公訴事実の読み上げが終わると、裁判長から被告人に黙秘権についての説明があり、続いて冒頭陳述が行われた。検察官が事件の概要を示し、対して弁護人が事件の起きた経緯について述べる。有能そうな外見と語り口があたかもドラマの登場人物のような尾崎弁護士は、被告人の汐美が小学生時代から年の離れた妹の面倒を見てきたこと、妹の健康状態に不安を覚えていたことを語った。

「被告人は、このままでは妹さんの心の病が悪化し、取り返しのつかないことになってしまうのではと心配していました。しかし母親は病院を受診することを許さなかった。被告人は大切な妹を守らなければと、追い詰められた末に犯行に及んだのです」

 そういった背景を考慮した判決をお願いしたいと訴えて、尾崎弁護士は冒頭陳述を終えた。隣に座る汐美は机の上で両手を固く組み合わせ、神妙な顔で目を伏せていた。

 弁護人が着席すると、次は検察側の証拠説明が始まった。これが初めて裁判を傍聴する私にとっては、かなりの難局だった。

 証拠説明というのは、捜査で得られた証拠を提示しながら、被告人が間違いなく罪を犯したということを証明していくプロセスだ。

 取り調べによって分かった犯行当日の被告人の行動。被告人と被害者、そして事件発生時に和室にいたという妹の各々の位置関係が事細かに語られる。傍聴席からは見えないが、裁判官と裁判員たちは証言台の横のプロジェクターに映された写真や見取り図のようなものも、各自の机の上のモニターで確認していた。この過程に、そんなにすべてを説明する必要があるのかと思うほど時間が掛かるのだ。

 殺害については認めているのだから、そこまで事実を提示して証明する必要はないのではないか。全部を記事にするわけではないし手短に済ませてほしいと思ってしまうが、検察側にとってはそれらはすべて、被告人が明白に罪を犯したと裁判官および裁判員を納得させるための大切な証拠なのだろう。

 長々と続く証拠説明に、つい眠り込みそうになっていると、検察官席で動きがあった。女性検察官が一つだけ残されていた菓子折りほどの大きさの風呂敷包みを開けたのだ。その中の二つの透明なケースを見て、途端に目が覚める。

 ケースに収められていたのは、凶器となった物干しロープと包丁だった。女性検察官はケースを掲げるように持ち、弁護人席と裁判官席、さらに傍聴席にも見えるように法廷内を一周した。それに合わせて、男性検察官が二つの証拠品について長さや形状、置かれていた場所、指紋の有無や位置を説明する。

 女性検察官がこちらに近づいてきた時、血痕がついたままだったらと思わず目を背けそうになったが、物干しロープは少し色褪いろ あせて見えるだけで目立った汚れはなく、包丁もきれいな状態だった。被告人の佐伯汐美が使ったあとに洗ったのだろうか。

 人一人の命を奪った凶器を目の当たりにして眠気が吹き飛んだところで、改めて取材ノートに目を落とし、これまで聞いた情報を整理する。挙げられた証拠の中で気になったのは、汐美の供述調書にあった、彼女が母親を刺した状況だった。

 汐美は母親の首を物干しロープで絞め、母親が動かなくなったところでさらに包丁で胸を刺している。だが司法解剖の結果、胸の刺傷には生体反応が見られなかった。このことから、汐美は母親がまだ死んでいないと思い込み、確実に殺害するために包丁を用いたのだと推測された。しかし汐美は取り調べに対し、「母親の体に触れ、脈がないことを確かめた上で刺しました」と供述しているのだ。

 不可解な行動だった。その後の供述で、なぜそんなことをしたのかという問いかけに対し、汐美ははっきりとは答えていない。取調官が「息を吹き返すことを恐れたのか」と尋ねると「そうかもしれない。よく覚えていない」と答え、さらに問いただしたところ「母親を憎んでいたから、もっと痛めつけてやりたかったのかもしれない」と不明瞭な返答をしたと調書には記されていた。これが当時報道された《曖昧な供述》なのだろう。

