改めて学校の教室より少し広い程度の室内を見回す。傍聴席を隔てる柵の向こうの中央にマイクの置かれた証言台。証言台を挟んで右が弁護人席、左が検察官席となっている。証言台の向かいは書記官席で、その奥の一段高くなっているのが裁判官と裁判員の席だろう。もっと厳粛な雰囲気を想像していたが、検察官や弁護人は書類を広げて打ち合わせをしていたり、モニターの動作確認をしていたりと、まるで会議前の段取りをしているかに見えた。
だが正面の扉が開き、黒い法服姿の三人の裁判官たちが入ってくると、途端に法廷の空気が引き締まった。厳しい顔の年輩の裁判官が裁判長らしく真ん中の席へ。無表情で人形のような面立ちの中年の女性裁判官が向かって左手へ。そして一番若い――と言っても私より五、六歳上くらいの長身の男性裁判官が右手の席に着く。
事前に勉強したところによれば、裁判長から見て右側に座る裁判官を右陪席、左側に座る裁判官を左陪席と呼ぶらしい。よって私から見て右に座っている男性の裁判官は、ややこしいが左陪席となる。
「不知火さんだ。今日の裁判は面白くなりそうだぞ」
話し声が聞こえて目をやると、中央の最前列にいる例の傍聴マニアの二人組が興奮した様子で目を輝かせている。
不知火というのは、三人いる裁判官のうちの誰かのことだろうか。面白い裁判というのが何を指すのか分からないが、どうやら有名人らしい。裁判官席へ視線を戻そうとした時、弁護人席側にあるドアが開き、紺色の制服の女性刑務官が現れた。その刑務官の背後に隠れるようにして、ブラウスに黒のスカート姿の小柄な女性がうつむいて入ってくる。
事件のニュースでも何度か見ているはずだが、こんな顔だっただろうか。記憶があやふやなほど特徴の薄い、地味な顔立ちをしていた。目も鼻も小作りで、少し厚めの血色の悪い唇は真一文字に結ばれている。だが手錠をはめられ、後ろに続くもう一人の女性刑務官に腰縄を持たれているということは、彼女が間違いなく被告人の佐伯汐美なのだ。
本当に、こんな普通にしか見えない女性が、自身の母親を殺したのだろうか。
手錠を外してください、と裁判長が声をかけると、刑務官が汐美の手錠の鍵を外す。されるがままの汐美は、その様子を他人事のようにぼんやり見下ろしていた。
汐美が弁護人の左に座ると、緊張した面持ちの裁判員たちが入廷してくる。若い女性が二人と中年の男女、若い男性が二人という取り合わせの六人が裁判官席の両脇に並んだところで、検察官と弁護人がそれぞれ名前を述べた。検察官たちの名前は聞き流してしまったが、スリーピースの弁護士の尾崎篤彦という名前は、その優雅な響きとよく通る声のおかげで耳に残った。
次は裁判官たちが名乗る番だ。先ほど噂されていた不知火というのはどの裁判官かと注目していると、まず左陪席の男性判事が立ち上がった。そして立ち上がると同時に法服の裾を引っ掛けたらしく、椅子がガタンと大きな音を立てて後ろに倒れた。
長身の男性判事は、自分の立てた音に心底驚いた顔でその場に固まった。見開かれた目はくっきりとした二重で、高い鼻梁に対して薄く小さな唇がどこか据わりの悪い印象を与える。色白で額が広く、真ん中分けの前髪は耳の上辺りできれいに揃えられていた。
彼はぎこちない動きで失礼しましたと頭を下げ、椅子を起こそうと腰をかがめた。すると机にお尻がぶつかり、書類の山が床にぶちまけられる。立ち上がった書記官や尾崎弁護士、被告人の汐美まで足元に落ちた書類を拾ってやるという有り様だった。上擦った声ですみません、と謝りながら慌てて書類を集めた判事が、ようやく席に戻って名乗った。
「裁判官の不知火春希です」
意外にも、このそそっかしい左陪席の裁判官が不知火判事だった。そろそろと腰を下ろした不知火判事はいたたまれない様子で顔を伏せ、書類の束を揃えている。傍聴席に視線を移すと、傍聴マニアの二人組は笑いをこらえるような表情でうなずき合っていた。彼らが「面白い」と言っていたのは、こうした失敗をしがちだという意味だったようだ。
呆れた顔の右陪席の女性判事のあとに、表情を崩さず裁判長が名乗ると、一同が立ち上がる。開廷の宣言とともに礼をして、ついに裁判が始まった。
まず裁判長の人定質問ののち、検察官が公訴事実を述べる。
「被告人は令和三年四月九日の午後六時半頃、神奈川県横浜市東区緑川町七一一番地の市営住宅十七棟四〇二号室において、被告人の母親である佐伯昌子の頸部に物干し用ロープを巻きつけ殺意をもって圧迫し、被害者を行動不能とさせたのちに胸部を包丁で刺し、結果殺害したものである」
裁判官から公訴事実に違っている点はあるかと問われ、被告人の汐美は不安げな顔で隣の尾崎弁護士を見た。尾崎弁護士が大丈夫だというようにうなずくと、消え入りそうな声で「間違いありません」と答える。公訴事実については争わない。それはつまり殺人を犯したと認めるということだ。
現行犯逮捕されているのだから、それは当然だろう。だが、そうするとこの裁判の争点は何になるのだろうか。法の専門家ではない裁判員が参加する裁判員裁判では、公判前整理手続といって事前に検察側と弁護側がどんな証拠を提出し、どのような主張をするかを明らかにすると聞いている。双方の主張に大きな食い違いがなければ、やはり量刑の重さのみを争うことになるのか。映画やドラマの法廷ミステリーと現実の裁判は違うのだと分かっていても、少々地味でがっかりしてしまう。
「不知火判事の比類なき被告人質問」は全3回で連日公開予定