに。それより私は来年の三月が六十歳の誕生日で、定年ですから」
「おまえさんこそ、その頃には調子よく役員に上がって、居続けるんだろうよ」
木澤は顎をもたげて鼻笛を吹く。鼻毛まで真っ白だった。
役職は局長の服部が上だが、二十五年以上前、当時、経営破綻しかけていた亜細亜通信から請われて日西新聞に移籍してきた木澤は実質生涯契約だ。定年後に再雇用されている記者としては、考えられない高年俸が支払われているようだ。
あまりの存在の大きさに、政治部デスクもつまらない用件では電話もかけられないアンタッチャブルな存在。社内で木澤とまともに口が利けるのは、服部局長だけとも言われている。
「では、あとは任せたぞ、国枝さん」
服部はそう言って、自席に戻っていった。木澤は再び他紙の朝刊に目を通し始めたので、裕子は近くにあった椅子を運び、木澤の机の横に置いて座った。
「連載っていつからやるんだ?」
唐突に訊かれて返事に戸惑うが、答えなくては協力が得られないと、「デスクからは八月中頃には始めてほしいと指示されています」と話す。
「一カ月もないじゃねえか」
「二十日ちょっとですね」
「で、そこに俺は出てくるのか?」
「服部局長からは会社の宣伝のためにも出してほしいと言われています。木澤さんが嫌ならやめておきますが」
「少しくらいなら構わねえよ」
予想外の返答だった。
「いいんですか?」
「老兵は死なず、ただ消え去るのみだ。孫にも自慢できるしな」
「お孫さんがいるんですか」
「四十年以上前に別れた女房との間にできた息子から、一度手紙をもらっただけだけどな。子供ができたんで結婚しますって」
「式には行かれたんですか?」
「行くわけねえだろ。いまさらどの面下げて会えんだ。養育費も払ってねえのに」
孫がいたのは初耳だった。
「じゃあ、行くか」
木澤はまた「よっこらしょ」と面倒臭そうに腰を上げ、机の上のスマホと財布、それに家の鍵のようなものをスラックスのポケットに突っ込む。
「どこに行くんですか?」
「取材に決まってんだろ? おまえ、そのために俺を密着マークすんだろ」
「密着マークなんて」言いかけたが、それなら来るなと言われそうで「はい、そうです」と答えた。
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