 凶器について説明を終えると、検察官は次が最後ですと言い添えて新たな証拠を提示した。それは佐伯美波の供述調書だった。

 妹の名前が出た瞬間、ぼんやりと宙を見ていた汐美が、はっとしたように検察官席へ顔を向けた。やはり美波のことが気にかかるのだろう。男性検察官が調書を読み上げる。

「夜の六時半頃、私が和室でゲームをしていると、部屋の外で足音や、台所の収納を開け閉めする音が聞こえました。しばらく前に母が帰宅していたので夕飯の支度かと思ったのですが、そのまま足音が遠ざかっていったので不審に思い部屋を出ました。いつもリビングにいる姉の姿がなく、母の洋室から人のいる気配がしたので、何をしているのかとドアを開けました。すると布団の上に母が仰向けで寝ていて、胸の真ん中に刃が半分隠れるほどの深さで包丁が刺さっていました」

 汐美は母親の体の横に膝をついた体勢で、こちらに背を向けていたそうだ。美波が「何してるの」と大きな声を出したところ、汐美は母親の胸に刺さった包丁に手をかけた。

「それを見て怖くなり、すぐそばが玄関だったので鍵を開けて外に逃げました。助けて、と叫んだら下の階の人がドアを開けた音がしたので、警察を呼ぶように頼みました」

 美波は団地近くのコンビニに逃げ込み、店員に警察への通報を求めた。その際に姉が母親を包丁で刺したようだと伝えた。そして駆けつけた警察官が母親の遺体のそばに座り込んでいた汐美を現行犯逮捕した。

 事件の状況を聞き取ったのち、取調官は美波に、汐美の性格や精神状態、当時の暮らしぶりについて質問したようだ。調書の内容は妹から見た汐美の現状へと移る。

「姉は忙しかった母に代わって、幼い頃から私の面倒を見てくれました。そのことはありがたいと思っていますが、学校にも行かず、働きにも出ずにずっと家にいる姉は、普通ではないのかもしれないと感じていました。私はオンラインゲームで友達とおしゃべりしながらプレイしたり、たまに外で会うこともしていましたが、姉には友達は一人もおらず、私と母以外で会話をするのは、スーパーやコンビニの店員だけだったと思います」

 世話をしてきた妹にそんな目で見られていたと知って、どんな思いでいるのだろう。被告人席の汐美は無表情のまま、机の上に置いた自身の手に視線を落としていた。

 さらに美波の供述調書では、事件前の汐美の様子が語られる。

「事件の半年ほど前から、姉の言動がおかしいと感じることが増えました。私が自分の部屋にいる間、隣のリビングでずっとこちらの気配を窺っているんです。そしてゲームを何時間やっていたとか、何時に寝て、何時に食事をしたとか、そういうことを記録して私に伝えてくるようになりました。ノートにびっしり私の行動を書き込んで渡してきて、こんな状態は異常だから、病院に行こうと言うんです」

 初めは心配してくれているのだと思ったが、次第に汐美の行動に変化が現れたという。

「無理やり、腕を掴んで部屋から引っ張り出そうとしたり、『そんな生活をしていて恥ずかしくないの?』とか『毎日ゲームばかりしている美波には生きている価値がない。死んだ方がいいんじゃないか』などと罵倒されたりしました。ゲーム機を取り上げて、床に放り投げられたこともあります。姉は大人しい性格で、今までそんな乱暴をされたことはなかったんです。それが急に私に対して攻撃的になって、姉が違う人になってしまったみたいで怖かったです。まるで世話をさせられてきた恨みを、晴らそうとしているように思えました」

 調書を読み上げていた検察官は、そこで言葉を切った。そして対面に座る汐美を厳しく睨み、最後の一文を読み上げた。

「だから姉が母の胸の包丁に手をかけて、血走った目で私の名前を叫んだ時、姉は私のことも殺すつもりなんだと思って逃げ出したんです」

 

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